第3話「ジョン・ドゥ子I」
廃工場に入って見つけたドゥ子さんは、「その人」に襲いかかっているように見えた。
手に持った鉄パイプのようなものを振りかぶり、いままさに「その人」めがけて真上から振り下ろそうするところだった。
しかし、相対する「その人」の手さばきは優雅そのもの。
ドゥ子さんの大振りの動きなど見切るまでもなかったのだろう、さっと横に翻って鉄パイプを避けたと思う刹那に――「その人」は手に持ったナイフで一閃、まるで定規で線を引くかのように、ドゥ子さんの喉を真一文字に切り裂いた。
――――――――。
僕が工場に入ってから、何分も経っていないだろう。
本当に一瞬の出来事だった。
ドゥ子さんが、殺された。
それはあまりにもあっけなく、唐突な出来事だった。
誰かに首を切られて、ドゥ子さんが殺されたのだ!
僕は動揺したが、しかし裏腹に、思っていたよりは冷静だった。――それはいくらなんでも現実離れした出来事だったからかも知れない。
それに……ある違和感もあった。
様々な思考が僕の動きを止め、そのせいもあってか、ドゥ子さんが殺されたならここでは静かにしておくべきだと、沈黙を選択出来たのだ。
喉を切り裂かれたドゥ子さんは膝をつき、床に倒れる。
しばしの静寂が、埃っぽい工場の中に落ちる。
日は傾き、窓から射し込む黄色い光が「その人」の輪郭を拾う。
僕はその殺人犯の顔をしっかり見てやろうと、物陰から目を凝らした。
長い睫毛、すっと通った鼻筋、少し薄めの唇――伏し目がちに佇むその姿は……
信じられないことに、しかし、ジョン・ドゥ子そのものであった。
それこそが、奇妙な違和感の正体だ。
僕は工場に入ってドゥ子さんを見つけた時、佇まい、居姿、景形から「その人」こそがドゥ子さんだと思ったのだ。
しかし鉄パイプを持つドゥ子さんの方の顔がしっかり見えていたので、それを錯覚だと感じていた。しかし――つまり、錯覚ではなかったということだ。
ジョン・ドゥ子を殺したのもまた、ジョン・ドゥ子であったということだ。
――僕は全てを理解したつもりになる。
もちろんそれは気のせいだが、しかし、ある一点に於いて納得したのは事実だ。
奇妙で、奇天烈で、あり得ない出来事が目の前で起きた。こんな荒唐無稽なことを受け入れるだけの準備が、あるいは覚悟が、僕にはあった。
つまり、ジョン・ドゥ子は、
やはり殺人鬼なのだ。
「――これで、あとは」
ドゥ子さんを殺したドゥ子さんは何かを呟くと、こちらに背を向け、工場の奥の出入り口の方へ歩きはじめた。これをやり過ごせば、僕は彼女に見つからないまま、ここを切り抜けられるだろう。
しかし僕はそうしなかった。
出来なかった。
なぜならいま、喉を切られて倒れたはずのドゥ子さんが、鉄パイプを持って静かに起き上がるのを見たからだ。
「ドゥ子さん、後ろ!」
僕は物陰から身を乗り出し、躊躇いもなくそう叫んだ。
ドゥ子さんは驚き、振り返る。
その起き上がったドゥ子さん……いや、ドゥ子さんのような「誰か」と言うべきか、その「誰か」は、今一度、鉄パイプを振りかぶっていた。
僕にはなんとなく、鉄パイプを持っている方のドゥ子さんはいつものドゥ子さんではないように思えた。どこか動きが機械的と言うか……やはり僕が見慣れたドゥ子さんは、運動が得意で、少なくとも動いているところは優雅で、華麗なはずなのだ。
見切られた鉄パイプの一撃なんて、不意打ちにだって選択するはずがない。
ドゥ子さんは「誰か」の攻撃に気付くや、すぐさまそれに対応する。
背後へ一歩、大きく振り下ろされた鉄パイプを身軽な足取りでかわすと、一瞬だけこちらに視線をくれた。
「シロスケくん、どうし――てっ!」
何か僕と会話を試みようとしたのだろう、しかし首を切られたはずの「誰か」が、鉄パイプを乱打してドゥ子さんに猛追している。ドゥ子さんはそれを手元のナイフで防いだり交わしたりしながら、こちらの様子をうかがうことも出来なくなった。対して鉄パイプの「誰か」は僕に一瞥もなかったので、やはりドゥ子さんではないのかも知れない。
そこで、僕は「誰か」に覚えたもうひとつの違和感に気付く。
