第4話「名前のない殺人鬼」

 そういうわけで、僕は十一朗に促されたその足でリサちゃんに謝りに行くことになった。

 正直、かなり気まずい。いや、気まずいとか言える立場じゃないのは分かってるんだけど、それにしたっていまの僕に目の前のリサちゃんの部屋の窓をノック出来る勇気があるかと言えば、はっきり言って微塵もない。しかし恐ろしいことに僕の部屋の窓からは十一朗がじっと見張っているし、結局明日にはリサちゃんと顔を合わせることになるわけだし、それに謝らないといけないのは事実だ。そうとも。僕は明日で良いなんて抜けたことを言っていたが、十一朗が機会を作ってくれたのだ。すぐに謝り、すぐに仲直り、これが最良なのは間違いない。むしろ僕はあの場ですぐにリサちゃんを追いかけるべきだったから、これでも遅すぎるくらいだ。ノックを躊躇ってるあいだにもどんどん時間は過ぎているぞこんなものは早ければ早いほどいいのだ早くしろ知介――と僕は自分に言い聞かせる。

 そして僕はひとつ、深呼吸をしてからリサちゃんの部屋の窓を叩いた。

 するとリサちゃんは僕が窓の外にいることに気付いていたのか、それともたまたま偶然窓の近くにいたのか、すぐにカーテンと窓を僕に開放してくれた。

「……どうぞ」

 リサちゃんはもう怒っている様子を隠そうともしていなかった。目を細めて僕を睨んでいる。怒っていると言うよりはぶすっとしていて不機嫌な印象だったが、どちらにしろその原因を作ったことには変わりない。いつもより感情が顔に出ているのは新鮮な感じだったが、そんなことを言っている場合じゃない。

 僕は招かれるままに「お邪魔します」と断ってから、鉛のように重い足を引きずり、リサちゃんの部屋へと押し入った。

 リサちゃんの部屋へ来たのは一ヶ月ぶりくらいだろうか。大きくてふかふかで寝心地の良さそうなベッド、そしてベッドの上にはいくつかのぬいぐるみやなんかが置いてあって、壁紙はほんのり桃色で全体的に明るくて、いかにもリサちゃんの部屋という感じでめちゃくちゃかわいい。住みたい。ただ僕の部屋の方が遊び道具が多いし、それにリサちゃんのお気に入りのクッションもあって、結局集まるのはいつも僕の部屋なのだ。

 僕が部屋に入ったあと、窓を閉めるリサちゃんが僕の部屋に向かって手を振っているのが見えたが、多分十一朗に手を振っていたのだろう。くそ、勘の鋭いリサちゃんは、僕が十一朗に促されてここにやってきたことに気付いたに違いない。面目も何もあったもんじゃないな。

 リサちゃんは窓とカーテンを閉めてから、ベッドの上に座った。僕は床の上に座り、リサちゃんを見上げる構図になった。

「それで」リサちゃんは努めて冷静に切り出す。「どうしたの、知介?」

 リサちゃんの表情は、先ほどよりも、いくらか和らいで見えた。十一朗の顔を見て、少し落ち着いてくれたのだろうか。しかしそうは言っても彼女だって殺人鬼なのだ。そこから生まれてくる空気は、特にここがリサちゃんの部屋――つまり彼女の縄張りであることもあり、幾分かぴりぴりとしていた。

