第7話
翌朝、仮眠室で目覚めた冬子は真っ先に配膳部へ向かった。ちょうど収容者の朝食の準備に追われている配膳部は、煮炊きする音や忙しなく行き交う足音が賑やかだった。
「すみません、緒光さんはいらっしゃいますか」
入り口間近の休憩室に入り、その奥のビニールカーテンの向こう側が厨房である。カーテンから頭だけ入れて声を張り上げると、厨房の片隅においてある大型のワゴンに食事トレーを入れている女性が振り返った。白い帽子やマスクで顔が隠れているが、目元から彼女が緒光のようだった。
「おはよう! ごめんね、今、手が離せない。休憩室の隅に、小さいワゴンがあるの。それ、あなたたちの分だから持っていって! ランチョンマットも作っておいたの、よければ使ってね!」
周囲の喧騒に負けじと声を張る緒光に対し、冬子も大声で礼を言った。すかさず、他の配膳部職員から「厨房の中ではマスクをつけて!」と注意をされる。
冬子はきまり悪く、一礼だけして頭を引っ込めた。振り返った休憩室の隅には、確かに小さなワゴンがある。昨日、アシデモアのおかわりが配膳された時に見かけたものだ。『Soleil de Printemps』で有田が使っていたワゴンにも似ている。ワゴンは二段構えで、料理の上にはラップが張られていた。食器の横には、巻かれた状態のランチョンマットもある。
冬子が臨床部へワゴンを押していくと、先に戻っていた朽木があからさまに不審げな顔をした。
「配膳部の緒光さんという方からのご厚意です。昨日、わたしがアシデさんの食事のことでお礼を伝えたら、わたしたちの食事を用意してくれると」
「毎食か?」
「二食三食増えようが変わりないそうです。人は他人よりもまず自分自身に対して優しく誠実であるべきだと、緒光さんがおっしゃっていました。そのためには食事に気を遣うべきで、朽木先生が毎食エナジーバーであることは心配だと」
「自分に対して優しくと言っている人間が、話したこともない他人の体の心配をするなんて、矛盾している」
眉間に皺を寄せる朽木にかまわず、冬子は彼のデスクの上にランチョンマットを広げ、皿をならべた。オムレツとベーコン、簡単なサラダにバターロールとミネストローネである。
「このマットは、緒光さんが作ってくださったそうです」
広げてから気づいたが、ランチョンマットには絵本に出てきそうな太陽の刺繍がされていた。もう一枚のマットも同様である。
「器用なものだな」
刺繍をしげしげと眺める朽木の横顔はどうにも滑稽じみていた。冬子は笑ってしまいそうになるがこらえ、ごまかすように「早く食べないと、始業時刻になっちゃいますよ」と食事を急かす。村名賀の部屋へ食事を持っていくと、この上司も朽木と同じ反応を返してきたので、冬子はもはや呆れるばかりだった。
九時ちょうど、冬子と朽木、村名賀は防護服を着込んで水槽室の裏手にいた。全員が防護服を二枚重ねているため、普段以上に体が膨れ上がり、それぞれ動きにくそうにしている。「三人とも痩せていてよかったよ」と村名賀は乾いた声で言ったが、真面目に言ったのか軽口なのか冬子にはわからなかった。
麻葉とアゲハがいる水槽にはすでに麻酔薬が噴霧され、二体とも眠っている状態を確認済みだ。冬子は人間用の布製の折りたたみ担架と、防護服を廃棄するためのボックスを持つ。村名賀がアゲハを抱き上げ、この担架の上に乗せ、冬子と朽木で担架を隣の水槽へ運ぶ手筈となっている。
「アゲハを入れる水槽の扉は開錠済み、中には防護服の廃棄ボックスも設置済みです」
冬子が言うと、村名賀と朽木はうなずいた。
「まず、わたしが麻葉氏およびアゲハから組織を採取し、スピッツへ入れる。その後で、アゲハの移動開始だ」
村名賀が手順を確認する。組織採取のために必要な道具が入ったジュラルミンケースは朽木の手にあった。
「行くぞ」
村名賀がドアを開錠した。三人の間で緊張感が一気に高まる。冬子は自分の肌が粟立つのを感じた。心拍の音が鼓膜に響く。右肩に重みを感じた。見上げると、朽木が冬子の肩に手を添えている。防護服を二重に着ているせいで表情は不透明だ。だが、その手の重みが冬子の心を落ち着かせた。
ドアが開く。水槽の真ん中で、虫の母子が眠っていた。子は親に寄り添うように、いや、親が子へ寄り添うようにして横たわっている。
三人はすばやく水槽内へ入り、朽木は胸に抱えたジュラルミンケースを開ける。組織を採取するためのキットを取り出し、村名賀へ手渡した。村名賀は虫の口腔内、甲殻の間、足の付け根などあらかじめ決めておいた部位の組織を手早く採取する。冬子はその様子を見守りながら、何かの間違いで虫が目覚めないことを祈った。村名賀の計算によって噴霧された麻酔の量は十分のはず、それでも虫が目覚めるならば、それは村名賀のミスに他ならないが、そのようなことは許されない。自分の命が惜しいわけではなかった。この施設内で研究員が虫に殺される不祥事は絶対にあってはならない。
つと、水槽のガラスの向こう側へ目を向けると、そこには臨床部の他の部員や、他部署の数名の研究員、それに加えて安瀬センター長がいた。いずれも見守りに来たのだろう。彼らがそこへいたからといってどうにかなるわけではない。冬子は自分を落ち着かせるために、細く長く息を吐いた。汗が眉間から鼻先へつぅッと流れる。
村名賀による組織採取が完了すると、朽木はジュラルミンケースの蓋を閉め、ケースをすばやく水槽の外へおいた。アゲハを移動させる際、ケースは邪魔になるからだった。戻ってきた朽木は冬子とともに折り畳み式の担架を広げた。担架を床におくと、裏側に虫の毒液が付着する恐れがある。不要な毒液の付着を避けるために、持ち込んだ物品の床置きはしないように打ち合わせされていた。
担架の用意が完了したことを確認した村名賀は、アゲハの横へひざまずく。緊張が一気に高まる。アゲハはまだ人間の赤ん坊ほどの大きさだ。抱えることに大した労力はいらない。だが、相手は凶暴な毒虫である。何かの弾みで目覚めてしまえば――すべてはおしまいだ。
村名賀はアゲハの背部へ覆い被さるようにし、その両側へ腕をはさみいれた。一度腰に力を入れ、下半身で踏ん張り、小さな毒虫を抱え上げる。担架がピンと張られる。冬子も朽木も無意識のうちに担架の端を握る手に力を入れていた。
アゲハを抱えた二人へ振り返る。アゲハの口からは、微量の体液が垂れていた。紫色の毒液が、床へマーブル状の模様を作る。
「おろすぞ」
村名賀はつぶやくように言い、担架の上へアゲハをおろした。瞬間、ずしりとした重みが両手に加わる。アゲハの顔は冬子の方を向いていた。防護服のゴーグル越しに、小さな毒虫と、目が合う。
「林野さん!」
「はい!」
二人は朽木の掛け声と同時に動き出した。担架に与える振動はなるべく少なく、それでいてすばやく。冬子はアゲハを見ないようにした。さきほど目があった一瞬、虫の瞳に映る自分の姿の異様さに何故か戸惑い、一瞬我を失いそうになった。虫にはまぶたがないため、眠っていても瞳は空気に曝露したままだ。意識がないのだから虫は何も見えてはいない。虫にはまぶたがないから、小さな眼球がむき出しになっているだけだ。だが、決してこの目を見てはいけないような気がした。
開きっぱなしのドアをくぐり、そのまま隣の水槽へ移動する。村名賀は元の水槽で汚染された防護服を脱衣しているため、この先は冬子と朽木、二人のみの作業となる。
清潔な床へ担架を静かに下ろし、朽木が先ほどの村名賀と同じようにアゲハを抱きかかえる。担架のそばの床へ毒虫を下ろす。その間にも、冬子は担架を小さく折り畳み、ドアの近くに置いておいた廃棄ボックスへ収納する。
「出るよ」
朽木はすでに汚染された防護服の脱衣にとりかかっていた。冬子の防護服も、担架を折り畳む際に少々汚染されている。朽木と同様に防護服を脱ごうとした時、ふと、アゲハを見てしまった。毒虫の顔は冬子に向いていた。その小さな瞳に、自分が映る。防護服を脱ごうとする自分。この防護服を脱いだ下も防護服。……――「ぞわり、」、「ぞわり、」。アゲハと共鳴するように腹の奥の虫が蠢く。呼吸が浅くなり、あぶら汗が全身を汚す。――「ぞわり、」。
「林野さん! ぼけっとするな!」
朽木の怒声で我に返った。先に一枚目の防護服を脱衣していた朽木が、冬子の防護服の背部にあるチャックを開ける。冬子は朽木に助けられながら汚染された防護服を脱ぎ、廃棄ボックスへ入れた。
担架と二枚分の防護服が入った廃棄ボックスを朽木が抱え、先に水槽室の外へ出る。冬子はもう一度、振り返った。やはりアゲハの瞳は冬子を見ていた。これ以上見たらだめだ。冬子は歯を食いしばり、後ろ髪を引かれるような奇怪さを覚えながら、朽木の後に続いた。
冬子が水槽の外へ出た瞬間、ドアは自動で閉められる。ドアの外ではすでに村名賀が待っていた。いま着衣している防護服に汚染がないことを互いに確認し、ようやくこの防護服も脱いだ。三人とも、額に玉の汗が滴っている。
「林野さん、さっきどうしてぼんやりしていた。きみらしくもない」
責める朽木に、冬子は謝ることしかできない。
「謝罪ではなく、どうしてと」
「アゲハの、目を見てしまって。……すみません。集中していませんでした」
「……ほうけるなよ」
「すみません」
「二人とも、やめなさい」村名賀が冬子と朽木のやりとりを遮る。「ひとまず、アゲハの移動は完了した。林野さん、ありがとう。朽木君も、よくやった」
冬子も朽木も、上司の言葉に頭を下げた。
「朽木君は、廃棄ボックスを廃棄室へ持っていってくれないか。きみだったら、段ボール箱二つくらい簡単に抱えられる。いいな?」
朽木は素直に指示を受け入れた。水槽室の裏手から出るには、地下の廊下から焼却炉裏のエレベーターボックスまで上がらなくてはならない。三人で地上まで上がったあと、朽木は一人で建物の裏にある廃棄室へ向かった。
「寒いな。秋だ」
ジュラルミンケースを大切に抱えた村名賀が、ぼんやりとした声で世間話のようなことを興味もなさそうに言う。二人とも半袖のユニフォーム姿である。晴れてはいるが、早朝同様に、まだ寒い。
「村名賀先生。先ほどはすみませんでした」
「いや、終わりよければと言うだろう」
村名賀の歩は非常にゆっくりしていた。蟻の方が早く目的地にたどり着けそうなほどに、遅い歩みだ。
「アゲハの目を見て、なにか聞こえたか」
突拍子もない問いかけに、冬子は戸惑う。
「何か、言われているような気がしたとか」
「そんなことは、ありませんが」
「それなら、よかった」
その一言で、村名賀が冬子の精神状態を心配していることを理解した。
「ご心配をおかけして、すみません」
「だから、いいんだと言っているだろう」
歩いているうちに、センターの車避けへ着いた。先に中へ入ろうとする村名賀を、冬子は呼び止める。
「村名賀先生は、朽木先生の子供の頃のこと、ご存知なんですよね」
「ああ。一応、お亡くなりになった徳坊先生から聞いてはいるが――」村名賀の顔色が一瞬にして変わった。「もしかして、彼、林野さんに話したのか」
冬子はうなずく。村名賀は目を普段の二倍ほどの大きさになるほど見開いた。相当に驚いているらしい。
「きみたちはコンビを組んで、確かに長いが」
「四年七ヶ月なります」
「朽木君が、喋ったか」
「話してもらえて、よかったと思いました。朽木先生は、わたしとは違う場所から物事を俯瞰しているような――それがずっと違和感としてありましたが、お話してもらえて、違和感も腑に落ちました。ようやく、この人を心から信頼できると、思えました」
「そう。そうか」村名賀は、大きく見開いた目をうるませていた。「よかった。よかった。あの子は優秀な上に、他人との合意形成も他の研究者と比べてスムースにこなせる、だが、どこか世界と自分自身を突き放したようなところがあった。自身の領域への立ち入りを何人にも許さないような。だが、きみには許したのか。――徳坊先生も、ようやくご安心なされる」
一言一言噛み締めるように、村名賀は言う。
「徳坊博士ですか」
「お亡くなりになる直前まで、ずっと彼を気にかけていらした。自分がひきとったことは過ちだったのではないかと気を揉んで、おいたわしい限りだったが、よかった。徳坊先生は、間違っていなかった」
その言いようは、朽木に対する安堵よりも、徳坊博士の事績に対する讃美が強く感じられた。
