第21話 過去
「痛いの?」
涙を堪えて苦悶の表情を浮かべる少年に少女は訊ねた。
少年は肘を押さえて身体を丸めている。左押さえている左腕の服の袖は破けて出血していた。
「酷い怪我だわ」
あちこちに擦り傷があり、まるで獣にでも襲われたかのような有様だった。
「大丈夫よ」
少女は出来る限り優しく声を掛けて、少年の左腕に自分の手を翳す。白く淡い光が生まれた。白い光は温もりを持ち、怪我を負った肘に吸い込まれて消えていく。
その様子に少年は驚いて目を丸くし、言葉を失う。
少女は安堵する。
綺麗になった白く細い少年の腕を取り、傷がないことを確認した。
そのままでは寒いわね。
少女は気温の低さを気にして再び、手を翳すと破けた袖、擦り切れた服を修復した。
「もうここに来てはいけないわ。ここには凶暴な獣が住んでいるの」
少女は少年の手を引いて歩き出す。
深いこの森は方向感覚を奪われる。慣れた者でなければ迷いやすい。
「君、名前は?」
少年が初めて口を開いた。
少し掠れたような声から緊張しているように感じた。
「ハーディスよ」
少女はハーディスと名乗った。
「ハーディス……」
すると少年は落雷に打たれたかのような顔をした。
しかしすぐに破顔の笑みを見せる。表情を明るくし、歓喜に震えたような声でハーディスを抱き締めた。
「ハーディ」
愛おしそうに名前を呼ばれハーディスは混乱する。
少年とは完全に初対面なのだ。
少年は困惑するハーディスの手の甲に口付けを落とす。
触れられた手がじんっと熱くなり、余計にハーディスは混乱する。
しかしハーディスを包み込むような温かな雰囲気と優しい表情に心が解けるかのような感覚を覚えた。
「もしかして……貴方は天使様の生まれ変わりなの?」
そう言うと少年は愛おしそうにハーディスを見つめて微笑んだ。
チュンチュン、鳥の囀りとカーテンの隙間から差し込む朝日の眩しさでハーディスは目を覚ました。
懐かしい夢でしたね。
子供の頃にこの森に迷い込んだ少年がいた。
凶暴な野犬に襲われ、怪我をしていた少年をハーディスは助けたことがあった。
もう二度と会うことはないだろうと思い、ハーディスは惜しみなく自分の力を使って少年の怪我を治したのだ。
この少年との関りはこれっきり。
彼が今日のことを大人達に話しても夢幻、又は幸運だったねと微笑まれて終わるだろう。
しかし、話しているうちに彼の纏う雰囲気は普通の人間のものとは違うと子供ながらにハーディスは敏感に感じ取った。
ハーディスはそこで焦りを覚えた。
もしかしたら、彼は自分を探しにくるかもしれない。
周りの大人達に今日のことを話して自分に会いに来るかもしれない。
それは困る。
ハーディスは自分の力を知られたくはなかったし、知られるのが怖かった。
だからハーディスは少年との別れ際にハーディスと過ごした僅かな時間の記憶を破壊した。
彼の中にハーディスはいない。
「あの時の彼は元気でしょうか」
夢から覚めてしまえば顔も思い出せないが、きっと今頃立派な青年に成長しているに違いない。
「でも少し惜しい気もしますね」
あの時、彼の記憶を消していなければ彼と今頃友人になれていたかもしれない。
自分の力を隠すようなことをしなければ家での扱いは確実に変わっていたと思うし、社交界で妹に婚約者を奪われた惨めな姉のレッテルを貼られることもなかったかもしれないし、素敵な男性との恋もできたかもしれない。
巷で人気の小説のように婚約破棄された令嬢の前に颯爽と現れる素敵な男性と幸せを掴む物語のような展開もあったかもしれない。
流石にそこまで夢は見ませんけれども。
『このことは私達二人だけの秘密よ。お願いね、ハーディ』
『家門とアマーリアを守ってあげて』
思いつめたような表情で母が残した言葉は母が亡くなった今でもハーディスを縛っている。
今思えば自分は色んな事に対して我慢を強いられてきたように思う。
だけど、もう我慢はしない。
あれだけ努力して我慢して、頑張ってきた自分を認めてくれないのであれば見限っても罰は当たらないと思う。
ハーディスはベッドから身体を起こし、カーテンを開け放ち、窓を開けて清々しい空気を取り込んだ。
「お母様、怒ってらっしゃる?」
ハーディスは母との約束を可能な限り守ってきた。
しかし限界を感じて約束を破って家を出てしまった。
母との約束を破った罪悪感と自由になりたいという気持ちがハーディスの中でぶつかり合い、葛藤が生まれる。
「でもね、お母様。私、そもそもお母様のやり方は間違っていたと思います」
母のやり方は一見、正しく見えるが実際は状況を悪化させたのだ。
「私に自己犠牲の精神はありません。『守れ』だなんて無理はおっしゃらないで下さい」
ハーディスは青い空に向かって呟く。
そこにいるはずはないのにハーディスの言葉に苦笑する母の顔が浮かんで見えた。
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