「えっと……」

 僕はリサちゃんの問いに言い淀む。いや、問いそのものと言うよりは、この彼女の縄張りにおける空気が、僕を萎縮させているのだ。

 しかし残念なことに、この部屋には逃げ場がない。リサちゃんの縄張りはそのまま罠でもあり、砦でもある。身ひとつで挑むには、無謀すぎたかも知れない。

「知介」

 網にかかって身動きのとれない僕に痺れを切らしたのか、リサちゃんが先に口を開く。

「あなた時々、わたしが殺人鬼だってことを忘れているんじゃないかしら」

 ベッドが軋んだ。

 リサちゃんが立ち上がったらしいが、しかし僕の背中はいつの間にか床を背にしていて――眼前にはリサちゃんの顔があった。一瞬の出来事に、思考が止まる。

 少し遅れて、身体に圧迫感を覚えた。

 リサちゃんが馬乗りになって、僕を押し倒したらしかった。ベッドの上にいたはずのリサちゃんがほんの刹那の間に、眼前数センチ、鼻と鼻が触れ合いそうな距離にいた。

 首筋には冷たい感触がある。何か細い、金属の板を押し当てられているようだ。きっとこれは、リサちゃんがいつも腰に忍ばせているサバイバルナイフに違いない。

 ――つまり僕はいま、殺人鬼に身体の自由を奪われ、ナイフを首に突きつけられているのだ。

「あと二センチ。ナイフを横に動かせば、頸動脈ね」

 背中がじっとりと湿りはじめた。

 ――ただ純粋に、殺されると思った。

 首に当てられたナイフは僕の体温で、もはや熱を帯びている。

 リサちゃんは冷たい目で僕を睨む。

「いいこと、知介。殺人鬼と関わり合いになるということはね、だって、起こりえるのよ」

 僕はそれを理解していたはずだ。

 本来なら、それを理解することが、リサちゃんの隣にいるための最低条件だったはずだ。

 僕はそれを蔑ろにしてしまった。

 リサちゃんは常々、僕にそれを伝えてくれていたはずなのに。

 僕がそれを裏切ったのだ。

「――知介」

 リサちゃんの声が、少し震えていた。

 僕はリサちゃんの目をじっと見ていた。

「命乞いを、なさい」

「…………」

「泣いて謝りなさい。死を恐れなさい」

 ――命乞いを、すべきだろうか。でも僕の口は動きそうにもない。この期に及んで、僕は恐怖で固まっているのだ。喋った瞬間に、首に真一文字の線が入れられるなんて、そんなことを想像している。しかしそもそも、僕は命乞いをしようだなんて、少しも思っていなかった。死ぬのはもちろん嫌だけど、リサちゃんにだったら構わない。

 僕は自分の思考にある種の悪寒を抱く。

 ああ――殺されたいほど、彼女が好きだ。

 ――そう思うと、急に恐怖が抜け落ちた。

 冷たい目のままのリサちゃんをしっかりと見つめ返して、僕は言う。

「リサちゃん、ごめんね」

「…………」

「本当にごめん」

「……もっと、考えて動いて」

「うん」

「わたしの言葉を、あまり軽んじないで」

「……うん」

「もっと命を――大事にして」

「うん」

「嘘をつかない知介のことなんて、好きよ。だから――」

 リサちゃんは少しだけ、ナイフを当てる手に力を入れた。

「――このまま好きで、いさせてね」

 僕はリサちゃんを、裏切ってばかりだ。

 僕は自分の気持ちに嘘がつけないのだと思う。

 直情的で愚かで、自分の気持ちばかり優先してしまう。正直者と言えば聞こえは良いが、正直というのは嘘と同じように、単なる利己の発露でしかない。正直であることも嘘つきであることも、結局は自分本位の振る舞いに過ぎないのだ。

 それならせめて、僕は正直でい続けなければならない。

「人を殺しちゃダメだよ、リサちゃん」

 僕は喉に当てられたナイフの鋭さをなぞるように言う。

 これは僕が殺されたくないということじゃない。誰も彼も、殺されるべきではないのだ。僕なんかは、本当は殺されたっていい。リサちゃんに殺されるならそれは本望だ。僕が人じゃなければ、僕のことを何度殺してくれたって構わない。

 けれど残念ながら僕は人だ。人の僕が殺されたいなんて言うべきではないのだ。僕が人である以上、僕はリサちゃんに殺されるわけにはいかないのだ。

「殺人鬼で、ごめんね」と、リサちゃんは冷たい目のまま口にして――僕の喉元から、ナイフを離す。そして僕の上から居退くと、ナイフを背中のケースに仕舞い、僕はその隙に上体を起こした。