「アゲハの組織解析で、これから我々は忙しくなる。きみも、麻葉氏の観察を論文にまとめるんだろう? ここからが正念場だ。きみは、これからも彼を支えてくれ。彼もきっと、きみを助ける」
はい、と冬子は明朗に意思を答えた。自分にはあと二ヶ月しかないとは、やはり言えなかった。
アゲハを移動させてから三時間ほど経った頃、母子はそれぞれの水槽で目を覚ました。子は床を何度か円形に歩いた後、元いた水槽での行動と同じく不規則に動き回る。その様子にたいした変化はない。しかし、母は違った。目を覚ますなり、周囲を探し回るかのように忙しなく行き来をした。明らかに子を探していた。いくら探しても子がいないことを悟ったのか、急に水槽の真ん中で止まると、身体中から大量の毒液を吹き出した。これまでに観察されたことのない量の毒液が床へ広がった。まるで大きな水溜りのようだった。その様子を、デスク上のモニターから昼食を摂りつつ観察していた冬子は、たまらず箸をおいて水槽室へ駆け込んだ。
無音のモニターからは想像できなかった鳴き声が水槽内に轟いていた。水槽の分厚いガラスすらビリビリと振るわせるその声は、硬い金属同士を強く擦り合わせているかのような、聞くことを全身が拒否するような音だった。
隣の水槽のアゲハは、特に変わることなく小さな足を忙しなく動かして水槽内を散歩している。
「麻葉さん」
冬子は麻葉の水槽に手のひらをつけ、声をかけた。
「ごめんなさい、子供を、とりあげてごめんなさい。勝手に産ませたのに、勝手にとりあげて、ごめんなさい。あなたの子供は隣の水槽にいます。ちゃんと元気だから。安心して。眠らせて、とりあげて、こんなひどいことを、すみません、ごめんなさい」
水槽の振動が手のひらに伝わる。ぶしゅっ、という音がして、さらに麻葉の体から毒液が噴出される。
「麻葉さん。ごめんね。ごめんなさい。わたしたちは、アゲハを殺すわけじゃないから。だから、安心して――」
その瞬間だった。麻葉の目が、冬子へ向けられた。大きな瞳に映る自身の姿を冬子が認識する間もなく、麻葉は冬子に向かって猛進し、腹からガラスへ体当たりした。
冬子は恐怖で体を動かすこともできず、手のひらをガラスにあてたまま硬直した。目の前には麻葉の胸部の生殖器官がある。交尾で使い、卵を産んだ器官。はじめて間近で見たそれは、人の口のように真一文字の穴だった。
麻葉はガラスに張り付いたまま咆哮した。全身から発せられているかのような大音声だった。
ガラスが邪魔だ。冬子は思わず歯軋りした。ガラスさえなければ、彼女を抱きとめられるのに。
「麻葉さん。砥誉泉さん。あなたの悲しい気持ちや、怒りを無駄にしないように、わたしたちは頑張るから。村名賀先生と朽木先生が、きっと成果を出すから。お願い。お願いします。もう無理しないで。穏やかになって、もとのあなたへ戻ってください」
虫に人間と同じ聴覚はない。人間としての思考力もない。語りかけたところで理解できているはずがない。麻葉は叫び、毒液を出し続ける。
「麻葉さん、麻葉さん、アゲハはあなたの隣にいます、ごめんなさい、虫になっても辛いおもいをさせて、ごめんなさい」
語りかけながら、冬子は自分もいずれこうなるのかと信じ難い気持ちで麻葉の腹面を見ていた。虫になり、もしも交尾させられ、産卵すれば、このような母性を自分も抱くのか。
「麻葉さん、あなたは一人じゃない、孤独じゃない、わたしがいます、安心して。お願い」
それから一時間ばかり膠着したが、やがて麻葉の体力が消耗されたのか、母虫は急におとなしくなり、ガラスから自ら離れた。その頃には、水槽の中央で噴出された毒液の水たまりも消失していた。麻葉は遅い歩みで水槽の真ん中へ移動し、消沈したように動かなくなった。
冬子もひどい疲労を感じていた。ガラスから手を離した瞬間、体に力が入らなくなり、その場へ座り込んでしまった。
「麻葉さん」
声をかけたが、麻葉は反応しない。足すら動かさず、水槽の真ん中へ鎮座している。
「林野さん」
背後から声をかけられ、冬子が振り向くと水槽室の入り口に朽木をはじめ、村名賀を含めた臨床部の面々がそこへ立ち尽くしていた。
「大丈夫か」
朽木の声かけに、冬子はうなずいて立ち上がった。
「みなさん、いつから」
「きみが食事をおいて飛び出した後、少しして」
気づかなかった。麻葉の声は、他の物音も気づかせないほどに大きかった。
「虫の、あれは母性なの?」
呆然とつぶやく鼓に誰も答えない。冬子は肩越しに虫の母子を振り返り、「そんなもの、ないほうが楽ですよね」とつぶやいた。
その日、皆が退勤した後で朽木が一般検査部のジュラルミンケースを冬子に渡した。「虫に触った場合、当日中に血液検査をすることになっているから」と。村名賀の分は朽木が採血し、一般検査部へ提出済みだと言う。
ジュラルミンケースには、二人分の検査キットが入っていた。どちらもA型であり、すでに二本ずつ記名されたラベルが貼られていた。一本は予備である。B型である冬子がこのキットで検査すると、『測定不能』の結果となり、予備で血液型を確認して再検査する。
「ほら、はやく」
朽木は部屋の隅にあった古い注射台を引きずってきた。冬子に向けて自身の腕をのせる。細く、骨と静脈が浮き出した腕だ。冬子は手早くニトリル手袋を装着し、駆血帯を朽木の腕に巻いた。アルコール綿で消毒し、くっきりと浮いている肘の内側の静脈へ狙いを定めて針を刺す。『朽木離苦』と書いてあるラベルが貼られたスピッツの中へ、血が勢いよくほとばしった。規定量に達したらスピッツを、入れ替える。二本目が充足したら、三本目。そして四本目。『林野冬子』とラベリングされたスピッツを朽木に刺したままの注射器へ装着した。
「いつも、多く採血することになってしまって、すみません」
職員には今回のように非定例の検査の他に、一年に一回の検査義務が課されている。その際にも同様に、冬子のスピッツには朽木の血液を採取して提出していた。
「謝るような量ではないだろ。これくらいで失血なんかしない」
「……はい」
四本分の血液を採取し、アルコール綿で押さえながら針を抜き、駆血帯を外した。止血は朽木に任せ、専用のケースの右側に朽木、左側に冬子のスピッツを整然とならべる。
「これ、ならべるたびに思うんです。どんなにきれいにならべても、しょせん左側はフェイクだって」
「そういうことは言わないほうがいい。バレる」
片手で器用に絆創膏を貼りながら朽木は言った。「多ヶ谷先生は勘がいいから」
「まさか。見ればわかるって言うんですか」
「そうではないが、あの人は妙に察しがいい。左がフェイクであることを忘れたふりをしていないと、なにか感づかれて面倒だ」
「左がフェイク」
「復唱してどうする。余計に忘れられなくなるだろ」
朽木は立ち上がり、ポーチの中身を雑然と並び替えた。ほら、とポーチのチャックを閉め、ポーチとジュラルミンケースを引っ提げて部屋から出ていく。
翌日から麻葉の行動記録の整理を開始するとともに、朽木が村名賀の補助に専念するために冬子でもできる事務作業の再配分が行われ、たしかに業務量が増えた。
監視カメラによる虫や収容者の映像は、すべてモニタールームでデータ化されていた。データ化済みの映像は原則として持ち出し禁止であるため、冬子は一日のうち数時間、自分のパソコンをモニタールームへ持ち込んで麻葉の過去の映像を早送りしながら記録をつけていった。作業のための机はモニタールームの片隅にあり、そこからは壁に埋め込まれた二十のモニターが一望できた。ときたま顔をあげると、収容者の様子や、水槽室の中の映像が入れ替わり映し出される。また、収容者とは無関係に、防犯のために館内に設置された防犯カメラの映像もたまにはさまれた。それらのモニターを、警備部の職員たちが監視している。
監視カメラの映像はこれまでにも見た経験がある。だが、あらためて見てみると、たった一人の部屋の中で、涙している収容者が少なくなかった。職員の前では気丈に振る舞う収容者も静かに泣いたり、さもなくば泣き叫んだり、様子はさまざまであるが精神の不安定さを監視カメラだけに露呈していた。
望ましいコミュニケーションをとっているようで、その実、VRCの職員には心を開いていない収容者が何人もいる。
一人だけで耐えようとしている収容者が何人もいる。
無力だ、と冬子は思う。自分の無力さに情けなくなる。悔しくなる。どうにかしたい。が――あと二ヶ月少しでなにができる?
自身の名を明かしてから数日、アシデモアは冬子や緒光が思っていた以上の大食でみるからに体重が増加していた。室内に設置してある体重計で測ってもらうと、収容時よりも五キログラム増えている。食べる量を減らしたほうが、と冬子が提案するとアシデは泣いた。結局、まだ標準体型ではないため、運動を取り入れつつ食事量は維持することとなった。緒光が提案したハンバーガーも、アシデは簡単に二つ平らげた。初めてそれを食べた冬子が「これはいいですね」などと言っていたら、朽木から「本当に食べたことがないのか」と驚かれた。
夜は水槽室へ毛布を持ち込み、麻葉の水槽の前で就寝した。麻葉はときおり咆哮し、毒液を全身から排出したが、激しさはアゲハを取り上げられた日には及ばなかった。冬子が目の前にいることが麻葉の行動を左右することはなく、麻葉に寄り添うことは完全に冬子の自己満足でしかなかったが、それでも冬子は麻葉を近くで見守っていたいと水槽室の床で寝起きをした。
アシデモアの名前が判明してから一週間が経った頃、特殊感染症管理局の新景から連絡が入った。アシデの身元が判明したという。新景は、連絡を寄越した一時間後にはVRCに到着していた。
「今日は朽木さんもいらっしゃるんですね」
応接室で冬子と朽木がそろって新景を迎えると、新景は喜ばしげにそう言った。朽木はうんざりした表情を隠さない。
「あなたのこと、管理局の資料にも載っていましたので読ませていただきました。いろいろとご苦労されたようで」
「その資料に掲載されている以上のことを管理局の方にお話しする義理はありませんので、それまでにしていただけますか。今日はアシデモアの件でいらっしゃったのでしょう」
「ああ、すみません。ご同僚の前でしたね」
「いえ、林野もすべて知っていますので」
新景は意外そうな顔をして冬子を見た。冬子は舌を思いきり出したい衝動を抑えて「新景さん。調査の結果を教えてください」と促す。
「情報をいただいた日のうちに警察に投げたのですが、その三日後、アシデの実家が判明しました。本名は、これです」
新景はホチキス留めされたレポートを二人に示す。その中に、「葦手もあ」と書かれていた。
「年齢は二十八歳。生まれも育ちも都内です。実家がわかった日に、わたしは両親へ会いに行きましたが、そこで大した成果は得られませんでした。両親は、葦手もあのことを何も知らなかった、いつの間に家からいなくなっていたかすら、見当がつかないと言っていました」
「そんなこと、あるんですか」冬子はたまらず、尋ねてしまう。
「いくらでもあります、そういう家庭も。自分にとって身近でないことが非現実の証ではないでしょう? ――仕方がないので、わたしは近所の家々を訪ねて情報収集を行いました。葦手には三歳年下の妹がいましたが、葦手が七歳、小学二年生のときに病死しています。生まれつき、心臓に欠陥があったようでずっと入退院を繰り返していたそうです。両親は当然のように妹に時間を割き、あまり葦手には気を遣わなかったそうですが、妹の死後もそれは変わらなかったようです。葦手自身も妹の逝去がショックだったらしく、それ以後、学校に通わず、家から出ることもほとんどなかったようです。葦手が在籍していた小学校にも問い合わせましたが、二年の途中から出席日数はゼロ。中学校に至っては言わずもがなです」
「少し、納得できるような気がします。葦手さんは、年齢よりもはるかに幼いです。精神的に小学生のまま止まっているなら、今の状態も、わかります」
「周囲の支援があれば良かったのでしょうが、セーフティネットに引っかからないまま流されてしまったのでしょう。両親によると、葦手は自室に引きこもり、一日中インターネットで遊んでいたようです。両親の許可が得られたので、彼女の部屋に入り、捜査しましたが肝心のパソコンはありませんでした。おそらく、家出の際に持ち出したと思われます」
「七歳のとき――二十一年前から引きこもっている人が、急に外へ出られますか?」
訊きながら、冬子は何か引っ掛かりを感じる。――二十一年前?