その「誰か」の真横に裂かれたはずの首から、血がひとつもこぼれていなかったのだ。
何か黒い、煙のようなものが傷口のあたりに漂っているだけだ。それを見る限り、少なくともその「誰か」は、まともに血肉の通った人間ではないのだろう。僕が冷静でいられたのは、きっとそれを感覚的に勘づいていたからだ。
僕は物陰に隠れながら、その「誰か」の背後に回ろうとしていた。
記憶では確かこのあたりに――あった。道すがら、僕は樹脂製の鎖を拾い上げた。昔、ノボルと来た時に遊びで使ったものだ。
それが絡まってないことを確認して、僕は急ぎ「誰か」の背後に接近する。「誰か」は鉄パイプの猛攻で、僕の方には全く気取られていないようだ。
僕はその隙を突いて、持っていた鎖をその「誰か」の足にかけ、思い切り引っ張った。それに反応出来なかった「誰か」は大きく体勢を崩し、地面に倒れ伏した。
そして僕が合図するまでもなく、ドゥ子さんは倒れた「誰か」の肩を膝で抑え、その背中めがけてナイフを思い切り突き立てた。二度、三度――それは殺意を持った動きに見えた。
倒れた「誰か」は、押さえ付けられたまましばらくジタバタとしていたが、何度目かのナイフが突き立てられた時、ぱたりと動かなくなった。
今度こそ、そのドゥ子さんに見える「誰か」は殺されたらしかった。
僕たちは地面に座り込み、しばらく動くことも喋ることも出来なかった。緊張がほどけたせいもあったし、かける言葉も見つからなかった。
ドゥ子さんが肩で息をしている。そしてしばらくして、息を整えるためだろう、何度か深呼吸をした。
僕はその深呼吸が終わらないで欲しいと思った。
呼吸を整えて、何かを喋るつもりならやめて欲しかった。
けれど僕は、それを聞かなきゃいけないだろう。
――脳裏に浮かぶのは、いままで公園で遊んでいた時のドゥ子さんとのこと。それからやはり、リサちゃんの顔だ。
「シロスケくん」
名前を呼ばれて、僕はドゥ子さんの方を見据えた。
見慣れた顔、聞き慣れた声は、やはりドゥ子さんのものだ。
しかし表情は冷たく、声音は沈んでいる。
工場の埃が舞い、窓から射し込んだ光にもやがかかる。
「君に見つかってしまうなんてね……でも、助けてくれて、ありがとう。シロスケくんは、どうしてここに?」
「……町でドゥ子さんを見かけて……様子がおかしかったから、追いかけてきたんだ」
「そう……ははは、男子に追いかけられるなんて、私もまだ捨てたもんじゃないね」
それでもなんとか、いつものように振る舞おうとしてくれているのだろう、微笑む口元は、しかし自嘲しているようにも見えた。
ドゥ子さんは二の句に困っているようだった。
「……見たん、だよね?」
僕とドゥ子さんのあいだには、横たわる「誰か」の身体がひとつ。
僕は「見たよ」とだけ答え――
「ドゥ子さんは『殺人鬼』なんだね」と、口にした。
なるべくなら出したくなかったこの言葉に、ドゥ子さんは少し驚いたように身じろぎした。
「シロスケくん、君は……」
僕は何を言われるのかと身構える。
――だけどドゥ子さんの言葉に、僕も少し驚いたのだ。
「君はもしかして、私が『何者なのか』、教えてくれるの?」
ジョン・ドゥ子――名前のない殺人鬼。
リサちゃんが探していたはずの殺人鬼は、その殺人鬼自身でさえも、自分が何者なのか探していたのだ。
★
足取りの重い帰り道、僕とドゥ子さんは背中に夕焼けを集めながら、いつもの公園まで足を向けていた。
工場にいた二人のドゥ子さん――そのうち殺されたドゥ子さんは、あのあと、文字通り煙のように霧散して消えてしまった。彼女が首を切られた時に見えたあの黒い煙そのものになり、消滅した。
「あれは、私の分身のようなものなんだ」と、ドゥ子さんは言う。「私の分身は、私自身を殺そうとしているの。そして私は、その分身に殺される前に、私の分身を殺し回ってる」
僕の少し前を歩きながら、ドゥ子さんは教えてくれる。
