第四十二話 面影との対峙


(タスケテ)


 助けを呼ぶ声が、拓磨たくまの耳を軽く撫でた。叫ぶ感じではなく、まるで囁くような。咄嗟に周囲を確認する。


「どうした?」


 白戸しろとには聞こえていなかったようだ。加賀見かがみの声とは違った気がするから、空耳だったのだろうと首を振る。

 拓磨たくま白戸しろとが格納庫の扉を開けると、階段を駆け上がって広い踊り場で息切れをする少女に、汗ひとつかいていない着物の男が掴みかかるところだった。


「嘘、でしょ、なんで、着物で、そんなに早く階段が上がれるのよ」


 ぜえぜえと途切れ途切れになる言葉に、男は憐れな子羊に向けるような慈愛の微笑みを見せる。


「これが私の神が、私にもたらす力ですよ。素晴らしいでしょう?」

「いや、離して」

加賀見かがみさん!」

「!?」

拓磨たくま君!」

「これは、驚いた。お友達かな?」


 細い腕が、掴んだ少女の腕を引き寄せる。見た目からは想像がつかないほどの力で、加賀見かがみの抵抗ではびくともしない。


「あれが、叢雲むらくも、か」 

加賀見かがみさんを離せ……!」


 難し気に眉を寄せる白戸しろとと、何とか出来ないかと叫ぶ拓磨たくま。少年が階段付近まで駆け寄り、改めて男の顔を見て、足が止まる。


――……まさか、あれは!?


 脳裏に父が指し示すアルバムの中の男の顔が蘇る。写真で見るより数倍、美しく見えた。むしろ更に磨きがかかり、人間離れをしているような。だがしかし、父は四十六歳。目尻に皺も刻まれて、いくつかシミもあれば白髪も混じる。母の事があって一気に老けたにしても、双子である限り、敬一けいいちも若いはずがない。

 目前にいる男は、特に若作りをする様子もなく二十代も前半のよう。行方不明になったその時から、時間が止まっているなら、あるいは……? まさか神粒しんりゅうを駆使しての不老を手に入れているというのだろうか。拓磨たくまの知識ではそうとしか思えなかったが、だが、しかし。


 余裕を見せていた秀麗な顔が少し崩れたのは、扉の奥からどやどやと更に人が入って来たからだ。

 古賀こがをはじめ、剣持けんもちら陰陽寮の面々。その男達の集団の中に、操っていたはずの若い男の姿まで。その男の手に、修繕しかけた銅鏡があるのを見て、顔は醜く歪む。なまじ美しいだけに、憤怒の表情になるとその不釣り合いさで醜悪さを醸し出すのだ。間近で見た加賀見かがみが思わず吐き気を催したのを見咎めると、無理矢理感情を抑え込み表情を整える。


「それは私のものですよ、お返しなさい」

「鏡も少女もこちらのものだ。返すべきはお前の方だ」


 剣持けんもちが一歩前に出て、声を張る。

 しかし目がくらむような美形は、酷薄に笑う。


「姫を力づくで奪ってみるかい? 破片の一部程度なら取り返せるかもしれないねえ?」


 少年の方にちらりと目をやると、見せ付けるように少女を自分の腕の中に深く閉じ込めた。こんなに密着されては陰陽師の式神も難しい。ほとんどが幻のような物とはいえ、カマイタチのような風を起こしての攻撃は可能だ。だがそれは細かいコントロールが効かない。


 せめて彼女がじっとしてくれたらいいのだが、動かせる部位はすべて動かしてどうにかしようという活魚のごとくの暴れっぷりなので「もし彼女に当たってしまったら」等とわずかでも思ってしまえば、威力は半減どころじゃない。神粒しんりゅうで生じる力は、僅かでも迷いが生じれば効果を失う繊細なものだ。拓磨の銃は相手を気絶させるだけだから、彼女に当たっても実際のダメージはないが、お互いに気まずい禍根が残りそうな事を思うと、やはり威力の低下や銃自体を創出できない可能性もある。せめて確実に当てられるよう、もう少し近づければ。


――やるしかない。


 少年は唇を噛んで勇気を振り絞ると、今からやろうとしている事の了承を得るように、真横に立つ師匠を見上げる。彼からはいくらかの逡巡の様子が見て取れた。普段から過保護な様子を見せる彼が、危険を冒そうという拓磨たくまを止めないはずはない。それでも無精ひげの男は頷く。少年が、何処までやれるのかを試したい師匠としての気持ちが勝った。いざとなれば少女を犠牲にして少年を助ければいいと、最悪の事も考えたが内心に留める。