「ネットで調べていれば、ある程度は社会の様子も、外での移動の仕方やふるまい方もわかるでしょう。いくら七歳から不登校とはいえ、ネットである程度他人とやりとりしているなら、コミュニケーション能力がまったくの無である状態とは思えません」
「新景さん、ネットを使用していたことがわかっているなら、プロバイダに問い合わせて閲覧履歴を開示すればいいんじゃないですか。あなたがた管理局は捜査権もお持ちなのですから、手段としては可能でしょう?」
朽木の発問に新景は首を振った。
「IPアドレスどころか、どこのプロバイダを使っているかすらわかりません。彼女は親が与えたクレジットカードを使って勝手にプロバイダ契約をしていました。そのクレジットカードも、明細はデータで送られるため実家には書類が何もなかった」
「クレジットなら、引き落としがあるでしょう。銀行口座の履歴は」
「この葦手の親がどうしようもない人間なんですよ。葦手もあ名義の口座に二千万円を入れておき、それを使って生活するように指示したそうです。小学校入学時に、キャッシュカードと通帳と合わせて、ノートパソコンを与えて。それを使って葦手は、本来は親が与えるべきものを自分で購入していたようです。親は二十年以上前のことで、どの銀行に葦手もあ名義の口座を作ったか覚えていないと。銀行から送られてきたダイレクトメールなり、なんらかの通知なり書類があるのではないかと迫りましたが、梨の礫でした」
「クレジットカードの作成には、親の同意書が必要では?」
「ネット申し込みならいくらでも偽造できますよ。本当にどうしようもない」
「二千万……二千万円を用意立てできるとほど、ご両親は資産家ですか?」
冬子の問いに、新景は「親というより、その直前に死んだ祖父の遺産です」と忌々しげに口を曲げた。
「捜査はそこで手詰まりです。部屋もしっかりきれいに掃除されていて、本も、趣味のなにかも、本人のパーソナリティを知ることができそうな手がかりは一切ありませんでした。着替えもなく、食料もなかった。両親は手をつけていないと言っていましたから、おそらく葦手が処分したのかと思われます。部屋にはベッドと小さな冷蔵庫と電気ケトルしかありませんでした」
新景は「ネットがお友達だった彼女が何を調べるだろうかと、わたしなりに考えました」と続ける。
「まずは世間一般のこと。ネットニュースや掲示板、SNSのネットサーフィンです。他には自分のこと、自分の身の回りのこと、大切なもののこと。葦手は死んだ妹を大層大事にしていたようです。妹は地方の大学病院で治療していたようですが、退院するときは必ず両親に頼み込んで一緒に迎えに行っていたとか。この妹を治療していた大学病院が」
新景がその病院名を言うや否や、朽木があからさまに顔をしかめた。
「途中から嫌な予感はしていたが、俺が入院していた病院ですね。『救済の法』事件のあとで」
「あなただけが入院していたわけではない。老箱神知も、そこのVIPルームに入院していた」
「VIPルームは老箱だけ、俺は普通の個室でしたよ」
「そうでしたか。老箱サイドにはカネがありましたからね。彼は、叔母の八星カナエに引き取られています」カナエは『叶廻』と書くと新景は説明する。「八星叶廻は、土地持ちの資産家で未亡人。甥っ子にも湯水のように金を使ったようですね」
「お二人とも、葦手さんの話は」
冬子が口をはさむと、新景は興味もなさげに「ああ」と言う。
「葦手もあの妹が、その事件の時期にその病院へ入院していました。妹の最後の入院です。彼女が息を引き取った日、『救済の法』事件が明るみになり、朽木さんと老箱神知はその病院へ運ばれました。それを知ったマスコミが病院へ大挙し、その前でカメラをまわしていたそうです。きっと、葦手はその騒動を見ていたのではないでしょうか。長じてそのことをネットで検索し、変身症に関心を持ち、なんらかの経緯で感染した」
「新景氏、あなた、いまの老箱神知が何をしているかご存知ですか」
「大学を中退したことまでは、管理局内でも噂レベルで話がされています。ただ、『救済の法』事件において管理局は老箱神知に責任を求めていないので、事件後の彼については調査の対象ではなく、管理局が把握している情報はありません。事件後については、公安の管轄でしょう」
「今は『ワールドホープ』というNPO法人を立ち上げて、変身症感染者の家族の支援や、偏見解消に関する活動をしているそうですよ。名前も、八星救輪廻に改名して」
「なんですか? クリエ?」
「八星救輪廻」朽木は鬱陶しそうに字を説明する。「このあいだ会った時、それとはなしに葦手さん方のことを喋ってみたら何か知っている風でした」
「連絡先など、ご存知ですか」
朽木は八星の連絡先を誦じた。まさか暗記しているのか、と冬子は朽木を凝視した。新景は自身の手帳に手早く朽木が言うことを書き留める。
「面倒くさい名前を考えましたね、彼も」新景は自分が書き留めた内容をまじまじと見ながら、あからさまに呆れている。「葦手もあは、妹が死んだ当時の大学周辺の騒動を調べ、老箱神知を知った?」
「さあ」
「さあ、とは、朽木さん、あなたがたの仕事はそれを聞き出すことでしょう」
「臨床部の仕事は収容者の健康管理を優先します。その結果、まだ彼女から真実を話してもらうに至っていないだけです」
「林野さん、あなたも同意見ですか」
「はあ」冬子は面倒くさくなる。「少なくとも、わたしたちが葦手さんに証言を強制することはできません」
「つれないですね。まあいいです。ワールドホープなんて団体、聞いたこともありませんが、変身症感染者の家族の支援、ですか。現在収容されている感染者の家族にも接触していないか、確認した方が良さそうですね。なんだか、きな臭い。直感ですが、掘ったところであまり良いものは出てこなさそうだ」
そういえば、と冬子は思い出す。滝縞吉信の両親も、八星の車に乗せられてどこかへ行った。彼らは、どこへ連れていかれたのだろう。
「ゼロニとカワマエタロウは変わりなしですか?」
「ええ。自らのことは話そうとしません。まあ、日々の問診で体調については喋ってくれるので、我々のことを完全に拒否しているわけでもなさそうですが」
「引き続き、聞き取りはお願いしますよ。――そういえば、交尾させた虫はどうなりました? 卵が一つ、孵化したと報告いただきましたが」
「今、採取した組織から遺伝子解析を行っています。明後日までには解析結果が出ますので、それをもって今後の臨床研究につなげます」
「解析に時間がかかっていませんか?」
「うちにあるシーケンサーはとっくに型落ちしていますから」
「センター長が新しくなったのですから、新型を購入するよう予算計上なさったらいかがです」
「ええ、あなたに言われずとも」
「前の吝嗇なセンター長が亡くなって、よかったですね」
「新景氏」朽木は引き攣れた笑みを顔に浮かべた。「死人を悪くいうものではありません」
これは失礼、と新景は顔をしかめる。
「調査は続けます。国立特殊感染症研究機構の千葉支部で発生した血液の盗難事件の捜査も暗礁に乗り上げていますので、どちらか片方でも真相にたどりつければいいのですが」
「世論はどうですか、その盗難に対して」
「ご存知でしょう? 大バッシングです。研究機構の締め付けを強くはしましたが、マスコミの煽りもあって各支部には脅迫めいた文書が届くこともあるようです。大衆心理の成れの果て。専門家でもないくせに聞き齧った情報だけで分析して結論を出し、間違っていると決めつけた対象をぶちのめそうとする。それによって形成された世論なんてクソ喰らえですよ。むろん今回の件は千葉支部の管理責任もありますが、盗難とは関わりない研究機構の存在そのものまでをバッシングの対象にするなど。しかも捜査している我々管理局にまで矛先が向けられています。大衆様はいくらでも好きなようにわめけて羨ましい限りです。今の自分たちがどうして自由に発言できているのか、奴らはいま一度考えるべきです」
「自由な発言は自然権によって、理由や経緯は関係なく我々が生きている限り保有し続けるものです。国家はそれを保証しているにすぎない。バッシングは政治や行政と一般人の間に信頼関係がないために発生しているのではないですか? その信頼関係を築く責任は政府や行政の側にあるでしょう」
「それは理屈でしかないですよ、朽木さん。世界には国家によって発言を制限されている人々がどれほどいるか。政治や行政を批判する奴らは、自分たちの自由が誰から与えられているかを自覚するべきです」
「ですから、それは与えられるものではなく」言いかけて、朽木はやめた。議論したところで無駄だと判断したようである。「まあ、確かに自由な発言には本来責任が伴うことを理解していない人々の方が多いでしょう。無責任な発言が、誰かの、または社会の利益を損ねていることに気づいていない。正確かどうかもわからない与えられるだけの情報に素人が左右され、それが大きな波になることなどいくらでもある。科学リテラシーを備えている一般人の方が少数です。マスコミなら尚更、リテラシーなどぶっちぎってでも大衆が面白がりそうなわかりやすいことを取り上げ、無責任に世論を形成するのですから」
「おっしゃるとおりだ。あなたがたの交配実験を成果が出るまで公表しないとしたことは、その点においても懸命な判断でしょうね。強い倫理観を持つ大衆は、成果が出る前に大声を上げてあなたがたの実験を潰しかねない」
「こちらは民間ですから、世論を気にする必要もないと言えばないのですが、そうも言っていられませんからね」
「それはそうでしょう。公益財団法人は一般の民間企業とは異なる。それに、貴センターは多額の寄付金を必要としているではないですか」
朽木は嘆息した。「しがらみさえなければ、科学は百年二百年分くらいとっくに進歩していたのではないかと思いますね」
ほとんど愚痴の言い合いになっている男二人をよそに、冬子は最近ポータルサイトで見かけた新聞記事や週刊誌の内容を思い返していた。確かに盗難事件を端緒とした研究機構に対するバッシングが多かったように記憶する。ポータルの情報共有のページには、このバッシング騒動に対するセンター長の所感が掲載されていた。外部の騒ぎに飲み込まれず、我々は我々が行うべき仕事を進めましょう。そのような内容だったと記憶する。
「貴センターの初代センター長の弟御は現在の総理大臣でしょう? 補助金の予算配分など、融通はきかないのですか?」
あ、と冬子は朽木を見た。補助金――以前、鼓や長門と話していた収容者の精神面でのサポート要員を雇用するための補助金があれば。淡く期待をしたが、朽木の返答は乾いたものだった。
「ある程度はもしかしたら、というところですよ。身内であることを理由に国家予算を動かすなど、下手をすれば前政権の二の舞になる」
「二の舞ですか。確かに、前の政権の評判は霞ヶ関でも最悪でしたからね。締めるところは不必要なまでに締めるくせに私腹を肥やすのでは、誰もかばうことができないと知り合いの官僚もぼやいていました」
「研究補助金などもだいぶ削られ、施設に対する補助金も言わずもがな。研究者たちから怨嗟の声すら上がっていた」
「その話も耳タコです。研究機関方面だけでなく、管理局においても大きな削減がありました。UNGウイルス感染者に関わる人物の血液検査の対象範囲が、だいぶ狭められてしまった。性交渉があった者、もしくは感染者の血液に触れた者で、しかも自己申告です。ほとんどザルですよ。検査数は大幅に減り、検査にかかる費用も削減されました」
「しかし、それはほとんど唯一と言うべき良い法改正だったのではないですか? 実際、法改正前は手当たり次第検査をし、その数も膨大でした。それでいて、実際にその中から陽性が出ることはほぼゼロ、検査はただの安心材料でしかなかった」
「わたしは、調査による検査は感染者の関係者全員を対象にするべきだと考えを変えることはありません」新景は非常に強い口調で断じた。「安心材料でいいのです。実際にそれで、感染が広がっていないことを確認できた例がいくつもありました」
「現場のあなたからすれば、そういう意見を持つものでしょうが、しかし」
「しかしも何もありません。わたしが最も胸をなでおろした事例の話でもしましょうか」
新景は朽木の返答を待たず勝手に喋り続ける。
「十年近く前のことです。その感染者は、高校の教員でした」
高校の教員――? 新景の話をほとんど聞き流していた冬子は、一瞬で集中を取り戻した。
「中高一貫の女子校の数学教員で、二十七歳の男です。正月明けに出勤しないので彼の上司が家へ様子を見に行ったら自殺していた、その下半身は変身症によるメタモルフォーゼが始まっている状態でした。感染源は彼が高校生の頃に交際していた女だと推定されています。もっとも女はその前に自殺していて実際に感染していたかは調べられませんでしたが。ともあれ、その教員の友人知人関係者、すべてが検査対象になりました。そこには、彼が勤めていた学校の生徒一六八〇名も含まれていました」
「それは大規模ですね」朽木が適当に合いの手を入れる。冬子は口を固くつぐんだままだ。下手な発言などできない。
