第八話 容疑者うさぴゅー
早退したことで予定よりも早く仕事を終えた千早は、地下室を出た。
地下室からは分からなかったが、外はまだ明るい。
「この時間なら、行ける……」
千早には、前から目星をつけていたラーメン屋があった。
食べてみたいとは思いつつ、人が多い時間帯は避けたい。そうして、いつまでも行くに行けないでいたラーメン屋だ。
この半端な時間帯であれば客は少ない。混雑に巻き込まれることもなければ、外に並んでいる人を気にして急かされるようにラーメンを食べる必要もない。
なにより、件の店は食券式だ。店員と会話する必要がない。なんとも素晴らしい。
千早は深呼吸を一つして気合いを入れると、鍔の広い大きな帽子と地味な黒いジャンパーを着て、マスクを装着する。
いざ行かん、と千早はアパートを出た。
シネヤカフンには酷い目にあわされたが、結果としてはオールラウンダーは無事で、こうしてラーメン屋に行く機会にも恵まれた。転んでもただでは起きないのだ。
ちょっと得した気分で千早はアクター向けのアパートが立ち並ぶ住宅区を抜けてバスに乗る。
のんびり揺られて停留所につき、ラーメン屋に向かった。
「……狙い通り」
店先に並ぶ人はなし。営業中の札が掛かっており、換気のためか、待ち時間がないアピールか、店の扉は開いている。
恐る恐る店に入ると、店主がちらりと見た。
千早に緊張が走る。
店主が入り口横の食券機を指さした。
「いらっしゃい……。注文はそちら……」
グッと、千早は心の中でガッツポーズを決める。大声でいらっしゃいを叫ぶ陽気な店ではないと事前にネットで調べがついていたが、この店主の物静かな空気感は素晴らしい。
マスクの下でうへへと笑いながら、千早は食券機に千円札を入れる。
注文はネットで調べて決めている。
――和風だし塩ラーメン特製大玉エビつくね入り。これ一択だ。
迷わずに食券を購入した千早はカウンター席にあるチケットクリップに挟む。
店のシステムを事前に調べてきた千早の迷いのない動きに、店主がうっすらと笑ったのが見えた。
物静かでともすれば無口だが、悪い人ではないらしい。
店内には店主と千早、それに常連らしい男性の三人だけ。誰も口を開かない。店内に小さな音量で流れるジャズがキッチンの音を程よくかき消していた。
ほどなくして千早の前に注文の品が置かれる。
ふわりと上品に漂うエビの香り。澄んだ和風スープは昆布とハマグリから取っているらしく、エビの香りを邪魔していない。
チャーシューはなく、大きなエビつくねとレンコンの素揚げ、シャキシャキした水菜が乗っている。
写真で見た通り。いや、写真以上においしそうだった。
千早はマスクを取り、割りばしとレンゲでスープの下に隠れたちぢれ麺を掬いだす。
コシのあるちぢれ麺はエビの香りを運び込み、和風だしとエビの旨味を口の中に届けて小麦の香りで包み込む。
信じられないほど旨い。
レンゲでスープを一口飲み、箸で麺を持ち上げるたびにワクワクしてくる。
エビのつくねも抜群に旨いが、それ以上にエビつくね、レンコンの素揚げ、シャキシャキ水菜とそれぞれの触感の違いが楽しくなる。
ラーメンを味わっていた千早だったが、ぞろぞろと足音と話し声が近付いてくるのに気付いて顔色を変える。
まさか、のんびりと食べ過ぎて混雑する時間帯まで居座ってしまったのかと、ちらりと壁掛け時計を見た。
まだ混雑するには早い時間だ。しかし、これだけ美味しいラーメン屋なら空いている方が珍しいくらいだろう。
ともあれ、麺がのびる前に食べた方がよさそうだと、千早は少し多めに麺を頬張った。
団体客の目的はやはりこのラーメン屋だったらしく、開けっ放しの入り口をくぐってぞろぞろと入ってくる。そのまま慣れた様子で食券を購入し、千早の後ろのテーブル席へと座っていった。
パーソナルスペースが広すぎる千早は少し緊張しつつ、それでもこのラーメンを味わって食べないのは勿体ないと集中する。
団体客がテーブル席でどこか深刻な口調で話し始めた。
「――大隈さん、襲撃ってのはガチ?」
大隈、と聞いて千早は一瞬動きを止める。
ちょうど、今回の依頼の現場監督でもある『新界ツリーハウジング』の代表者が大隈建一だ。
困惑する千早に気付くはずもなく、背後の団体客は話を続ける。
「まだ未確認だが、映像記録の分析ではオールラウンダーがバッテリーを撃ち抜かれたのが写っている」
「つっても、シネヤカフンのせいで動けないでしょう? あのチャフもどき、かなり強烈ですよ?」
「発砲音が聞こえたという証言がない。シネヤカフンで動きが止まったところを狙撃されたんだろうな」
質問に答える声は、千早が依頼で聞いた大隈建一の声に酷似している。
まさかこんなところで依頼上の上司にあたる現場監督と出くわすとは思わなかった。
千早はドギマギしつつも、震える箸でエビつくねを摘まむ。
「……え、えび、エビつくね、ぷりぷりでおいしい」
現実逃避である。
目の前のラーメンに注意を向けるための言霊だったが、声が震えて台無しだった。
後ろの団体客は深刻さを増した空気で話している。
「でも、『甘城農業開発総合グループ』の依頼ですよ? 農林水産省が噛んでいるグループです。喧嘩を売る勢力なんて限られるでしょう? 事故ってことは?」
「実は、シネヤカフンの通信障害が発生した直後に現場を離脱したオールラウンダーがいる」
「……ん?」
身に覚えのある話に、千早は思わず食べる手を止めた。
「うさぴゅーとかいう仕事用とは思えないふざけた名前の、つい最近作られたばかりのアカウントだ。実行犯か、共犯か。無関係とも思えない。注意しておこう」
「――げっほ!」
背後からの流れ弾に撃ち抜かれて、千早はむせる。
店主が驚いた顔で振り返り、コップに水を入れて差し出した。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、です……」
店主に心配されながら、千早は味を感じなくなったラーメンを食べきり、店を後にした。
「……なんでぇ?」
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