「君が言うように、私は殺人鬼なんだよ。多分ね。それを知ったのは、まあそんなに昔ではないんだけど。……一度だけ、私は殺人鬼に会ったことがあるんだ。それは本当にちょっとだけ、たまたま行動を共にしただけだったんだけど、そこでなんとなく、殺人鬼の存在を教えてもらって――その殺人鬼は丁度君みたいに、私の分身を不審がって追いかけてきたんだった。……でもそれだけ。詳しいことは分かんないまま」
――曰く、その殺人鬼はドゥ子さんのことを「自分殺し」の殺人鬼と呼んだのだと言う。
殺人鬼――殺人障害者。
この病気はほとんど世間に知られていない。この病気を知るのは殺人鬼と、それに関わった人々のみ。そもそもはある病院を除いて、病気として認められていないものだ。
殺人鬼自身が、自らが何者かを知らないことだって、往々にしてあり得る。
「私の分身はね――他人の中の、勝手な『イメージ』としての私なの。私と出会い、私のことを知った人の中にある『イメージ』としての私が、形を成して現れたもの。そしてその分身たちは、私を――殺そうとしている。だから、私もその分身たちを殺している」
「…………」
「不思議だよね。わけが分かんない。でもこの私の分身たちは日本中にいてさ……それを見つけて殺すために、私は家出をして、この町を出て――旅していた。七年ぶりくらいかな、ここに帰ってきたのは」
ドゥ子さんは、止まることなく喋っていた。それは沈黙を恐れているようにも見えたし、独白のようでもあった。はたまた懺悔のようでもあり、その実、心を整理しているようにも思えた。
「――まるで自殺旅行みたい、なんてね」
そして、僕も恐れていた。
ドゥ子さんと僕たちとの関係が、これで全て終わってしまうんじゃないかと感じていた。僕たちの目の前に突然現れ、毎日当たり前のように遊んで、あるいは弄んで、そして突然目の前からいなくなってしまう――そうならば、ドゥ子さんはまるで旋風だ。
僕たちの間にあった居心地の良い空気も、男子ばかりで過ごす中に訪れた、ささやかに華やいだ時間も、全てが消えてしまう。
僕は――新しい友達を、失いたくないと思った。
ここで僕が何もしなければ、きっとそうなってしまうに違いない。
だけど……だけど、まだ終わりじゃない。
「ドゥ子さん――」
そして僕は、リサちゃんのことをドゥ子さんに話した。
★
そして僕は、ドゥ子さんのことをリサちゃんに話した。
家に帰り夕食を終えてから、僕はリサちゃんにメールをする。リサちゃんはすぐにメールに気付いたらしく、何分もしないうちに僕の部屋へとやってくるや、いつものクッションに座ると、開口一番「聞きましょう」とだけ言い放った。
僕は肝を冷やしながら、順を追ってことの次第を説明した。
ドゥ子さんとの出会い、それから廃工場でのドゥ子さんのこと、加えてドゥ子さんから聞いたこと。
神妙に僕の話を聞いていたリサちゃんだったけど、僕が話し終えると、溜息で小さく肩を揺らした。
「ふざけた名前ね、ジョン・ドゥ子だなんて。――だけど、そうね。これでようやく、名前のない殺人鬼の足取りが掴めそうね」
そう口にするリサちゃんは、いつも通りに見えた。
感情の起伏が小さいのは、彼女が殺人鬼組合で修練を積んだ殺殺人鬼鬼が故だ。怒りも喜びも、リサちゃんはあまり表に出さない。
「
殺人鬼の話をする際に出てくる体質とは、つまり殺人鬼が持つ特殊な特徴のことだ。この体質は殺人鬼により様々で、彼らが生きる上での重荷になることも少なくないと言う。
ドゥ子さんの場合は、他人の中の自分が何人も具現化してしまうという、非常に厄介な殺人鬼体質を持っているということだ。
またその殺人鬼を語る上で体質と共に外せないのが「殺人気質」である。
「彼女の場合は、自身の分身を殺すことが殺人気質ということなんでしょうね」
殺人気質とは、殺人鬼が「どんな殺人を行うか」という特徴のことだ。この気質が殺人鬼という存在を殺人鬼という言葉から曖昧なものにしている。つまり、人の命を奪って殺すだけが殺人ではなく、この気質に応じた行動こそが、殺人鬼――殺人障害者にとっての殺人なのである。
この気質も、殺人鬼により様々だ。リサちゃんから聞いたことのある話では、人を喋れないようにしてその意見を封殺する殺人鬼や、その色香で人を虜にする悩殺の殺人鬼もいるのだと言う。そんなのありなの?