 リサちゃんはまたいつも通りの無表情に戻っていたけれど、殺気のようなものはなくなり、どうやら僕は許してもらえたらしい。

「――知介、痛くなかった?」

 むしろリサちゃんは、いくらか申し訳なさそうにしていた。

「びっくりして、ビビってただけだよ。大丈夫」

 情けない限りだが、僕はリサちゃんの前では正直でいようと思っている。今回みたいに間違ってしまうこともあるけれど、それでも――

「ありがとう、リサちゃん」

「わたしの方こそ……。ねえ、知介。ひとつだけ約束して? もしあなたが知らない人と関わり合いになったら、なるべくわたしに報告をして頂戴。何もひとり残らず、つぶさに報せて欲しいと言うわけじゃないわ。今回みたいに……そうね、引かれ合うように出会った人のことは、できる限り教えて欲しい」

「分かった。分かったよ、リサちゃん」

「約束よ――ゆびきりでもする?」

 リサちゃんは僕に向かって、その白く細い小指を立てた。

 殺人鬼とのゆびきりは、なんだか実現性が高そうだ。なんて思いながらも、僕は躊躇いなくリサちゃんと小指を結び、声を合わせる。

「ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのます」

 小さな約束に僕は心臓を預ける。

 僕がリサちゃんの気持ちの全てを知ることは未来永劫ないだろうけど、それでもこの約束で、リサちゃんの心が少しでも穏やかになるのならそれでいい。

「ゆびきった」

 小指と小指が離れた時、リサちゃんが少し微笑んだような気がした。



    ★



「なるほどなるほど、その子があれね、リサちゃんね。はいはい、なるほど。かわいすぎる。リサちゃん、私の妹にならない?」

 僕と連れ立ってきたリサちゃんを見るなり、ドゥ子さんは神妙そうな顔でそう捲し立てた。

 土曜の公園、今日は都合よくノボルたちも用事でいない。それでも心なしかいつもより人の多い公園の片隅で、僕たちとドゥ子さんはお互いの出方をうかがうように向かい合って立っていた。

「いやリサちゃんは妹になんないよ。何言ってんのドゥ子さん」

「なら……ない? あ! いや待てよ? シロスケくんは私の弟じゃん?」

「ちがうよ」

「つまりシロスケくんとリサちゃんが結婚してくれれば、リサちゃんは私の義妹いもうとに……。やば、天才すぎ。偏差値高すぎて健康診断に引っかかっちゃうわ。それでいこう」

