第106話 目覚め

「……うぅ」


 何かの物音を聞き、目が覚めた。

 目を開くと若い女性が自分を見下ろしている。

 ボルドは今が何時いつでここが何処どこで自分が何をしているのか分からず、目をしばたかせた。

 その若い女性は頭に紺色のベールを被って髪を隠した修道女だった。

 修道女はボルドが目覚めたのを見ると穏やかな笑みを浮かべる。


「お目覚めね。寝坊助ねぼすけさん」


 見たことのない顔だった。

 ボルドは身を起こそうとしたが、両手両足が激しく痛んで動けない。

 その口から苦痛のうめき声がれる。


「ううっ……」

「両手と両足が折れているのよ。無理して動こうとしないことね。おとなしくしていなさい」


 そう言うと修道女は座っていた椅子いすから立ち上がり、部屋の奥にあるすだれの向こう側へと歩いていった。

 1人残されたボルドは自分の体を見る。

 体は動きやすい麻の服を着せられていた。

 記憶にない服だ。

 そして両腕両足には副木そえぎが当てられて包帯を巻かれ、動かしにくい。


(両腕と両足が折れている? 一体何が……)


 ボルドは頭の中を整理するように静かに目を閉じる。

 すると曖昧あいまいだった記憶が徐々につながりよみがえってきた。


(そうだ。あのがけから落ちて……)


 ボルドの脳裏に様々な光景が浮かんでは消える。

 天命のいただき

 処刑台。

 高所から落下する恐怖。


 そして……愛しい女性の悲しげな顔と、谷に響いた彼女の悲痛な叫び声。

 ボルドはがけから落ちてすぐに気を失ったが、彼女が自分の名を叫ぶその声は聞こえたような気がした。


「ブリジット……」


 思わず小声でその名を口にし、ボルドはすぐにだまり込む。

 そして部屋の中を見回した。

 そこはこじんまりとした小さな小屋の中のようだ。

 先程の修道女以外には人の気配がない。


(ここは? なぜ自分は生きているんだろうか……)


 すぐには状況が飲み込めなかった。

 自分が本当に生きているかどうかも現実感がない。

 死の間際まぎわの短い夢でも見ているような気がする。

 どう考えてもあの高さのがけから落ちて助かるとは思えなかった。


 ボルドはくちびるを強めにみ、その痛みを確かめる。

 そんなことをしているうちに戻ってきた修道女はぼんの上に食器と茶器を乗せていた。

 塩気のあるスープのにおいとハーブの効いた茶の香りがボルドの鼻腔びこうをくすぐる。

 途端とたんに猛烈な空腹感に襲われた。


「あなたが寝ている間、真水と薄い塩水だけは飲ませていたけれど、ちゃんと食事をするのはしばらくぶりだろうから、ゆっくりと少しずつ食べなさい」


 そう言うと修道女はベッド脇の机にぼんを置く。

 そしてさじでスープをすくうと、それをボルドの口元に運んだ。


「え? あ、あの……」


 困惑するボルドだが修道女は構わずにボルドの口にさじを近付ける。

 

「いいから。ちゃんと栄養をとらないと、その腕も足も治らないわよ」


 ボルドは戸惑いながらも目の前に差し出されるさじからただよう魅惑的なにおいにあらがえず、これを口に含んだ。

 途端とたんに野菜の甘みとほどよい塩味が口の中に広がり、ボルドはじんわりと幸福感が体に染み込んでいくのを感じた。

 そこからは修道女が次々と運ぶさじ黙々もくもくと口にふくむ時間が続き、ボルドはすぐにスープを飲み干してしまった。


「足りなければもっと持ってくるけれど?」

「いえ、もう……大丈夫です。ありがとうございます」


 決して空腹が満たされる量ではなかったが、食事をしただけでボルドはひどく疲れてしまった。

 どうやら相当に体が弱っているようだ。


「そう。多分、久々の食事だから胃が疲れるだろうし、このくらいにしておいたほうがいいかもしれないわね」

「あの……ありがとうございます。どうして私はここにいるんでしょうか?」


 そう言うボルドのほうけたような表情がおかしかったのか、修道女はクスリと笑った。


「あなたはワタシが住んでいた街に運び込まれてきたのよ。川に浮かんでいたところをワタシの従姉妹いとこが助け出してね。でも街に連れてきたはいいけど、従姉妹いとこは仕事が忙しくて面倒見られないっていうから、ワタシが預かったわけ」


 川に浮かんでいた。

 その言葉に自分が谷から落ちた後、どういうわけか川に着水して命が助かったことをボルドは悟った。

 自分の両腕と両足の骨折はその時の衝撃によるものだろうと想像はつく。

 ボルドは自分の奇妙な運に何と言っていいのか分からず、押しだまった。


(死ぬつもりだった……でも、生き長らえてしまった)


 ボルドは頭の中が真っ白になった。

 ここから先、どのようにしていけばいいのか分からずに彼は困惑の表情で修道女を見つめる。


「あの……どうして私を助けて下さるんですか?」


 そうたずねるボルドに修道女はあっけらかんとした顔で答えた。


「ワタシ修道女だから人助けが仕事だしね。それにあなたには手伝ってほしい仕事があるのよ」

「仕事?」

「そう。まあ、まずは体を治しなさい。あなた名前は?」


 名前。

 それを聞かれて彼は思わずボルドと名乗ろうとした。

 それは自分の本当の名ではないのだが、ブリジットがつけてくれた大事な名前でもあった。

 そしてボルドはここでその名を名乗るのはまずいのではないかと思い、咄嗟とっさに元々の名を名乗った。


「ボ、ボールドウィン……です」

「ボールドウィンね。ワタシはレジーナ。よろしくね」


 そう言うと修道女のレジーナはおだやかに微笑んだ。

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