「ええ」新景の語り口は随分気持ちよさそうだ。「わたしはこの調査で主担当を務めました。なにせ規模が大きかったので、調査員数名がかりの大仕事です。感染者の家族の話によれば、男には交際相手がいたようですが顔も名前も不明、友人や同僚に聞いてもわからない」
ですが、と新景はつなぐ。
「そんな中で、ひとつだけ目撃情報があった。彼が住んでいたアパート近くを日常的に散歩していた老人が、遺体が発見される前に彼の部屋から出てくる女子高生を見たと言うのです。また、アパートの住人からは正月に男女の会話が彼の部屋から聞こえたと聴取しました。あらためて学校の教員たちに聞き取りを実施しましたが結果は得られませんでした。そのうちに全校生徒の検査結果はすべて出揃い、一様に陰性が確認された。感染者はもしかしたら教え子と交際していたのかもしれない、しかしその教え子は確実に感染していない。初めての交際相手から、死ぬ間際に交際していた相手の他に関係を持った人物もいないとみられる。その結論をもって調査は終了しました」
冬子は緊張を悟られまいと平静を装い、相槌を打つ。
「たとえば駅の防犯カメラをチェックすれば交際相手の特定はできたかもしれません。ですが、交際相手は自分が教師と関係していたことなど知られたくはないでしょう。検査対象の範囲が広域であることは確かに膨大な検査の発生につながりますが、管理局の業務を結果的として簡便に済ませ、感染者の周囲の人間のプライバシーを守ることもできる」
「それは一つの事実でしょうね」
「そうです。そして、すべての事実は瑣末なものでは決してありません。実際、厚労省内部では調査における検査範囲を以前通りに戻す動きも発生しています。朽木さん、あなたも徳坊龍二郎に面識があるならば、口添えしてください」
「わたしはそれよりも全国民が定期的に検査を受けるための制度設計を考えた方が良いと思っています。よって、あなたがたの要望を龍二郎氏に伝えることはしませんよ」
新景はあからさまに不機嫌を顔へ表した。
「林野さんは、いかがですか」
「わたしですか」冬子はボロを出すなと自分に言い聞かせる。「わたしも、朽木先生と同意見です」
「なるほど。――では、あなたがたの意見とわたしの意見の両方が実現すればいいですね」
一転、新景はにこやかに言う。
「わたしはお二人のことを気に入っていますので、仲違いはしたくないのですよ」
冬子は早く話を切り上げるべく、「それはどうも」と適当に返す。
「なぜ気に入っているかを聞いてはくれないのですか」
「いえ、特には」
「虫の交配実験という人間の倫理を問われる実験に関わっているからです。普通の人間なら怖気立つような実験に関わるあなたがたの内面を、わたしは知りたいと思っています」
「皮を剥がれたとしても、あなたには知られたくないですね」
新景に対して愛想をとっくに忘れた様子の朽木は、腕組みをして言い放った。新景はそれすら嬉しそうに聞いている。
「では、わたしはそろそろ。また新たな情報があれば、ご連絡をお願いします」
立ち上がる新景を、冬子と朽木はエントランスまで見送った。二人とも、新景から何を言われようと適当な返事しかしなかった。
「さっきは、よく耐えた」
エントランスから臨床部へ戻る道すがら、朽木は冬子を労った。
「新景さんが、あのときの担当だったなんて」
「真面目なのだろうが、それはそれとして扱いが煩わしい人だ。あまり気にしないほうがいい。どんな意見を持とうと彼の勝手だが、俺たちが彼の意見に同意できるかどうかは別の話だ」
それよりも、これからの話だ。そう言って朽木は冬子を見た。
「葦手さんのこと。管理局が彼女を調査していることは、黙っておこう。きみだって、知らない人間が自分のことを調べているなどと聞いても、いい気分ではないだろう? 彼女が話してくれるまで、待とう」
「……そうですね」
死んだ人間について考えるより、生きている人間が優先だ。冬子は自分にそう言い聞かせ、朽木から見えないように、拳を握った。
その日のうちに、新景から冬子へ連絡があった。曰く、「ワールドホープというNPO法人は存在しません」。曰く、「教えていただいた連絡先に電話してみましたが、使用されていない番号でした」。
電話を切ったあと、その内容を朽木に伝える。
「神知は、どこで間違ったのだろうな」
そのつぶやきは、自問自答のようでもあった。
「新景さんは、個人的にもう少し調べてみるそうです。なんだか気持ち悪いとおっしゃっていました」
「うん――。俺たちは、俺たちの仕事に専念しよう」
朽木は自分に言い聞かせるように言って、デスクへ向かった。
虫の母子から採取した組織は、遺伝子解析をゲノム解析部、成分分析を生理化学検査部や細胞検査部に依頼している。ゲノム解析部には、村名賀と朽木自らも一時的に出入りしていた。
「村名賀先生は、五年前までゲノムの部長だったんですよね? 古巣への出入りって、今のゲノム解析部の方々はどう思っているんですか?」
その日の夕飯の折、臨床部内には冬子と朽木以外誰もおらず、冬子は気軽に朽木へ尋ねた。定時前、村名賀が「またゲノム解析部へ行ってくる」と言って出て行ったきり、戻る気配もない様子が気になっていた。
「中の研究員は九割がた入れ替わっているから、研究員のほとんどが村名賀先生のことを直接には知らない」
「確かに研究員の方の入れ替わりは一定頻度でありますけど、九割は多すぎませんか?」
「赤西前センター長だよ。あの人が就任後、徳坊先生の直属の弟子はことごとく降格や理不尽な異動に遭ったり、退職勧告を受けたりした。安瀬先生も村名賀先生も例外ではない。安瀬先生は治療開発研究部長から一般検査部長へ、村名賀先生はゲノム解析部長から臨床部長へ。どちらも花形部署から地味な部署への異動。そもそも研究員の部署移動なんて、本人が希望しない限り滅多にない上、それが部長だ。あからさまな嫌がらせと、徳坊東一郎のカラーを排除しようとする意思を内外に示した。理不尽な目に遭った研究員は十数名は辞め、安瀬先生と村名賀先生しか残らなかった」
「そんなに」
「徳坊先生と赤西前センター長は、イギリスに留学しているときに何か一悶着あったらしい。あくまで噂レベルで信憑性もない話だ。今の病理の柳田部長も、赤西前センター長の学生時代の研究室の後輩らしいが、徳坊先生と赤西氏の確執については何も知らない」
「でも、部長が変わったからと言って、研究員がほぼ入れ替わるものですか? ゲノム解析部って、三十人くらいいますよね」
「村名賀先生は、一応慕われていたんだよ。実績のある人だし。それが理不尽な異動に遭って、このセンターそのものに失望した研究員が他の研究機関へ流出した。そのかわりに他の人材が入ってきた」
「安瀬先生がセンター長になって、村名賀先生が古巣に戻ることはないのでしょうか」
「さあ」答えながらも、朽木は淡々と食事を進める。今日の夕飯は和食膳だった。「いくらなんでも、柳田先生の顔に泥を塗ることはしないだろうし」
そうですよね、と冬子は納得した。使っている矯正用の箸はどうにも窮屈だったが、それが少し楽しく、空中で箸先を開けたり閉じたりした。
「食べ終わったら、ゲノム解析部に行ってみるか?」
「いいんですか?」
「研究員もほとんど帰っているだろうし、シーケンサーを眺めるくらいなら、文句も言われないだろう」
食事を終えたあと、朽木の手引きでゲノム解析部に足を運んだ。「研究室」とプレートが貼られた部屋の前室で防護服を着込む。案内された部屋は縦長に仕切られ、作業台の上には顕微鏡や実験用具が雑然とおかれている。奥の方には、冬子には何に使うのかよくわからない大型の機械がいくつもあった。朽木の言う通り残業をしている研究員はまばらで、ふらりと入ってきた朽木や冬子を一瞥するものの、いずれも興味なさげに自分の作業へ戻っていく。
「朽木先生、村名賀先生なら柳田先生の部屋ですよ」
一人の研究員が、親切心からか声をかけてくれた。朽木は愛想良く「ありがとうございます」と手を振る。
「シーケンサーは奥の部屋だ」
朽木は慣れた様子で機械の間を歩き、奥の壁にあるドアの横にある虹彩認証に瞳を写して開錠する。その部屋には、大型の同じ機械が六台あった。
冬子の胸元くらいまでの高さで、めいいっぱい腕を回しても抱えきれそうにない大きさだった。それぞれの機械の上部にはモニターがついている。
「村名賀先生は、一番奥の二台を使用している」
こちらが麻葉さんで、あちらがアゲハだと、朽木は言う。アゲハの遺伝子を解析している機械の前まで来て、モニターに指先を触れた。タッチパネル式のモニターを、朽木は慣れた様子で操作する。内容はすべて英語で、朽木の操作も早く冬子は目が追いつかない。
「ここから、何かわかるかもしれないんですね」
「わかるどころか、治療につながるかもしれない」
冬子はシーケンサーに触れた。無機質な機械は、低い稼働音を響かせている。
「あと十パーセントほどだから、明日か、遅くとも明後日くらいには配列解読されたデータができる。そこから、情報解析が始まる」
「目処はあるんですか?」
「アゲハはⅠ型とⅡ型のミックスだろう? 遺伝子配列がどう異なっているか、そこからUNGウイルスのDNAを破壊できる要因がないか、探る」
「DNAを、破壊」
「変身症を治療するためには、人体に入り込んで根付いたUNGウイルスのDNAを破壊するしかない」
DNAを破壊、と言われて、冬子は自身の体の内側を想像した。
「仮にUNGウイルスのDNAを破壊できたとして、その感染者は健康でいられるのでしょうか」
「治療の副作用ということか?」
「いえ、なんというか……」
尋ねはしたが、冬子自身もいまひとつイメージがついていなかった。自分の体内に「いる」UNGウイルスが「破壊」されたら、自分がどうなってしまうのか、途方もない不安がある。
――ぞわり、
腹の中へいるはずもない虫が「ぞわり、」と動くような感触がした。自らの存在感を顕示しているような感触。呼吸が苦しくなる。それは自身の気のせいにすぎないことを冬子は理解しているが、しかしそれは「ぞわり、」とのたうつ。
「林野さん?」
「すみません、大丈夫です」
どちらにせよ、自分には関係がない話だ。冬子は自身を納得させた。あと二ヶ月で特効薬が開発されるとは思えない。二ヶ月して虫になり、麻葉と同じ成り行きになれば、数ヶ月後にはこの機械で自分の組織が解析されているのだ。それはもう、定められていることなのだ、と。
ゲノム解析部を出たところで、部長室から出てきた村名賀および柳田と鉢合わせした。挨拶する朽木の後ろで冬子が会釈していると、柳田が「あなた、広報部の手伝いをしていた方ですよね」と目を留める。
「はい、ドネーションの説明会で」
「朽木さんのところの助手さん?」
「はい」
「朽木さんにこき使われているんですか? あなた、泊まりこんでいるって噂されていますよ」
「噂?」冬子は戸惑いながら「噂になっているんですか?」
「研究者の徹夜なんてザラにあることですが、研究助手ならちゃんと帰りなさい。村名賀先生も、ご指導されないんですか」
「まあ、本人が好きでここにいるなら」村名賀は特に興味がなさそうである。
「村名賀先生も、たまにはお帰りになればいいものを。お体壊しますよ」
「帰宅する時間があったら寝ていますし、寝ている時間があれば仕事をしますよ」
「まったく」柳田は呆れ返ったように嘆息した。「おかしな方々だ」
朽木は適当に挨拶し、冬子を促して上司たちの前から辞した。臨床部へ戻るなり、冬子が「わたし、噂になっているんですか」と朽木へ問い質すと、「地下一階の仮眠室から水槽室まで毛布を持って移動する姿は結構目立つ。退勤するときに見かける職員が多いらしい」と答えがある。
「水槽室で寝る必要なんてないだろう。それで麻葉さんがどうこうなるわけでもないことは、これまでに証明されているんだ」
「そういうわけではなくて。わたしはわたしの自己満足だけで麻葉さんの前で寝ます。できるだけ、寄り添っていたいんです。それだけ」
朽木は呆れたように冬子を見た。その表情は先ほどの柳田とそっくりである。
「水槽室の床は冷えるだろう。無理するなよ」
「ご心配おかけして、すみません」
反省している様子を見せつつ、冬子は行動をあらためるつもりは毛ほどもなかった。その日の晩も二十二時過ぎには仮眠室から毛布を持ち出して水槽室へ行った。
「麻葉さん」
呼びかけたところで、無論返答はない。虫となった麻葉は、自身が収まる水槽の真ん中に鎮座していた。その周囲には、今日の朝食から手をつけられていない鶏肉が六つ転がっている。
昨日まではこれまでと変わりなく、天井の補給口から鶏肉が落とされるたびに餌をむさぼっていたが、麻葉は今朝から急に見向きもしなくなった。動作もこれまでよりのろい。そろそろだろうか、と冬子は不安を感じる。虫になってからの余命は個体によりけりだが、あるとき急に心停止するのではなく、徐々に弱っていく例がほとんどだった。現在の麻葉に起きている状況は、その兆しとしか思えない。
「麻葉さん、わたし、ここにいますね」
冬子は麻葉の水槽の前に座りこみ、毛布にくるまった。座りながらの睡眠も慣れた。朽木が言うほど水槽室の床は冷たくない。
冷たい床――センセイの部屋の玄関で、背中に感じた床の冷たさに比べれば、冷たさなど微塵もない。