「マジで何言ってんの?」とは言うがリサちゃんと結婚出来るならドゥ子さんの弟になるのも悪くないだろう。「で、どうするリサちゃん。僕たち結婚する?」

 しかしリサちゃんは僕とドゥ子さんのやりとりなんて気にも止めず、素早く話を進める。やっぱ好きだな、そういうとこ。

「あなたがジョン・ドゥ子ね。はじめまして。わたしは兵器最終つわのきりさ。殺人鬼よ」

「――ええ、はじめまして、リサちゃん」

 リサちゃんが場の空気を変え、ドゥ子さんも心なしか真面目な表情になる。僕が意味もなく背筋を伸ばすと、二人は静かな応酬をはじめた。

「あなたのことを捜していたわ。未だ名前のない殺人鬼のあなたを」

「ふふ。君みたいなかわいい子が私を? 興奮しちゃうな」

「――殺人鬼、ジョン・ドゥ子。端的に言うわ。あなたの身柄を殺人鬼組合に預けて頂戴」

「殺人鬼組合……って何?」

「殺人鬼がうまく社会に適合出来るよう作られた、互助組織といったところかしら」

「殺人鬼、ね。昨日シロスケくんから聞いたよ」

「シロスケ……?」

「君の婚約者のニックネーム」

「そう……まあいいわ」

「それで? その殺人鬼組合ってところに行ったら、私はどうなんの?」

「悪いようにはされない。本当よ。組合本部はいわゆる精神病院だから、行くことにそもそも抵抗がある人もいるでしょうけど、殺人障害が寛解するように支援してくれるわ」

「そう……もしも従わなかったら?」

「なるべく穏便に、無理矢理連れて行くことになるわ。基本的に、未知の殺人鬼を野放しにはしておけないもの」

「ふうん、なるほどね。――殺人鬼、ってのは病気なんだ」

「殺人鬼組合では病気とみなしている。世間一般に、広く知られたものではないけれど。殺人障害と呼ぶこともあるわ」

「寛解ってことは、完治しないんだね」

「ええ――死ぬまで治らない」

「……死んでも治らないってことは?」

「わたしが知る限り、確認されてない。……殺人鬼とは、殺人鬼である痕跡……報道、噂話、伝承、そんなものが残ることで観測される。あなたの場合は噂話ね」

「どんな噂が?」

「夢の中で、誰かが殺された。殺害した者、殺された者、いずれも知人であるが、誰もそれ以上は思い出せない。――あなたの話を知介から聞いて、分かったわ。つまりあなたがあなたの分身を殺すと、あなたの分身の元になった人の記憶から、あなたがいなくなってしまうということね」

 ――――――。

 そういうことか。色々と合点のいく話だ。

 ドゥ子さんの「イメージ」である分身は、他人の記憶を元にしたものだ。だからその分身を殺した時、その記憶がなくなってしまう。

 これが噂話の正体が判然としなかった理由だ。つまり誰も彼も、ドゥ子さんのことをひとつも憶えてないのだ。

「でも知介や、その友達の記憶からあなたは忘れられていない」

「……確かにそうだ。じゃあ僕のイメージで現れたドゥ子さんは、まだ殺されてないってこと?」

「あるいは……何か分身が出現する条件がある」

 リサちゃんは少し考えてから「名前、かしらね」と言った。

 名前?

「知介、あなた、彼女の本当の名前が分かる?」

「え、いや、分かんないけど」

「名前を隠している、ということは、きっと本当の名前を知られることが、分身が顕現するための条件なのね」

「――すごいなリサちゃん。そんなことまで分かるんだね」

「似たような殺人鬼を知っているだけよ。……ジョン・ドゥ子。あなたの、目的は?」

「目的……か。それはもちろん、私分身を、全て殺すことよ」

「つまり……これから誰にも本当の名前を知られず、分身がこれ以上に現れないようにしてから、全ての分身を殺し回っているわけね」

「そういうこと。残りの分身を殺してしまえれば、あとは私を煮るなり焼くなり、好きにしちゃっていいよ。――だからまだ私は、この町から離れることは出来ない」

 ドゥ子さんの言葉にリサちゃんは少し考えるようにしていたが、やがて「分かったわ」と返した。

「……分かったわ。残りの分身は、あと何人くらいいるのかしら?」

「三人、かな。――私の自殺旅行もいよいよ大詰め、この町を出て、この町に帰ってきた。この町で、全てが終わり。私はようやく、私だけになる」

「それじゃあ……二日後の放課後、またここに会いに来るわ。二日後までに、ひとりになっていてね」

「――うん、分かったよ、リサちゃん」

「約束はしてもらわなくていいわ。あなたがひとりだろうと、三人だろうと、いずれにしてもわたしはあなたにまた会いにくるだけだから」

 そう言うと、ドゥ子さんの返事も待たずに、リサちゃんは踵を返してその場を立ち去った。僕はドゥ子さんの顔を見たけれど、うまく表情が読み取れなかった。思い詰めたような、深く考え込んでいるような、少なくとも前向きな表情には見えず、しかし僕はリサちゃんについていくしか出来なかった。

 でも、ダメだ。

 絶対にダメだ。

 僕は直感的に、ここでドゥ子さんに何か声をかけなければならないと感じて――

「ドゥ子さん、またね!」

 少し離れてからかろうじてそう叫び、手を振った。

 ドゥ子さんはそれに気付いて、ぎこちなく笑ってから手を振り返してくれる。

 僕はもう一度めいいっぱい手を振ってから、先に立ち去るリサちゃんのあとを追った。

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