26,夢の足音
ピシィッ‼
人を寄せ付けない山奥で、仁王立ちで岩に立ち向かう一人の女性。
中指を親指に引っかけ、目の前の岩を弾く。所謂デコピンだ。
「ダメだなぁ……」
渾身の力を込めても何も変わらない。
女性の足元に赤い毛皮の狐が駆け寄った。
「何をしておるのだ、ステラ」
「岩をデコピンで割る修行」
ため息混じりに答えたのは赤毛を風に揺らし、翡翠の中に蒼い星を閉じ込めたような目の持ち主、ステラ・ウィンクル。
使い魔である狐、ウメボシの前足に手を入れ、軽々持ち上げる。
「よいか、岩をデコピンで割るのは人間業でないぞ」
「けどヒルおじさんは出来るって言ってたもん」
「実際見たわけではなかろう。それにレオナルドも言っていたではないか、せめて人であれ、と」
「ヒルおじさんは人間だよ」
腰に負担が掛からないよう、ウメボシを抱え直した。
警察官採用試験を終え、アルローデン魔法学校を卒業し、結果を今か今かと待ち望んでいる最中だ。
「試験結果が気になるのはわかるが、過度な修行は身体を壊すぞ」
「そこまで過度じゃないし!」
といいつつ、ステラの中指の爪は欠けていた。
実家に帰ってからというもの、山の中でトレーニングの毎日。
最後のメニューの岩割りで毎度折れているため、今日こそはと思いながら断念の日々だ。
「そろそろ結果も来る頃だろう、一度家に戻ってみたらどうだ」
「そうだね、お腹も空いたし戻ろうか」
太陽が頭上まで登ってきた。もうすぐお昼の時間である。
腕の中のウメボシを抱え直した。
「……なんか、ウメボシ……太った?」
「ふ、太ってなどおらん‼」
「だって、帰ってくる前より重たくなった気が……」
「気のせいだ‼」
密かに眉を寄せる。
そういえば帰って来てからというもの、母・ラナがウメボシのことを可愛い可愛いと言いながら食べ物を与える姿を頻繁に見る。特に好きなのがアヴラァー・ゲという、揚げ物だ。
母お手製のアヴラァー・ゲが大変お気に入りのようで、毎食のように食べている。
いくら可愛いとは言え、太り過ぎは身体に毒だ。
「ご飯食べたら一緒に走り込みする?」
「だから気のせいだと……む! あれはラナ殿ではないか⁉」
「え?」
まるでステラの気を逸らすかのようだが、道の先には確かにウメボシの言う通りラナが走ってきていた。
「ステラ――‼」
その上、何かを持っている。
引き寄せられるように、ステラも走り出した。
「お母さん‼ それ……⁉」
「来たのよ‼」
ラナが持っていたのは、頑丈に封蝋された少し厚みのある封筒だった。
肩を大きく上下させながら、ステラへ渡す。
差し出された封筒の封蝋の紋章を見ると、一瞬息が止まった。
それは十年前に助けて貰った婦警さんの帽子に入っていた物と同じ、ルドベキアの花をモチーフにした紋章なのだ。
「開けてみて!」
「うん……!」
ウメボシがステラの腕から飛び降りた。
差し出されたペーパーナイフを受け取り、蝋を砕く。
緊張から震える手で、一番上の紙を開いて中を読み上げた。
「ステラ・ウィンクル殿……あなたは、アルローデン警察官に合格したので通知します……だって‼」
「おめでとう‼」
「やった――‼」
二人の歓喜の叫び声で、周りの木に止まっていた鳥達が一斉に飛び立った。
「ステラなら警察官試験など余裕であろう、小生はわかっておったぞ」
「ウメボシちゃんったら。毎晩ステラが寝てから求人雑誌の引っ越し屋さんページを鼻で捲っていたのに!」
「引っ越し屋さんの求人ページがシワシワになってたの、ウメボシの仕業⁉」
「そうよ、ウメボシちゃんもずっと気にしていたんだから」
「そ、そんなことないぞ‼ ただ主がニートなのはよくないと思ってだな‼」
「ウメボシはツンデレだなぁ」
「ぐぬぬぬぬ……‼」
居たたまれなくなったようで、ウメボシは森の中へ姿を消してしまった。
側にあった切り株に、二人が腰を下ろす。
ラナにも合格通知を見せると、花が咲いたように顔が綻ぶ。
子であるステラから見てもラナは若い。知らない人間が二人を見て、少し歳の離れた姉妹と間違えたことさえある。
そんな若い母にはこれまで沢山の苦労を掛けた。
女手一つでここまで自分を育ててくれた母親を、またここに置いていくのかと思うと心苦しい。
「あのね、お母さん」
「なぁに?」
ここ一年、考えていたことがあった。
何故母はこでの不便な山奥の村で暮らしているのだろう、と。
もし自分が稼げるようになれば、母をもっと楽にしてやれるのではないかと、ずっと思っていた。
「私と一緒に外に行かない?」
「え?」
伝えたいことがうまく纏められず、咄嗟に言葉を付け足す。
「ここが嫌いって事じゃないよ⁉ 自然がいっぱいだし筋トレにうってつけだし、私は大好き!」
「そうね、お母さんもこの村が大好きよ」
慌てるステラを見て、小さく笑う。
何が言いたいか、ラナにはわかっていた。
「けど、やっぱり不便でしょ……?」
ステラがラナの手を盗み見る。
その細い手は、あかぎれが出来ていて乾燥していた。