 しかし白戸しろとの動揺を感じ取ったのか、バックバッグから鴉が心配そうに顔を出す。ヤタは疲れ切っていて、あともう暫くは飛べない。


加賀見かがみさんは僕の大切な友人です。彼女が傷つけられたら僕はずっと後悔する」


 拓磨たくまが振り絞るようにそう言えば、大人の男達は顔を見合わせ始める。


依代よりしろの鏡と彼女は、共にあるべきです。あの男にではなく、彼女に鏡を返してあげて欲しいです」

「良いお友達ではないですか、姫君。彼を迎え入れる事にしますか?」


 加賀見かがみには拓磨たくまが何をしようとしているのかわからなかったが、鏡を持ってこちらに来ようとしている事だけは把握した。暴れながらもこくこくと頷いてみる。


「鏡はこちらにも大切なものだ、渡すなんてできな……あっ!」


 剣持けんもちの声を遮るように少年は駆けだして、頬に傷のある男を突き飛ばすと若い男から鏡を奪い取り、階段を駆け上がり始めた。


「待ちなさい!」


 少年が何をしようとしているのかがわからないまま、その後を彼らは追いかけて来るが、若い少年の軽やかな跳躍を伴う階段の駆けあがりに追いつけない。


――チャンスは一回。


 覚悟と集中を高め、男と少女の傍に寄る。男は満足気に微笑む。近づくほどにそれは「敬一けいいち」。でもそんな可能性は今は関係ないと意識から追い出す。少年が踊り場に到達すると、男は抱き寄せていた少女を脇に押しやり、空いた両手を少年に向けて伸ばす。その手に向けて銅鏡を差し出し、届く直前に。どちらの手も触れられていない鏡は地に落ちて行き、叢雲むらくもの視線がそれを追った刹那。


 拓磨たくまの右手に一瞬でハンドガンが創出され、至近距離から渾身の一撃を発射する。当たっても一時間の気絶。父かもしれない人間に銃口を向ける背徳感を、その想いだけでねじ伏せて決死の思いでトリガーを引いたのだ。


 だが。


 着物なのに。こんな至近距離なのに。

 秀麗な男は笑顔のまま、優雅に青い光線を避けて見せたのだ。「えっ」と驚きの声を上げた以降は、何も言えなくなった。次の瞬間には床に落ちた鏡を左手で拾い上げ、残る右手は拓磨たくまの首にかかり、ぎりりと締め上げられた。一瞬の出来事だった。動体視力には自信がある方だった少年の目にも、相手がどのように動いているのか全く捉える事ができなかった。追いかけて来ていた剣持けんもちたちもあまりの事に、思わず足を止める。


「子供だと思って見くびっていたが、面白い技を持っているじゃないか。その使い方は面白い、ぜひ今後の参考にさせてもらうよ。だが、神の化身に対しては、只人ただびとなどこんなものだ」

「うぐぅ……」

「いやぁ、やめて!」


 加賀見かがみが必死に男をどうにかしようと、腕を引っ張ったり足を蹴飛ばしたりするが、大木を相手にしているようにびくともしない。

 少年の首を締めあげていた手を緩めると、咳き込む拓磨たくまを意に介さずそのまま胸倉を掴み引き寄せる。少年のさらりと流れる長めの前髪の隙間から、苦し気に細められた目を見て、叢雲むらくもは感嘆の声を上げる。


「ほう……この瞳は美しいな……抉ってしまってもこの美しさは維持されるだろうか。コレクションに加えても良いかもしれぬ」


 冷気が背中を撫でて行くようにぞわりとする。そしてかつて聞いた、敬一けいいちの特徴のひとつが思い起こされた。


「ああ、本当によく映し出すね。なんて綺麗なんだ……」


 うっとりと酔うように、少年の瞳を覗き込み続ける。明らかに拓磨たくまの瞳に映る己の顔を見ていた。


「もっとよく見せてごらん……」


 そう言って、少年の長い前髪を鏡を持ったままの左手でかき上げた所で、びくりと男の手が止まる。目は驚いたように見開かれ、一言。


沙耶さや……?」


 それは拓磨たくまの母の名だ。

 その瞬間を逃すまいと、白戸しろと剣持けんもちによる大量の式神の鳥の群れが男の顔に襲い掛かった。振り払うために少年を掴んでいた手を反射的に離す。少年は地面に足がつくと同時に、思いっきり踏み込んで肩から体当たりをした。

 その衝撃で男の背はガツンと大きな音を立て手すりに当たり、そして頭の重みに引きずられるようにその体を向こう側に落として行く。


「あっ」


 落ちて行く男に、少年は蒼白になり慌てて手すりに取りつくが、落ちる男の口から洩れるのは悲鳴ではなく高笑いだ。


「ははははははははは、面白い! 面白いぞ」


 そのまま落ちると思われた男の体は、箱を突き破り飛び出した触手に受け止められる。箱が内側から弾かれるように割れ、醜悪などろりとして締まりのない肉塊が現れた。


「な、なんだあれは」


 同じく手すりに手をかけて下を覗き込む剣持けんもちも、思わず叫ぶ。血のような色をした肉塊が、叢雲むらくもを抱きかかえるようにすると、背中が割れて虫のような羽根が六枚飛び出す。

 耳をふさぎたくなるようなブゥンという爆音を立てて羽ばたくと、巨体は軽々と宙に浮く。


「姫君、近々改めて場を整えて、お迎えにあがります。その時まで鏡はこちらでお預かりしますね。またお会いできる日をお待ちしてますよ」


 朗々と、羽音にも負けぬ声で叢雲むらくもは少女に声をかけると、鏡を腕に抱えたまま化け物と共に天井を突き破って去って行く。

 あまりの事に茫然と、面々はそれを見送るしかできなかった。


(タスケテ)


 拓磨たくまの耳に、再び謎の声が届く。

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