麻葉は時折、細かい足を気まぐれのように動かした。その様子を眺めながら冬子がうつらうつらしていると、不意に水槽室の自動ドアが開く。はっとしてドアを見れば、そこには柳田が立っていた。帰宅するところなのか、黒のトレンチコートを着込み、カバンを手にぶらさげている。
「柳田先生。おつかれさまです」
冬子が立ち上がると、柳田は「本当にいらっしゃるとは」と呆れたように言いながら近寄ってきた。
「虫は、いま、二匹ですか」
「はい。母と、子の」
「小さい方は、動いていますね」
アゲハは縦横無尽に水槽内を動き回っていた。虫には朝も夜もない。動きたい時に動き、寝たい時に寝る。日が当たらない水槽にいるからなのか、もともとそういう性質なのかは不明だった。
「朽木さんも、村名賀先生も、まだ仕事をされているようです。まるで何かに急かされているのではないかと思える」
「変身症撲滅に近づくスピードが早ければ早いほど、救える命が増えます」
「その前に自分たちの体がどうにかなったら元も子もないでしょう」
「柳田先生も、こんな遅くまでお仕事なさっているじゃないですか」
「きみの上司たちにつきあわされただけですよ」
冬子は長身の柳田を見上げた。その言い様とは裏腹に、顔はあまり迷惑そうではない。
「柳田先生。どうしてこちらへ」
「これをきみに渡そうと思いました」
柳田はカバンの中からビニール袋を取り出した。冬子が受け取って中身を見ると、それはいくつもの使い捨てカイロだった。
「うちの女性研究員がきみの体調を心配していました。水槽室は寒いのではないかと。そのため、ゲノム研究室にあったカイロを持ってきました」
「あ……」まさか、知らない職員からも心配されているとは。「お心遣い、ありがとうございます」
「いいのですよ。こういうことは、持ちつ持たれつですから」
その言い方が、冬子には少し意外だった。もう少し四角四面で難しい人物だと思っていたが、印象と実際は異なるのかもしれない。
「柳田先生は――すみません、失礼なことを伺うのですが」
「構いません。なんですか」
「今は柳田先生の管轄であるゲノム解析部に、前部長の村名賀先生が出入りすることを、どのように思われているんでしょうか」
「なぜ、そのような質問をなさるのでしょう」
「そのことを、柳田先生はよく思っていらっしゃらないのではないかと、思いました。柳田先生は、赤西前センター長の後輩ですから」
「子飼い?」柳田はあからさまに顔をしかめた。
「いえ、後輩、と」
「ああ。後輩。そうですね、確かにわたしは、赤西さんの後輩ですよ。大学では大変お世話になりましたし、入庁後はなおのこと」
「柳田先生も文科省の出身で」
「そうです。主に先端科学に関する部署を渡り歩きました。定年まで勤めあげるつもりでいましたが、五年前にこちらへ天下りした赤西さんからお声がかかり、転職しました。初めに聞いていた話では、各研究室に対するアドバイザーという立場での入職でしたが、実際に赴任してみればゲノム解析部の部長のポストが用意されていて、驚きましたよ。わたしは、村名賀先生の実績を評価していました。しかし、赤西さんはとにかくこの内部を引っ掻き回したかったようです。何度かポストを変えるよう上奏しましたが、聞き入れられませんでした。それどころか、退職するなら次の職場が見つからないようにしてやるとまで脅しをかけられ、わたしは従わざるをえなくなってしまった、それがことの顛末です。つまらないでしょう」
「つまらないなんて、そんなことは」
「赤西さんと徳坊博士の間に何があったか、わたしも知りません。ですが、赤西さんにとっては多くの人を巻き込んでも足りないほどの遺恨があったのでしょう」
「徳坊博士は、お亡くなりになっているのに」
「そうです。本人は亡くなっているが、それでも晴らしたい恨みだったのだと思います。それを『効率化』や『予算削減』と称して実行したことは、許されるべきではありません」
「よほどの事情がおありになったのでしょうか」
「そのようなことを、あなたが考える必要はありません」柳田は断じた。「赤西さんは、VRCにとって悪人でした。あなたがその悪人について理解しようとする必要はありません。そういうことは、彼の暴走を止められなかったわたしのような、彼にまつわる人間が引き受けるべきですから」
柳田は冷めた面持ちで淡々と言った。だが、その様子とは裏腹に、その言葉は一言ごとに強い重みを宿している。
「安瀬先生の後任として治療開発研究部の部長に任じられた千代田先生も同じ気持ちだと思いますよ。彼は特に正義感が強い人です。製薬会社から転じられて、これまで思うように研究をできなかったようですが、赤西さんが亡くなってからはとても生き生きとしています。安瀬先生とも頻繁に情報交換をしているようです。――この交配実験も含めて、我々はおそらく良い方向へ向かっています。ここで働くことに、矜持を持てるようになる」
「矜持、ですか」
冬子は目の前を元気に移動するアゲハを見た。虫は人間が抱える苦しみもしがらみも関係ないとでも言いたげに、そこへ自由だ。
「アゲハと、名前をつけたそうですね」
「はい。朽木先生が」
「人だって蝶のように、羽がある虫のように自由にどこへでも行けるものです。いや、人は他の生物とは違い、自分の思うように生きることができる。しかしそのためには土台が必要です。自由を得るための土台になるものは、人によって違うのだと思います。わたしの場合は、それが矜持だ」
冬子はアゲハの水槽に手を触れた。わたしは自由になった、親を捨てて自由になった、その勇気がわたしの自由の土台なら――冬子は柳田に問う。「わたしはもっと、自由になれるのでしょうか」
「さあ。わたしはあなたのことを知りません。仕事熱心な若者、わたしが持つあなたの情報はそれくらいです。つまり、あなたを知らないわたしにその答えは出せません」
「そうですよね。すみません」
冬子は眉尻を下げて謝った。――腹の奥底で、いるはずもない虫が「ぞわり、」と蠢いた。
翌々日、麻葉とアゲハのDNAの解析結果が出た。麻葉の結果に、特筆すべき点はない。それよりも冬子は、同時に返された麻葉の毒液の成分結果に目を剥いていた。
虫から分泌される毒液の主成分はヒスタミンだ。その量が、通常の倍量になっていた。特に、顎肢から採取した毒液においてその傾向が強い。虫の毒液は無数にある足の付け根に存在する分泌腺で作られ、分泌孔および顎にある顎肢から出される。顎肢は捕食対象を確実に仕留めるため、分泌孔は敵に襲われた際に身を守るためにあるのではないかと推測されている。その顎肢から得られた毒液のヒスタミン量がそのほかの部位から得られた毒液よりも多かった。
攻撃性が増していたということだろうか。冬子はデータを見ながら考える。水槽内に満たされる麻酔薬に異常を感じ、眠りにつきつつも体内では戦闘態勢を強化していた――? もしくは、子をなしたことによって周囲に対する注意がより強くなったことの表れだろうか。アゲハから採取した毒液に含まれるヒスタミンの量は通常の虫と大差なかった。この違いが「母」と「そうでないもの」ならば、そしてアゲハと引き離された後の麻葉の様子を併せて考えても、虫には確実に「母性」がある。
子供を守ろうとする虫――虫にも愛があるのか、と冬子は天井を仰いだ。もともとが人間だったからか、それともそういう性質なのか。フリーマンに感染させた大元の虫がこの世に存在していない以上、確かめようもない。
冬子はデスクにおいたタブレット端末から麻葉の様子を見た。相変わらず微動だにせず、投げ込まれたままの鶏肉は灰色に変色しかかっているものもある。子供を守れなかった母親の胸のうちなど冬子は知る由もなく、思考を持たない虫が自身に降りかかる災厄をどのように受け止めているかもわからないが、カメラ越しに見る麻葉の姿はただただ痛々しいものだった。
その一週間後、麻葉は死んだ。
朝、冬子が目覚めた時には息絶えていた。夜のうちに死んだのだ。動かない体躯は変わらずとも、モニターを通した生命反応を見るまでもなく、その心臓が動いていないことを冬子ははっきり理解した。
朽木と村名賀へ報告後、病理生理部や施設管理部へ連絡した。病理生理部からはその日の午後に解剖を実施すると返答があった。
「林野さん、仕事、大丈夫か」
回診に行く直前に朽木から声をかけられ、冬子は小首をかしげた。
「解剖には立ち会いたいですが、午前は何もないので通常業務が可能です」
「顔色が悪い」
「朝ごはん、食べなかったからじゃないですか」
「食べられなかった、の間違いだろ。俺に二人分寄越したじゃないか」
「朽木先生が本当に食べてくださるとは思わなかったです」
冗談はよせ、と朽木は眉をつりあげた。
「麻葉さんが亡くなって悲しい。それはわかる。だが、それが仕事に影響するなら、今日は休みなさい」
「悲しい?」この人は何を言っているんだ、と冬子は不思議で仕方なかった。「悲しいなんてそんな感情はとっくに終わっています。今はただ、虚しいだけです」
回診は行きます。そう言って立ち上がった冬子を、朽木はそれ以上止めなかった。
「笠松舷、六十七歳、在室一年四ヶ月。502号室 葦手もあ、二十八歳、在室十三日。503号室 茶屋辻東湖、三十九歳、在室二年八ヶ月。504号室 網干鶴子、五十二歳、在室三年三ヶ月。505号室 海賦小恋、四十四歳、在室三年九ヶ月。506号室 柴垣良治、五十八歳、在室八年五ヶ月。507号室 巴まひる、四十五歳、在室一年四ヶ月。508号室 氏名不詳仮名ゼロニ、在室十三日。509号室 籠目葉鳥、四十二歳、在室七年一ヶ月。510号室 雁木靖一、四十歳、在室七年四ヶ月」
入室準備室でスピーカーに向かって収容者の氏名を滔々と述べる朽木の横で、冬子は彼らの半生を思い返していた。
笠松舷は大学卒業後に就職した中堅商社で定年まで勤め上げ、その後同じ会社に契約社員として再雇用された。六十二歳の時に笠松自身の飲酒による自損事故を起こし負傷、治療に伴って輸血を受けた。その二年七ヶ月後、輸血用血液がウイルスに汚染されていたとわかった。会社は事故を起こした後で解雇されており、家族や親しい友人はいない。収容後は食事を拒否し、死んだように横たわり続けている。
茶屋辻東湖は高校卒業後に地元のスーパーへ就職し、二十歳のときに十歳年上の夫と結婚して寿退社した。二十代はじめの頃に長女と次女をもうけたが、三十六歳のときに不倫相手からウイルスを得た夫の感染が発覚、茶屋辻自身も検査を受け感染発覚となる。夫は茶屋辻とは別施設へ収容され、すでに発症した。長女と次女は親戚の家へあずけられたが、翌年に二人で心中した。茶屋辻には娘二人の自殺について知らせているが、本人はその事実を信じておらず、娘二人に宛てた日記を毎日書き綴っている。
網干鶴子は二十七歳で大学院を卒業後に食品メーカーに就職、商品開発を担当し、四十二歳で結婚した。その七年後、今から二年八ヶ月前に夫の感染が発覚、網干も検査を受け、感染が発覚する。夫は別の施設に収容され、その年に発症した。夫は網干鶴子と交際する以前に関係があった女性から感染していた。網干は四年前に施術を受けた虫垂炎手術の際に検査を受けており、その際には陰性だったため、その後で感染したと考えられている。料理が好きで、部屋にはレシピ本が無数にある。
海賦小恋は結婚と離婚を三回繰り返している。一回目の結婚は十六歳のとき、相手はアルバイト先の上司で、結婚と同時に息子を出産した。二十一歳で離婚し、二十二歳で夜間高校に入学、五年後に卒業して自動車の中古車販売店に事務として就職した。二十九歳で中学の同級生と再婚し離職、翌年に娘を出産するが七年後に夫の浮気が原因で離婚する。離婚と同時に近所のドラッグストアでパートとして働き始める。二年後には友人に紹介された男と結婚するが、その翌年に感染が発覚した。感染源は、二回目の離婚と三回目の結婚の間に短期間だけ交際していた男だった。感染発覚直後、夫に迫られるがまま離婚を承諾。その後、娘と息子は同時に行方しれずとなっている。行方がわからなくなったとき、娘は十歳、息子は二十四歳だった。テレビを観ること以外に興味関心を持たないが、鑑賞した番組の内容を覚えていることはない。
柴垣良治は大学卒業後に居酒屋の運営会社へ就職したが、二年後に離職、そのまま引きこもりの生活を送っていた。四十九歳のときに思い立って外出し、そこで入った風俗店で感染した。一年後に感染が発覚し収容され、同年、柴垣の感染が原因で両親が隣家の夫婦に殺害された。その夫婦は今年にはいって仮釈放されている。
巴まひるは大学卒業後に文具メーカーへ就職、二十七歳の時に結婚し、双子の息子と娘の妊娠を機に退職した。四十歳のときの乳がんの手術に際し受けた輸血で感染し、その発覚は四十二歳のときであった。この汚染された血液が輸血された事故は笠松と同事例だ。収容前に挨拶もできなかった家族は、一度も見舞いに来ていない。
籠目葉鳥は大学を卒業するまでに浪人と留年を繰り返し、三十歳を迎えてから社会へ出た。その後も派遣社員やアルバイトを始めては辞めることを繰り返したが、三十四歳の時に菓子の販売事業を手がける小さな会社へ正社員として就職した。その一年後、一人暮らしをしていたアパートへ押し入ってきた男に強姦される。事件後に病院で検査を受けて感染が発覚し、そのまま収容となった。収容されてから六年の間に、両親を病気で亡くしている。感染源は強姦犯だと確定しており、その犯人は籠目の収容後、ビルの屋上から投身自殺した。籠目は気丈な性格で自身の境遇を嘆く発言はないが、夜は深夜まで泣いていることが多い。