それを殺人鬼と呼ぶのは難しいんじゃないか、なんて僕は思ってしまうけど、そうではないらしい。曰く「そうしなければならないという強迫観念、衝動」があり、その結果が体質となって表れる人こそが殺人鬼なのだ。
殺人障害者には殺人衝動と呼ばれる欲求が存在する。それは突発的に訪れる渇きのような感覚だと、リサちゃんが以前、教えてくれた。
つまりそれを解消する手段が、殺人障害者特有の「気質」による殺人である。気質に応じた殺人を行うことで、乾きは癒える。
――しかし渇きを潤すための方法が、もう一つある。
つまりそれが、殺人だ。
人を殺し、その生を奪うことでも、それは満たされる。
乾きを無視しても、殺人鬼はまだ人としていられる。
だが乾きを無視し続けると、殺人障害者はやがて生粋の殺人鬼と化すのだと言う。鬼に心を支配され、気質も理性も関係なく、ただただ渇きを癒やすために人の生を奪い殺める、本来の意味そのものの殺人鬼となってしまう。
「ジョン・ドゥ子の気質が自分を殺すことであり、体質が分身の出現と言うのであれば、彼女の殺人障害はある意味で自己完結してると言えるわ。――全てが分かったわけではないけれど、知介のおかげでいくらか疑問が解けたわね」
心なしか、リサちゃんは早口になっているような気がした。
さすがに人の心の機微なんてものに疎い僕でも、それは分かった。
あるいは殺人鬼でも隠しきれないほどの殺気のようなものを、感じていたのかも知れない。
うん――リサちゃん、思ったよりも怒ってるな、これ。
そんな僕の心の動きを、リサちゃんは容易く見透かす。
「わたしは怒っていない。ええ、怒っていないわ。むしろわたしがあと一歩辿り着けなかった情報に先に辿り着いた知介に、感謝さえしているくらいよ。それでもわたしが怒っているように見えるのなら、それはただ少し呆れている、その程度よ」
いやこれ怒ってるとか言ってる場合じゃないかもしんないぞ。
「あの、リサちゃ――」
「いいわ、知介。何も言わなくていい。わたしが責めるべきはあなたではないもの。わたしが他人を疑えと言っても疑わない、純粋無垢なあなたの心持ちを責めるなんて、そんなことは出来ないもの。疑われる殺人鬼こそが問題で、あなたはただそこにいただけ」
リサちゃん、めちゃくちゃ喋るじゃん。
目をツンと結んでいるリサちゃんもそれはそれはかわいかったけれど、それはどこか苦々しさを孕んだ表情にも見えた。
「だからわたしが怒るなんて筋違い、御門違い、見当違いも甚だしいわ。だからこんな感情なんて適当ではない。もちろん適当なんかじゃないけれど――もうっ!」
かわいらしい怒声と共に、柔らかな、けれど仰け反るほどに重たい衝撃が僕の顔面にぶつかり、視界が真っ暗になった。
何が起きたのか一瞬分からなかったが、顔面に当たったものが僕の膝に落ちて、それがさっきまでリサちゃんが座っていたクッションだったので、僕はそれがリサちゃんから投げつけられたのだと理解した。
視界が開ける。
クッションを投げつけたままの体勢で、リサちゃんが僕を睨みつけていた。
――殺人鬼の、ぞっとするような睨みだった。
「馬鹿! 知介のことなんて、もう知らないんだから!」
これまで聞いたこともないほど大きな声で叫ぶと、リサちゃんは翻り、目にも留まらぬ速さで窓から窓へ、自分の部屋へと去って行った。
そしてリサちゃんの部屋のカーテンは固く閉ざされ、部屋には僕ひとりが残される。
突然の出来事にあっけにとられ、身動きひとつとれなかった無様な僕だけだ。
――ヤバい。
リサちゃんをめちゃくちゃ怒らせてしまった。
僕は身体も思考も動かないまま、しばらく窓の方を見るしかない置物と化していた。多分、気絶してたと思う。
僕にとってそれは人類進化の歴史ほどの時間に感じられたが、実際は数十秒くらいのもので、程なくして騒ぎを聞きつけた妹の十一朗が部屋にやってきてくれたので、僕はどうにか意識を取り戻すことが出来た。
