第2話

 予備校の授業が始まるのは六時ごろ。

 そして一颯と愛梨が受講している二コマ分の授業が終わるのは、九時ごろだった。


 普段は三十分ほど掛けて二人で帰宅するのだが……


「愛梨、帰るぞ」

「……」

「まだ拗ねてるのか?」


 一颯の問いに対し、愛梨は頬を背けた。

 そして明後日の方向を向きながら――あくまで一颯に話しかけているわけではないと言うように……


「絶交した人とは話しません! ……ごめんなさいって必至に謝るなら、許してあげないこともないけれどね?」


 などと言った。

 それから一颯の方を見て、ニヤっと笑みを浮かべた・


 愛梨も子供ではないので、あのような些細なことをずっと根に持ち、怒ったりすることはない。

 にも関わらずこのような態度をしているのは、要するに悪ふざけである。

 一颯を困らせて楽しんでいるのだ。


 ある意味、「風見一颯ならきっと謝ってくれるだろう」と信頼しているからこその態度である。


 ……実際、こういう態度を取られた時、最終的に一颯が妥協する羽目になるのがいつものパターンだ。

 とはいえ……


「ごめんな、愛梨」

「全く、仕方な……」

「本当のことを言って」


 すぐに妥協するのも、謝るのも嫌だったので、一颯は謝ると見せかけて愛梨を軽く煽ってみせた。

 すると愛梨は呆気にとられた表情を浮かべるも……


「……ふん」


 愛梨は「怒ってます」と言わんばかりにプイっと頬を背けた。

 それからチラチラっと一颯の顔色を伺う。

 

 早く謝ってよ……引っ込みが付かないじゃん!


 と、言葉にすればそんな表情である。

 もっとも、そこで謝ってあげるほど一颯も優しくはない。


 愛梨の目的が一颯を困らせることにあるならば、一颯の目的は愛梨を困らせることだからだ。 


「さて、帰るか」

「……ふん」


 一颯が歩き始めると、愛梨はわざとらしく鼻を鳴らしてから、後ろに付いてきた。

 どうせ意地を張るなら、一緒に帰らないという選択をすれば良いのに……と一颯は思ってしまう。


 もっとも、夜道を一人で歩かれると心配になってしまうので、それをされると一颯は妥協して謝ざるを得ない――負けざるを得ない――のだが。


 さて、そのまま会話がないまま電車に乗り……家から最寄りの駅に下りる。

 一颯と愛梨が通う高校や予備校は“街”の方にあるが、二人の家はどちらかと言えば“田舎”――人通りの少ない住宅街――にある。

 駅の近くはまだ明るいし、人通りも多少はあるが、ここから家に近づくほどに人は少なく、闇は濃くなっていく。


「あっ!」


 と、そこで一颯は“あること”を思いつき、わざとらしく声を挙げて立ち止まった。

 すると愛梨も律儀に立ち止まる。

 そして怪訝そうな表情を浮かべた。


「忘れ物をした。待っててくれ。……心細いなら、待っててもいいぞ?」

「……ふん!」


 慌ててついてくるか、それとも意地を張り続けるか。

 愛梨が選んだのは後者だった。 

 一颯としてはどちらもあり得ると考えていたので、普段の愛梨を考えると、今日はそこそこ強気な部類に入る。


 さて、愛梨を置いて元来た道を引きかえし、曲がり角を曲がり……


「……さて、どうするかな?」


 こっそりと、曲がり角から、一颯は愛梨の様子を伺った。

 実は愛梨に言った「忘れ物をした」というのは、愛梨を揶揄うための嘘だ。


 ちょっとした仕返しである。


 予定としては、このまま愛梨をしばらく放置して、心細くなった愛梨がどんなことをするのかを見て、楽しむつもりでいる。


 予想としては、しばらくしてから携帯で「いつ戻るの?」という感じのメールを送ってくる……という感じだ。


 しかし……


「……今日は頑張るな」


 一颯の予想とは裏腹に愛梨は一人で歩き始めてしまった。

 さすがに一人で歩かせるわけにはいかないので……一颯はこっそりと、愛梨の後を追う。


 もっとも、「ごめん、あれは嘘」などと言うのは悔しいので、気付かれないようにだ。


 しかし最初は慎重に後を付けていた一颯だが……

 段々と心の奥から、悪戯心が芽吹いてきた。


 このままゆっくり近づいて、後ろから驚かせたらどんな反応をするだろうか?

 と、そんなことを思いついてしまった。

 

 さすがにそれは可哀想だという気持ちと、普段は我儘に振り回されたり、悪戯をされたりしているのだから、たまにはやり返しても良いだろうという気持ちが鬩ぎ合い……


(……よし)


 後者が勝利する。

 ゆっくりと、可能な限り、愛梨の足音と自分の足音を被せるようにしながら、近づいていく。


 そのまま曲がり角を曲がり、街頭の光も弱々しい暗がりに差し掛かったところで……


「わっ……」

「いやぁぁぁぁああ! 一颯君、助けてぇ!!!」


 バシっと、一颯の顔面に鞄が当たった。

 さて、参考書やノートが詰まった鞄で顔面を強打された一颯は……


「い、いってぇぇえええ!!!」


 悲鳴を上げて、蹲った。

 顔を抑え、鼻に触れ、鼻血が出ていないことを確認してから、顔を挙げる。


 さて、一方の愛梨は……

 きょとん、とした顔を浮かべていた。


「……えっ、一颯君?」


 さて、驚かせたのは良いものの、手痛い反撃を食らった一颯は非常にバツが悪い気持ちになりながら、愛想笑いを浮かべる。


「あ、あぁ……うん」

「驚かせないでよ……」


 愛梨は大きく肩を落とした。

 それから一颯を睨みながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。


 これは本格的に怒っているなr、一颯は感じた。


「わ、悪い……悪ふざけが過ぎた」

「……」

「ごめん……ごめんなさい。……申し訳ございませんでした」

「……」


 愛梨は無言で手を大きく振り上げた。

 これは大人しく、殴られるしかない。


 そう覚悟を決めた一颯だが……


「……もう」


 ポンっと、愛梨の拳は軽く一颯の胸を叩くだけで終わった。

 それから一颯の肩を両手で掴み、頭突きをするように、一颯の胸に自分の頭を押し付ける。


「……愛梨?」

 

 困惑気味に一颯は愛梨の名前を呼ぶ。

 すると愛梨は……


「ぐすぅ……」


 小さく涙ぐんだ声を挙げた。

 そして顔を挙げる。


「怖かったんだからぁ……」


 ちょっぴり、涙ぐんでいた。

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