雁木靖一は海外放浪を生きがいとしていた。大学卒業後、数年単位で旅に出ては帰国し、帰国中の短期間で働いて貯金してはまた海外へ行く生活を十年ほど続けていた。放浪から帰るたびに検査を受けており、その検査で感染が発覚した。収容後に購入したプロジェクターで、これまで自分が旅先で撮影した写真を壁に投影して眺めることが日課だ。
自分が担当する収容者ばかりではない。ほかのチームが担当する収容者は合計で三十人いる。間道コダマ、矢羽根芙蓉、忍冬玄馬、萩聞人、花喰元司、薄きよら、松毬夢、女波つなぐ、杢目望無、秋草弥実花、逆雲朱緒、畳目悍、立涌市太、髪みき子、琴菊正志、山水堯太郎、木瓜新以奈、福寿青賀、苫舟五十弥、秋名宝樹、波丸みちの、山路リリイ、花兎豪汰、松葉利通、樹下合斗、入子増美、荒磯銀河、糸屋策、檜扇王典――……
葦手もあ、ゼロニ、カワマエタロウも含めて、四十人は感染さえしなければ六面真白な十二畳の部屋へ監禁状態におかれることなどなかった。彼らにはそれぞれの人生があった。ただ「治療法が発見されていない虫になる病気」にかかっただけで、生きながら人生を奪われた。国や国際機関が人権侵害を許容した。むしろ推し進めた。法律によって人権侵害を整備した。――これは、情けないと言うべきだ。そして冬子は思う。自分は朽木によって収容を免れた。朽木の目的は人権侵害に対するアンチテーゼではない。あくまでも「自己満足」だと。――収容されている感染者に対して後ろめたさを感じずにはいられない。法律に対する罪悪感とは違う。閉じ込められている彼らに対する申し訳なさ。監禁されている彼らに対し、自分はどこへでも行ける。たとえ自分が何か功績を残したとしても、収容者からは微たる共感も得られないだろう、社会からも非難を浴びせられるだろう、それでも、それでも、――わたしはこの人の「自己満足」を成就させる。それがわたしの生に対する誠実の証、ほかの感染者も法律も関係は、ない。
「……――さん、林野さん」
何度か呼び掛けられたのだろう、朽木が強い力で冬子の肩を揺さぶった。目の前の扉は、いつの間にか開かれている。
「集中できないなら、仕事は休みなさい」
「すみません、ちょっと考え事をしていました。わたしは大丈夫です」
朽木は冬子を見つめ、防護服の中で嘆息した。行こう、と彼は扉の向こうへと進む。冬子はその背中に遅れじと、普段よりも大きな一歩を踏み出した。
葦手もあは二リットルのコーラのペットボトルをラッパ飲みしていた。彼女の肉付きは、数日前よりもさらに良くなっている。室内にある体重計に乗ってもらうと、収容時よりも十五キログラム増えていた。
「葦手さん、運動はしていますか?」
朽木の質問に、葦手は首をふった。
「そこのランニングマシンで走って、運動しましょう。このままだと肥満になりますよ」
もともと病的な痩せ方をしていた葦手はようやく標準体重に近づいてきたが、この増量は不健康だ。
「ここのごはん、あったかくて好きよ」
「それはなにより」朽木は嘆息混じりに応じる。「葦手さん、走ることが難しければ、ストレッチなどから始めましょう。教則本などもありますから、あとで生活支援部の職員に持って来させますね」
「それ、ひつよう?」
「必要です。このまま肥満になってしまったら、葦手さんが困るんですよ。肥満の場合あらゆる疾病リスクが高まりますが、ここは病院と違って満足な医療提供ができません。予防できる病気は予防しましょう」
葦手は「よくわかんない」と首をかしげる。
「はーちゃんも、おじさんとおなじこと、思ってる?」
冬子はいつの間にか葦手から「はーちゃん」と呼ばれていた。
「そうですね。自ら不健康になる必要はないと思います。食べたいものは食べましょう。その分、体も動かしてください。そうじゃないと、いずれ食べたいものを食べられなくなるかも」
葦手はじっと冬子の目を見て話を聞いていた。あまりに反応がないため、冬子は意味を理解していないのではないかと、どのように言えば伝わるか思考を巡らせる。
「はーちゃんは、いま、泣いてる?」
「わたしですか?」冬子は戸惑った。「泣いてなど、いませんが」
「んー」葦手はかしげた首をさらに横へ倒した。「わたし、とくべつじゃないけど、わかるの。かなしいのよ、はーちゃんは、いま」
冬子は朽木を見た。防護服の中で、彼は憂いを帯びた目で冬子を見ていた。
「かなしいひとは、きれいよ。みんな、なみだはきれいだった。わたし、なみだは、すき」
「泣いているわけじゃ、ないんですけどね……」
そのときにふと、冬子は気づいた。
「葦手さん。誰かが泣いているのを、見たことがあるんですか?」
「あるよ。たくさん。みんな、まいにち。泣いてた」
「どこで?」
葦手は「うーん」と天井を見た。それは、事実を隠そうとしていると言うよりも、思い出せずに困っているような仕草だった。
「よるに、泣くの。おふとんの中で」
「その人たちは、どうして泣いたんですか?」
「はーちゃんは、どうしてかなしいの?」
質問に質問で返された。冬子は戸惑ったが、はっきりと事実を伝えた。
「虫になった収容者の方が、今朝、お亡くなりになりました。それが虚しくて、もしかしたら心の中で、いま、たくさん泣いているのかもしれません」
葦手は呆けたように冬子を見た。
「むし」
「はい、虫になった、女性です」
「そのひとは、虫になって、死んで、楽園にいけたかしら」
「らく――……」
冬子はとっさに朽木を見た。その顔は見たことがないほど強張っている。
「葦手さん」冬子は震えそうになる声を必死で抑える。「楽園、とはどういう意味ですか?」
「虫になって死んだら楽園にいけるの。虫になったら、みんなをつれて楽園にいけるの。みんなを楽園につれていった人は、二度とつらいことがないの。わたしはもう、こんなところにいるから、みんなをつれていけないけど」
「それは、誰が言っていましたか?」
「みんなよ」
「その、みんなの、中心人物は」
葦手は首をかしげた。
「みんな」
「葦手さん、そうじゃなくて」
「林野さん、もういい」朽木が強い口調で止めた。「無理強いするな。……葦手さん、思い出したら、また教えてくれませんか? なんでもいいので」
葦手は朽木に対して小さくうなずいた。
「きょうは、おじさんのほうがやさしいね」
「俺は、いつも優しいですよ」
葦手は「ふーん?」と言って、またコーラを飲み始めた。
葦手の部屋を出た廊下で、冬子は「まずいのではないでしょうか」と言った。
「楽園なんて、明らかに『救済の法』ですよね。あの人が、八星が、二十一年前と同じことを行おうとしているなら」
「うん……」朽木は思案顔のままうなずいた。「ただ、葦手さんは子供ではない。二十一年前とは、微妙に違う。どうも、腑に落ちない」
「朽木先生が腑に落ちなくても、実際に感染させられている人が」
「確かにそうだが……いや、まずは回診を終わらせよう。あと八人分……ゼロニさんは、最後だ」
理由を問う冬子に、朽木は「七人分の回診をすれば、いくらか落ち着いて彼女と話せるだろ」と穏やかに言った。
最後の回診となったゼロニの部屋の扉を開けると、部屋の主はベッドの上であぐらを組んで瞑想していた。
「おはようございます」
朽木が声をかけると、ゼロニはゆっくりと目蓋を開いて上の空のような声で「おはよう」と返す。
「今日も、朝食は食べられましたか?」
「ええ」
ゼロニは収容当日の怯えが嘘であったかのように落ち着いていた。日常会話は滞りなく進められる。冬子が血圧計を腕に装着すると、「これ、発症するまでやるんですか」とうんざりしたように眺める。
「毎日、です。ご協力ください」
血圧、収縮期100、拡張期75。心拍数70。体温35.5℃。
「林野さん、どうかされたんですか」
バイタル正常、と冬子はカルテに数値を記録する。
「なにかあったんですか、林野さん」
「――え?」
上の空、とゼロニは冬子を指さした。
「どうして?」冬子は穴が開くほどゼロニを見た。「どうして」
「だって、語尾が震えていたから」
「そうではなくて、どうしてわたしのことを、気にするんですか。いままでそんなこと、なかったのに」
ゼロニの髪は白髪がまだらに散らかり、頬は粉をふくほど乾燥している。唇は甘皮が無惨に浮き千切れ、まつ毛には目ヤニがついていた。自分の在りようを気にしない人間が、どうして防護服の内側にいる他人のことを気にするのか。
「毎日顔をつきあわせている人の、ちょっと様子が違えば気になります。それが普通でしょう?」
「……そうですね、それが、普通です」
「なにかあったんですか」
「ここの収容者で、虫になった人が今朝、お亡くなりになりました。それで」
ふうん、とゼロニは虚空を見つめた。「わたしも、死んだら、動揺してもらえるのかしら」
「悲しみますよ」言いながら、その頃にわたしはこの世にいないが、と冬子は思う。
「他人なのに」
「これから、あなたのことをもっと知りたいと思います。悲しめるくらいには、悔しく思えるくらいには」
「悔しい? どうして悔しがるの」
「親しい人が不慮のうちに亡くなれば、それは悲しいだけじゃすまなくなります。無力な自分に、悔しくなります」
「わたしは、あなたに悔しがってもらえるほど価値はないと思う」
「どうしてそんなふうに言えるんですか?」
「どうしてって、わたしはただの感染者だし」
「ただの感染者とは」
「こんなところにいる、わたしこそ無力です」
「こんなところにさえいなければ、無力ではなかったということですか?」
冬子は詰めた。
「感染したあなたは、外の世界にいれば誰かの役に立てた? 誰かを救えたということですか?」
ゼロニは冬子をすがめた。
「あなたはわたしから、何かを聞き出そうとしている」
「聞かれたらまずいでしょうか。誰かに口止めされていますか? 話したら、あなたに不利益が生じるような条件で口止めをされているのでしょうか」
「そうね。話したら、わたしは」ゼロニは一瞬、口をつぐんだが、絞り出すように続けた。「父親に居所をばらされる」
「父親?」
「それは絶対に避けたいんです」
冬子は朽木を見た。朽木はうなずき、「あなたが話したとしても、たとえあなたがここにいることがお父さんに知られたとしても、我々は面会制限と称してお父さんの立ち入りを拒むことができます。我々はあなたを外へ出すことができませんが、その代わりにあなたを害するものから、あなたを徹底的に守ります」
「嘘。もう、騙されません」
「嘘じゃありません!」冬子は語気を強めた。「わたしたちはあなたの人権を侵害してあなたを閉じ込めています。だからこそ、あなたの苦しみには報いたいんです。お父さんからあなたを守ることくらい、わたしたちにはとても、とても簡単なことなんです」
だから話して、と冬子は声を震わせた。
「話してくれれば、わたしたちはあなたにもっと寄り添える」
ゼロニはじっと冬子を見た。冬子もゼロニから目をそらさなかった。時間が過ぎる。空気が流れる。流れる空気の中の酸素が薄くなっていく。そんな気がした。
「――……はけめ」
ゼロニがつぶやいた。
「はけめすみれ。わたしの名前」
刷毛目寿美礼と書くのだと言った。
「家はここから歩いて二十分。古いアパート。雨漏りがひどい。かびた畳。六畳間。この部屋の半分くらいの広さ。そこに父親と二人暮らし」
背後で朽木がカルテを操作した。録音ボタンをスイッチしたのだ。
「父親は五十五歳。わたしは三十九歳。小学一年生までは母親や母方の祖父母と暮らしていた。小学二年のときに父親がわたしを連れ出した。父親と暮らし始めた日に父親に犯された。父親はそれを動画に撮って売っていた。そのうちに動画の客を直接アパートに呼んでわたしが相手をした。端っこがかびた畳の上で客の相手をした。そのあいだ父親は飲みに行っていた。父親は時間になると帰ってきた。父親は客から金を受け取った。その金でまた飲みに行った。帰ってくるとわたしの頭上で嘔吐した。学校はほとんど行かなかった。十五歳のとき、十八歳だとサバを読んで風俗で働き始めた。帰ると父親に金を奪われた。父親は風呂場でわたしに土下座させた。わたしの頭の上に吐いた。わたしの頭の上に排泄した。何回か父親を殺そうとしたけどだめだった。躊躇した。二十年以上それが続いた。わたしはだんだん収入が落ちた。収入が落ちるたび父親に蹴られた。ある日の客が変身症のことを話した。病気は怖いけど性欲は別だよねって。急にその病気のことを知りたくなった。たくさん調べた。虫になれば父親を殺せるかもと思った。感染した人と接触したいと思った。無理だった。でも感染者の家族となら接触できる場所があった。行ってみた。いろんな人がいた。みんな家族が感染したことを嘆いていた。家族が感染したわけではない人もいた。ただ変身症が怖いから話を聞いてほしいという人たち。たくさんいた。みんなわたしとは違うと思った。それを主宰に話したら『うちで保護してあげる』と言われた。わたしは家出してそこのスタッフになった。目隠しをされてどこかの山奥に連れて行かれた。たぶんわたしは信用されていなかった。だから目隠しをされた。山奥の建物でみんなの世話をした。虫になるといいことがあると言われた。みんながそれを信じようとしていた。二ヶ月前に主宰が変身症のウイルスに感染した人の血液を手に入れたと言った。誰かほしい人はいないかと言われた。わたしは真っ先に手を挙げた。あとは何考えているんだかよくわからない女の子と奥さんに不倫されて逃げられたおじさん。血液は三人に注射された。これであと十年すれば虫になれると言われた。十年すれば父親を殺せると喜んだ。でも、そのあとでよくわからない薬を点滴されて、急に体調が悪くなって、車に乗せられて都内に棄てられた。あとは、あなたたちも、知っている」