「……お兄ちゃん?」
おずおずと遠慮がちに部屋を覗き込んできた十一朗は、お化け屋敷の一歩目というようにおっかなびっくりの様子だったが、部屋にいるのが僕の置物ひとつと分かると、ゆっくりとそこに押し入ってきた。
「いまリサちゃんの大きな声がしたけど、何かあった?」
十一朗はひとつ年下だが、リサちゃんとは仲が良かった。そのせいだろう、僕が不安に抱いたのは十一朗が僕に余計な詮索をしてこないだろうかと言うことだった。なにせ十一朗はリサちゃんが殺人鬼であることを知らないし、今回僕がリサちゃんを怒らせたのは彼女が殺人鬼だからと言う部分も関係しているわけで、更にそのせいで動揺の最中にある僕は、そこでうまく立ち回って体を繕った上手な言い訳をこなせるとも思えなかったのだ。
「何もないよ」と僕は答え、十一朗の出方をうかがう。僕はこの時点で、身体ごと彼女の方へと振り返った。あくまで冷静を装っていた僕だったが、この部屋には鏡なんてものがないのだ、その姿が本当に冷静を装えているのかも怪しいものだ。少なくとも心臓はめちゃくちゃ早く動いてるし、背中は汗だくだ。
しかし十一朗は、いとも容易く僕の不手際を見抜く。
「何もないとか……お兄ちゃん、またリサちゃんを怒らせたでしょ」
「語弊があるぞ。『また』ってなんだよ。僕がいつ、リサちゃんを怒らせたって?」
「怒らせたことは否定しないんだ。またって言うか……いつも? それこそリサちゃんは、息をするようにお兄ちゃんに怒ってると思うよ」
「……は?」
「お兄ちゃんには、乙女心が分かんないだ」
いや待て待て。確かに僕は何度かリサちゃんを怒らせた自覚はある。その節は本当に申し訳ありませんでした。でもそんなに何度も何度も毎日毎秒怒らせてるなんてことはないはずだ。
ないはずだが?
いやでも……分かんないよな、そんなことは。
リサちゃんの感情の全てが分かるなら、僕はそもそもリサちゃんを怒らせたりしないのだから。
十一朗の言い分が真実だとして、もしリサちゃんが僕にいつもいつでも怒っているのなら、今回の件は本当にひとつの引き鉄、つもりに積もった鬱憤を噴出させるには充分すぎる切っ掛けだったのだろう。
怒りというのは、何かを傷つけられて表れる感情ではないだろうか。だとしたら、僕はリサちゃんを無自覚に傷つけているということなのだ。
僕の無神経さや無自覚な振る舞いをリサちゃんが許容していたとして、それでもなお僕と一緒にいてくれるのは――それはやはり、リサちゃん自身の優しさに他ならない。僕はそれに付け込んで、無神経なままでいるのだ。
そうだとしたら、僕は、本当に――本当に、非道い人間だ。
「あの……お兄ちゃん?」
考え込み黙りこくっていた僕を呼び戻すように、十一朗が声をかける。そちらに目を向けると、十一朗は随分とばつが悪そうな顔をしていた。
「ごめんね? ……言い過ぎちゃったかも」
何の言い過ぎもないだろう十一朗が謝ってくるということは、僕は相当に深刻そうな顔をしていたのかも知れない。
「別に、お前が謝ることじゃない」
「だってお兄ちゃん、急に黙っちゃうんだもん」
「僕もちょっとだけ、思うところがあったんだよ」
「……そっか」
「むしろお礼を言いたいくらいさ。ありがとう、十一朗。――そうだな、僕もリサちゃんには本当に悪いことをしてしまったから、明日の朝にでも謝りに行くよ」
僕は十一朗が気にしないように、大げさなくらいに反省の色を見せておいた。実際に反省するところではあるし、そうならば、ここで十一朗に心配をかけるのも良くないと思ったのだ。
僕の様子を見て、十一朗もようやくばつの悪そうな顔を解く。
「良かった、ちゃんと反省してるんだね、お兄ちゃん」
「もちろん」
「じゃあお兄ちゃん」
「なんだ?」
「今すぐ謝りに行きなさい」
なんて妹だ。
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