村に井戸は一つしかなく、特にステラの家から最も遠い場所にあるのだ。
そこへ毎日何回も水を汲みに行くのも、世話をしている果樹園の仕事も、女性一人では相当体力を要する。
ここいらで恩を返す時ではないか、とステラは話を切り出したのだ。
ラナがステラの手をそっと包む。
「ステラ、よく聞いてちょうだい」
いつも通りの、たおやかな声。
かさついた手が苦労を物語っている。
「お母さんはね、あなたがここまで育ってくれただけで嬉しいの。多くは望まないわ」
「けど、ここよりずっと楽になるよ?」
「そうね、だけどここにしかない大切な物もあるの」
そんな大層なものがあっただろうか。
ステラが思い出す前に、ラナは言葉を続ける。
「心配しなくても大丈夫よ! 今まで通りご近所さんとも仲良くやっていくし、ハイジ姉さんやヒルさんだって頻繁に来てくれるのよ」
「でも……」
なんならハイジ先生やヒルおじさんも、もっと都心に近い方がお互いに会いやすいのではないだろうか。
ラナの言う大切な物とは一体なんのことか、ステラにはさっぱり見当もつかない。
優しく頬を撫でられる。
「お母さんは大丈夫。あなたはあなたの人生を歩めばいいの」
「う――……」
「何唸っているの!」
ラナも言い出したら折れないのだ。
それは、娘であるステラが一番よくわかっている。
「ステラが自分の力で夢を叶えてくれて、とっても嬉しい! 親として誇りに思うわ、本当におめでとう!」
「おがあざん……‼」
「あら、国を守る婦警さんが子供に戻っちゃった」
「今日は特別なの‼」
ラナの膝に伏せた。
堪えようとしていた涙が、ラナのスカートを濡らす。
試験に受かって嬉しいやら、母を置いていく罪悪感やら。
感情がぐちゃぐちゃになって、ステラ自身もどうしたらよいのかわからない。
「帰ったらハイジ姉さんとヒルさんに手紙を出しましょう。皆喜んでくれるわ」
母の温もりを感じながら、二人の顔を思い出す。
いつかの迷子になった時のように、ラナのスカートを握った。
「ねぇ、お母さん」
少しためらう。
しかしステラとて、もうすぐ大人の仲間入りを果たすのだ。
意を決した。
「私のお父さんってどんな人?」
キャンプの時から少しずつ気になり始めていた。
穏やかな母の表情は崩れない。
ヒルおじさんから教えて貰った、印象は最低。
レオナルドと語り合ったキャンプの夜、自分でも思っている以上に、実の父親のことを知らないのだとわかった。
エドガーから貰ったトンファーは、従来セレスタン発祥の武器。初めて待った武器は、驚く程身に馴染んだ。
その時に改めて、自分はただ珍しい毛色なんかではなく、セレスタンの血が流れているのだと思い知った。
「ヒルおじさんに昔聞いたのは、とんでもないクソ野郎って言ってた。やっぱりクソ野郎だった?」
この村にいる時は、特に興味もなかった。
しかし外の世界を見て、視野が広がったステラは、ようやく自分の生い立ちを知るべきだと感じたのだ。
「お母さんはあなたのお父さんを、今まで一度もクソ野郎だと思ったことはないわ」
普段上品な母親の口から、クソ野郎という言葉が出てきたのにに少々驚きながら、黙って耳を傾ける。
「だってそうでしょう? そんなこと思っていないから、私はステラを産みたいと思ったんだもの」
「そっか」
ならばなぜ? なぜ父と別れたのか?
これは聞いてもいいものだろうか。ヒルおじさんや、母の話し方では別に死んではいないようだが。
単純なステラの考えを、お見通しのラナは小さく笑った。
「あなたが成人したら教えてあげるわ。だから今は何も気にしなくていいの」
「……わかった。約束ね!」
「もちろんよ」
まだ知らなくてよいのなら、知らないままで居よう。
きっと母なら約束通り、来年に教えてくれる。
ラナの膝の上で目を瞑った。
「それから来週くらいにハイジ姉さんがまた来るみたいよ」
「本当⁉ ヒルおじさんは?」
涙に濡れた顔を気にすることなく、勢いよくラナの膝から顔を上げた。
そんなステラの乱れた前髪を、ラナは手櫛で梳く。
「ヒルさんはハイジ姉さんが帰った頃を見計らって来るつもりですって」
「なんで昔からあの二人は中が悪いの?」
「あら、別に悪くないわよ」
あれをどの角度から見れば、悪くないと言えるのだろうか。
「村の皆に教えて……それから晩ご飯は豪華にしなきゃ!」
頬を赤く染めた母は、ステラより興奮している。
ステラの涙はすっかり引っ込んでいった。
「そうだ! リタ達にも手紙を出さないと!」
「お友達も心配してくれたものね、今から大忙しだわ」
新しく住む家も見つけなければいけないし、家具も揃えなければいけない。
やることは山積みだ。
「とりあえず帰って、お昼ご飯を食べるところから始めましょう!」
「はーい!」
きっと望んだ未来が待っている。
今、皆と同じように、ようやく夢へのスタート地点が見えた。
母の陰に隠れて怯えていた少女は、未来を切り開く光となった。
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