ほとんど息をつく間もなく、つらつらと刷毛目は喋った。あえて文章にするとしたら、事務的な箇条書きのような喋り方だった。喋り終えた刷毛目は長く嘆息した。その息の音を聞いて冬子は思わずベッド上の彼女に抱きついた。
「ちょっと、なんなんですか」
「ごめんなさい。なんだか、衝動で」
言いながらも冬子は刷毛目を強く抱きしめた。水槽の中の麻葉を抱きしめることはできなかったが、目の前の刷毛目は抱きしめられる。冬子は彼女たちを受け止めたかったし、それを伝えたかった。初めは戸惑っていた刷毛目も、なされるがままに冬子を受け入れる。
「一緒に注射された女の子は葦手もあ。スタッフや被保護者は『もあちゃん』って呼んでいた。おじさんはササヅルショウタ。『ショウさん』と呼ぶ人が多かった。団体の名前はワールドホープ。虫になれば楽園に行けるとか宗教じみたことを言っていたけど、わたしは信じていなかった。それよりもどうすれば虫になれるかが重要だったから。主宰の名前は、八星救輪廻」
冬子にとってそんなことはどうでもよかった。虫になりたいと思い詰めるほどの人生を強要された刷毛目をどうにかして救いたいと思った。
「林野さん、ちょっと苦しい」
刷毛目に言われて、冬子はようやく彼女から離れた。防護服で覆われた顔面は涙と鼻水でどろどろだった。
「刷毛目さん、話してくださって、ありがとうございます」朽木が言った。「お話くださったこと、大変重要な内容ですので、厚生労働省の特殊感染症管理局に連絡したいと思いますが、よろしいでしょうか」
「本当に、父親はここへは来ない?」
「来させません。管理局と警察は連携しています。おそらく、あなたに対するいくつかの罪で逮捕されるのではないかと思います。この会話は録音させてもらっていますが、警察に提出してもよろしいですか」
「好きにして。それがわたしにとって、害にならないなら」
「はい。もしかしたら、今後、管理局や警察の人がお話を聞きに来るかもしれませんが、その時は通して大丈夫ですか」
「父親以外なら、誰にでも会う」
ありがとうございます。朽木は力強くそう言った。
「虫になれば父親を殺せると思ったのに、こんなところへ閉じ込められたらあいつを殺せない。八星さんが言っていたこととは違う。――この建物、いつも通勤する時に見ていたの、遠目で。なんだか怖い建物って思ってた。それが、感染して病院へ搬送されて、治ったらここへ収容されるなんて聞いて、恐怖しかなかった。八星さんには騙されたって思った。でも、これでよかったのかもしれない。この部屋は静かで、清潔で、好き」
「刷毛目さん、よろしければ好きな食べ物を教えてください。できる限り提供できるようにしますから」
朽木の質問に、刷毛目は困ったように笑う。「わたし、食べ物に執着がないの。ろくなもの食べてこなかったから、よくわからない。ワールドホープでは、雑穀とか、木の実とか、味がしない食事だったし」
「食べてみたいものはありますか」
刷毛目は少し考えた。「特にない。ここの食事が、とてもまとも。こんなまともな食事が毎食でるなんて、とても贅沢」
刷毛目が「たくさん話して疲れた」と言うので、今日の回診はいったん終了とした。廊下へ出るなり、朽木は冬子の肩を抱く。
「よくやった。よかった。聞き出せた。やっと確かにつながった。警察にも動いてもらえる。林野さん、よくやった」
朽木に何度も肩を叩かれながら、冬子はこんなことでは喜べないと考えていた。これで彼女を、収容されている人々を救えるわけではない。少しでもなにか自分ができること、自分がするべきこと――朽木の声を意識の外で聞きながら、深く考え込んでいた。
刷毛目から聞き出した内容は、すぐに朽木から新景に伝えられた。回診後にディスク化した音声データを、新景は朽木の連絡から一時間も経たないうちに受け取りに来た。長々と話す時間がもったいないと新景も朽木も言うため、ディスクは冬子が正門前で新景に手渡す。
「本格的に警察案件になってしまいましたね。あいつらとの連携は、正直申し上げて面倒くさいんですよ」
冬子から受け取ったディスクをしげしげと眺めて新景は言う。
「お車で来たんですか」
「ええ。毎日終電に間に合わないので、車通勤です。それに、電車で来て、こういった機密情報をどこかに落としても困るでしょう」
正門の前には黒光りする小ぶりな外車が停められている。冬子も見たことがあるメーカーのエンブレムが車の鼻先についていたが、会社名を冬子は思い出せない。
「車だと事故で新景さんが死んでディスクも壊れる可能性がありますけど」
「それを言ったら、人はどこでだって死ぬ可能性がありますよ。言い出したらキリがありません。あなただって、今から朽木さんのところへ戻るまでの間に脳梗塞かなにかで倒れる可能性だってゼロとは言い切れないでしょう」
「そうですね」あと二ヶ月、気をつけて生きなければ。「健康には留意します」
「わたしも交通安全に気を配ります。――林野さん」
「はい?」
「聞き出していただき、ありがとうございます。あとはこちらへ任せてください。あなたがたの仕事を、決して無駄にはしません」
「ええ。――もう、これ以上だれも傷つきませんように」
新景を見送って臨床部に戻ると、朽木が一人でデスクへ向かって事務仕事をしていた。鼓、長門の在所を問うと、氏名が判明したカワマエタロウことササヅルショウタの部屋へ行ったと説明される。
「俺もこのあと、席を外す。アゲハの遺伝子解析の件で安瀬先生と打ち合わせだ」
「なにか、あったんですか」
「うん……。DNA配列が、Ⅰ型ともⅡ型とも異なる」
「それって」どういうことだ、と冬子は考えながらも口を動かす。「人に感染したら、Ⅰ型やⅡ型とは違う発症に至るってことですか?」
「単純に言ったら、Ⅲ型の出現になるのかもしれない。それでセンター長から待ったがかかった。おそらくそのウイルスに対して、いまあるmRNA転写阻害薬は無効だ。万一実験中にアゲハの組織から感染したら、講じられる手立てがない。だから、まずは安瀬先生と治療開発研究部で新型に対して有効な阻害薬の開発を行う。村名賀先生の実験は、それが完成してからだ」
「それは、いつになるんですか」
「おそらく来年。それからマウス実験に入る」
淡々とした言葉に、冬子は少し気を落とした。やはり、自分が発症するまでに治療法が開発されることはなさそうだ。無論、望みがないことは重々実感している。それでも星屑のような期待を、わずかばかり胸に宿してしまう。
「いままで行ってきた机上の空論でも、I型とII型の交尾によって生まれた虫のパターンも検討していたし、その中でもいくつもパターンを想定したが、最も可能性が低い予想にヒットしてしまった」
「先は長そうですね。まだまだ感染者は、閉じ込められっぱなし」
「林野さん、なにを言いたい?」
朽木はパソコンの画面を見つめたまま、冬子を見ない。その朽木に対して、冬子は膝を向けた。
「わたしも研究をしたいと思います」
「ん?」朽木は目をすがめる。「なに?」
「以前、鼓先生や長門さんと話していたんです。収容者の精神面における篤いケアが必要だと。収容されて鬱病になる人、自殺する人、それぞれの発生率は市中と比較しておそらく大きいはずです。一人一人のカルテをデータ化して、病気や自殺の発生が防げたのではないか分析します。そして、収容者には専門的なメンタルケアが必要であることを訴えたいです」
「訴えるって、どこへ」
「社会です」
冬子ははっきり言った。
「収容者は研究対象で、治療対象ではありません。でも、人ならばせめてできるかぎり人らしく扱われるべきです。収容者はただでさえ人権侵害に遭っているんです。行動範囲を抑制しつつも、収容者が人間らしく健康に生活できるようサポートすることが、最低限必要です。本来は専門的なケアができる人材を雇用できれば理想ですが、各施設での人件費は限られていて実現の見込みは薄い。だったら、国が人件費の補助を出すべきだと訴えます。過去のデータをそろえて、ケアが必要である理由も添えて、論文として提出します」
「それで、国が補助を出すと思うか?」
「わかりません。でも、訴えるための材料になります。と言うか、材料として活用してください。あと二ヶ月で完成させますから、その後は朽木先生が」
朽木は冬子に顔を向け、人差し指を口元へ添えた。反対側の壁際のデスクで仕事をしている同僚たちの背中を気にして、「わかったから」と小声で冬子を制す。
冬子にはあと二ヶ月しかない。その二ヶ月で論文を完成させ、補助金を引っぱり出す手続きは朽木に託す。その実現は自分が死んだ後でいい、収容者たちの環境が少しでも良くなるなら、布石だけでもおいていく。
「計画は?」
「収容後に精神疾患を患った収容者、また、精神疾患と認められていない自殺した収容者のカルテの記録をデータ化して、病気や自殺を防げる兆候がなかったか分析します。VRCだけではなく、全国の研究機構からデータを取り寄せたいと思います」
「わかった。実験を行うわけではないから、学術委員会の承認はいらない。研究申請書だけ出せばいい。研究機構への依頼文にも俺が添状をつける。必要な書類作成はいつまでにできる?」
「今日中にやります。定時内に、村名賀先生から研究申請書の承認をいただくところまで」
「うん。それですすめなさい。――林野さん」
「はい」
「きみの研究が、今後のメルクマールになればいいと思うよ。期待する」
はい、と冬子はうなずいた。二ヶ月でできるかどうかではない。やるのだ。少しでも、自由を失った収容者たちに報いるために、自分ができることを、する。
デスクに向き直って事務作業を始めようとした時だった。ササヅルショウタの部屋へ行っていた鼓と長門が戻ってきた。
「名前、経歴、聞き出せました!」
興奮気味に声を上げながら、長門がホワイトボードへ「笹蔓紹太」とペンを走らせた。
「三十五歳で無職。一年前に奥さんが不倫の末に家出、奥さんと不倫相手はその二ヶ月後にII型感染がわかって他施設に収容、発症して死亡しているそうです。それで奥さんと同じ病気になりたいと変身症について調べる中で、刷毛目さんが言うワールドホープにたどり着いたと」
らしくない長門の様子に多少面くらいつつ、一同はその報告を聞いた。初めはUNGウイルス感染者の家族との茶話会に参加するだけだったが、主宰に誘われてスタッフとなり、刷毛目同様どこかの山奥にある施設で会員の世話係を担った。主宰が感染者の血液を手に入れ、人々を楽園に導くための先導者を募ったため、手を挙げたと――……
「長門さん、鼓先生、ありがとうございます。ご報告いただいたこと、管理局に追加報告します」朽木が言うと、鼓は「わたしたちの手柄じゃないわ。朽木先生と林野さんが手がかりをつかんでくれたおかげ」と謝辞を返した。
「その、ワールドホープの主宰とは何者なんでしょう」倉橋が首をかしげた。
「よくある頭のいかれた連中ですよ、きっと」
朽木は鼓班に「今後も、この三名は特に注意して観察しましょう」と共通認識を確認し、すぐに管理局へ電話をかけた。
午後、冬子は書類作成に集中した。麻葉の水槽を写していたモニターは電源を切ってデスクの中へしまいこんだ。解剖が気にはなるが、それ以上に自分は前に進まなければと唇を噛む。
これまで胸の内でもやもやしていたこと、どうにかならないかと思っていたことが発端であったからか、必要書類は思っていたよりも速やかに作成できた。センターへの研究申請書と、各調査機構宛のデータ提供依頼。書類をプリントアウトし、自席にいない朽木を探すべく彼のモバイルフォンに架電すると「いま、先生方と打ち合わせ中だけど……書類にサインなら……村名賀先生が持ってきていいっておっしゃってるから、ミーティングルーム2に来て」と応答がある。先生方? 安瀬センター長と村名賀部長だろうか、と冬子が予想しながら指定された部屋のドアを開けると、そこには予想の二人の外、ゲノム解析部の柳田部長や新規治療開発部の千代田部長までいた。さらには、知らない男性も一人座っている。年齢は安瀬ほど、大柄で、その態度から明らかに地位が高い人物だった。ドアを開けた瞬間、男たちの鋭い視線が一挙に自分へ集まり、冬子は一瞬怯む。
「会議中、すみません。村名賀部長に」
「朽木君から話は聞いています。自分から研究を始めたいと申し出たそうですね」応じたのは安瀬だった。
「はい。収容によって与えられた精神的な傷害が収容者のADLやQOLに与える影響についてとりまとめ、専門家によるサポートが広がる様にしたいです」
「しょうがい?」見知らぬ男が眉を寄せる。「それは、ハンディキャップの障害ではなく、injuryの傷害ですか?」
「怪我を負わせ、損なうこと、傷害です」答えずに名や身分を問うことすら許さないような威圧感に冬子は戸惑いながらも応じる。「収容は、確実に感染者に対して精神的な打撃を与えます。収容生活に慣れ、傷が浅くなる人もいますが、時間が経つにつれて傷がより深くなる人もいます。わたしは彼らの状態を、傷害を負わされている、と考えます」
ふむ、とその男性は腕を組んだ。
「それをまとめて、専門家によるサポートを広げる?」
「いま、わたしが所属する臨床部に精神サポートを専門とする人員はいません。必要性を訴えるための研究です」
「なぜ、必要なのでしょう」
「わたしたちは、感染者を収容するという人権侵害をおこなっています。せめてその中で、感染者が健やかに過ごせるように手を差し伸べるべきです」
「わたしたち、とはここの臨床部のことですか」
「いいえ」冬子は強く言い切った。「感染者を収容すべきと決めた国、世界、人類です。収容者を研究対象として見ている、感染を他人事だと思っている一人一人に自省を求める意味合いもあります」
「それは、わたしも含まれますか」
「ええ。収容者でない人は、全員」
その前にこの人は誰なのだ。紹介を求めて村名賀を見ると、上司はようやく気づいたかのように「杉平先生、こちらはわたしの部下で研究助手の林野です。朽木君とペアで臨床部の業務にあたっています。林野さん、こちらは、特殊感染症研究機構つくば本部の杉平所長です。徳坊元センター長の後輩で、我々の研究にご協力くださることになっている」
冬子はあらためて杉平に会釈をした。つくば本部の所長という身分は、この国の変身症研究の重要人物であることを意味する。
朽木が手をさしだしてくるので、持参した書類をすべて手渡す。朽木は文面に目を走らせ、なにも言わずに承認欄にサインした。そのまま書類は村名賀へ渡され、部長も同様にする。
「プランによると、二ヶ月で仕上げるとしてあるが、そんなに急がなくてもいいのでは?」
書類を冬子へ返しながら村名賀は問う。
「ウイルスを消滅させるための研究と同様に早ければ早いほど良いと思うので、この計画で実行します」
淀みなく答える冬子に、村名賀はしばし思案顔で腕を組んだが最終的には「わかりました」とうなずいた。朽木が「早く退室しなさい」とでも言いたげな視線を送ってくるので、冬子は会議を中断させた詫びを言って部屋を後にした。
二階にある事務オフィスの研究管理課へ研究申請書を提出すると、課長の大宅という四十がらみの男性事務員はあからさまに嫌な顔をした。
「研究助手が短期間で二件目の研究申請なんて聞いたことがないよ。交配実験の実験体になったメスの虫の記録だって、まだ完成していないんでしょ。それに、あなたは研究員と違って裁量労働制じゃないんだから」
「一件目の研究は完成の目処がたっています。裁量労働制に関しては、どういうことですか」
「研究員はみんな裁量労働制なの。つまり平日はいくら時間外労働をしても給与は変わらないわけ。でも研究助手は我々事務部門と同様に定時が決められていて、そこからはみ出した分の労働は時間外勤務として記録されるの。法定以上の時間外労働をしたら労基がうるさいし、その時間分の時間外手当も支払わなければならないし」
くどくどと事務的な話をする課長に、冬子は心底苛立った。
「わかりました。事務方にはご迷惑がかからない様に善処します。この研究は村名賀部長の承認を得ていますので、もしこれ以上なにかおっしゃりたいことがあるなら村名賀に御助言ください」
ほとんど無理矢理おしつける様にして書類を研究管理課長の机におき、冬子は憤慨しながら部屋を出た。内容も見ずにただ冬子が研究助手だという例外のみをあげつらうとは時間の無駄、労働体制に問題があるなら人事部から臨床部へ注意するように計らえばいい話だ。
エレベーターに乗り込もうとした時、背後から声をかけられた。広報部の喜川だ。「よかった」と彼女は言う。
「あとで臨床部に行こうと思っていたの」
「なにかありましたか?」
「ええ。要件は二つほど。一件は、またドネーション向けの説明会を開くことになったからスタッフをお願いしたいの。年明けの一月十一日なんだけど」
一月十一日なら確実に成虫化している。スタッフどころか、自分が見られる側だ。
「すみません、年明けは忙しくなるのでお手伝いできません。他の方をあたってください」
「そうなの?」喜川は残念そうな表情をした。「それなら仕方がないけど」
「二件目は?」
喜川は困り顔で、言葉を選ぶ様に口火を切った。
「秋口に懲戒処分になった元守衛長のことよ。あの人が、出勤時間や退勤時間にセンターの周りをうろついているって噂になっていて、知ってる?」
冬子は首を振った。聞いたこともなければ、その元守衛長の行動に理解が及ばない。
「元守衛長と親しかった人が声をかけてみたら、林野さんに会おうとしているらしくて」
「わたしに?」
どうして、と言いかけて、ふと一度話したきりのフリーライターとかいう「蛇女」のことを思い出した。あの気味が悪い女、元守衛長が自分や朽木のことを恨んでいるなどと言っていなかったか。
「もしかして、意趣返しのためですか?」
「わからないけど。でも、雰囲気がおかしいというか、ヤバかったらしくて、林野さんは注意したほうがいいかも」
「ありがとうございます。なるべく、センターの外には出ないようにします」
「ここ最近寝泊まりしているって、本当なの?」
冬子が肯んじると、喜川は「あなたまで家なき子になることはないのに」と心配げに言う。
「大丈夫ですよ。配膳部から食事はいただいていますし、それに研究で忙しくなりそうで」
「あなたが大丈夫なら、余計な心配はしないようにするけど……あれ――虫の交配実験、どうなの。一般向けに公表していないけど、どこからか伝え聞いたメディアから数件、取材申し込みがあったの。村名賀部長からの指示で、いまはお答えできることがないとして全部断ったけど」
「母虫が、今朝がた亡くなりました。いま、解剖の最中です。子供の方は元気で、いま、村名賀部長たちがゲノム解析をもとに研究を進めようとされています」
「それは、いつ、どの時点で成果発表するんだろう。このまま世間に話が広がってしまえば、下手な混乱を招くかもしれないわ」
「それは、わたしにもわかりません」
「そう……そうね。あなたは、助手だものね」
「はい」でも、と冬子は続ける。「でも、新しい研究を始めることにしました。助手の、わたしが」
「あなたが?」
「はい。未来を少しでもよくするために」
そう、と喜川は顔をほころばせた。
「それ、立ち話ですます話じゃなさそうね。残念だけど、このあと会議なのよ。時間があるときにまた、聞かせて」
「はい。――……喜川さん。元守衛長が処分されるきっかけになった、肖像真心子さんの件で、まだクレームが入ることはありますか?」
喜川は首をすくめた。
「ないわ。ほんとにあれは一時的だった。もうみんな忘れてるのよ、きっと。うちからも、プロバイダーには彼女に対する中傷を削除するよう申請した。でも、完全に消えたわけじゃないわ。あれらの傷が残る以上、肖像さんが十字架から降ろされることはない」
だからわたしは忘れない、と喜川は静かに言う。
「それが、わたしの責任だから」
喜川と別れたあと、冬子は水槽室へ向かった。麻葉の解剖は佳境に入っていた。工具を使用して殻を外し、中華包丁に似た大きな刃物で体節を分解する。解剖は病理生理部六名によって行われていた。四名が解体し、一名が記録、一名がサンプル採取の補助の役割を担う。
麻葉は水槽の床でばらばらにされていた。虫だと言われなければ、それが人間と同じ大きさの多足類とは思えないほどに、薄気味悪い肉塊だった。虫は死ねば毒液を体内産生しなくなるため、解剖によって毒液が撒き散らされることはない。銅のような褐色の体液が水槽の床を浸す。見れば、周囲には麻葉が食べなかった鶏肉が腐りかけの状態で放置されている。病理生理部はただ淡々と作業に努めていた。
その光景を見て心に去来するものなどない。人間だった者が床で解体される。足元へ肉が、臓物が、転がっている。これまでに何度も見た光景だ。いずれ自分もああなると、この先も何人もがああなると、自分の胸に何度も言い聞かせてきた光景だ。それでも、早くここから立ち去りたい衝動に駆られる。
隣の水槽では、アゲハが活発に動いていた。すぐ横で母親がばらばらにされていることなど、感じ取ることもないのだろう。
「林野さん」
呼ばれた方を振り向くと、水槽室の入り口に朽木がいた。
「ミーティングが終わったから。麻葉さんは」
「もうすぐ終わりそうです」
そう、と朽木は冬子の横に並んだ。
「朽木先生。アゲハがいてもいなくても、麻葉さんの最期が変わることはなかったと思います。でも、アゲハの存在を先々につなげていかないと、麻葉さんの死が無駄に終わるように思えてしまうんです。滝縞さんを食べて、産卵して、アゲハを慈しんだ彼女の行動のひとつひとつが、死に収斂されてしまう。それは、いやです」
「前に、交配実験で誕生した虫が福音になるのではないと言ったと思う。アゲハ自体は福音じゃないんだ。俺たちがアゲハを福音にする。人間は福音を導ける、そういうものだから、大丈夫だ」
よくわからないですよ、と冬子は笑った。我ながら乾いた笑いだな、と思う。本当は、笑えないほど心が震えている。
「成虫化したら、その寿命に多少の長短はあれど虫は死んでしまいます。それなら、アゲハと麻葉さんを引き裂かなくてもよかったのではないかと思えてきます」
「結果論だよ、それは」
「もし同じ水槽のままなら、麻葉さんは死んだあと、アゲハに食べられてしまったかもしれません。もしかしたら、そのほうがよかったのかも」
「アゲハが食べる? 親を?」
「だって、アゲハはあんなに元気で、食欲旺盛で」
二人はアゲハの水槽を見る。小さな虫は壁をよじ登っていた。その先には、餌の補給口がある。補給口は、今は閉じていた。そこへ、アゲハは壁から落ちることなく、たどり着き、補給口の蓋へべっとりとへばりついた。
瞬間、冬子も朽木も戦慄した。補給口の内部は三重構造になっており、虫の侵入を防げるようになっている。だが、これまで虫が侵入したことはない。補給口まで這い上がれた虫はいなかったうえ、体の大きさから、補給口に侵入可能な虫はいなかったからだ。しかし、アゲハの体躯はまだ小さい。余裕で補給口へ入ることができてしまう。内部へ入り、三重構造まで突破できてしまったら――
朽木は慌てた様子で胸元のモバイルフォンを取り出した。
「臨床部の朽木です。水槽室の、一番、そう、いま子供の虫が入っているところ、次の食事から絶食で! 絶対に補給口を開けないで。監視カメラの映像を見てください。虫が補給口に張りついているんです。補給口が開いたと同時に、中へ侵入される恐れがある。絶対に、二度と開けないようにしてください」
施設管理部へかけた、と電話を切ってから朽木は言った。虫の餌を補給したり、補給口を開けたりする役割は施設管理部が担う。
「壁を登る体力を作った。しかも、補給口の場所を覚えた。虫が、成長している……」
「朽木先生。絶食ということは――」
「餓死させることになる」
冬子はアゲハを見上げた。交配実験の成果を体現する虫は、補給口に執着するかの様にそこから動かなかった。
冬子と朽木は、村名賀にアゲハの様子を報告した。虫の子供が生まれるきっかけを作った男は「そうか」と淡々としていた。「そうか」と、二度、つぶやくように言った。
皆が帰宅した後、冬子はデータ化する収容者たちをピックアップした。過去に収容した感染者は百九十八名、そのうちの七割強が調査対象に該当する。予想はできていた数字だが、それでも多い。そのうちの何名かは冬子が担当した収容者だ。冬子は墓標に手を合わせるような心持ちでリストの作成を完了させた。
地下一階の仮眠室へ戻る頃には時計の針が重なろうとしていた。研究もある、ワールドホープに由来する三名の収容者の調査にも関わることになるだろう、通常業務もこなさなければならない、やるべきことは山積みだった。仮眠室に入って扉を閉めた冬子は、息をつく間もなくスーツケースからカトラリーセットと皿や粘土、それに化粧品を取り出し、デスクの上へ広げた。椅子に姿勢良く座り、正面に鏡をおく。皿を据え、その上に文房具店で買った粘土をおいた。ナイフとフォークを持ち、粘土を切る。自分の動作を鏡で確かめる。脇が開いていた、体が前のめりになっていた、力ずくで切ろうとしていた、いくつものウィークポイントが見えてくる。クリスマスイブの食事をリラックスして楽しむため、動作の練習を寝る前の習慣にしようと決めていた。このあとは化粧の練習もしたい。それから、また、毛布を持ってアゲハの水槽の前で寝るつもりだった。人間の都合で死なせる命を、夜の孤独に放置できない。
疲れたとは思う。だが、よく眠れている。実家のベッドで寝ていた時は、キーケースを握りしめなければ入眠できなかったが、今はそんなことはない。
――わたしはもう、自由だから。
冬子はあらためて目の前の鏡に向き直る。はっきりとした眼光をたたえる自分が、そこにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます