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 その後も稽古は下校時間ギリギリまで続けられ。薄暗くなった空を背に、オレはとぼとぼと帰路を歩く。

 演劇も思ったより体力を使うんだな。いや、体よりも頭の方が疲れてる。セリフは全部覚えたけど、まだうろ覚えのところも……。特に動きも加わるとそっちに気を取られて、すんなり出てきてくれない時がある。帰ったら台本、詰め込まないとな。みんなはもう完璧に覚えてるのに。

 特にマミコ先輩の無言の圧力がこわい。直接文句は言われないけど、あの目が訴えている。なんでコイツがジュリエットなんだって。自分の方がふさわしいと思っているんだろう。あんなにやりたがっているんだ、マミコ先輩にやらせてあげればよかったのに。

 なんて。過ぎてしまったことをうだうだ言っても仕方がない。とにかく早く家に帰ろう。お腹も空いた。

 歩く速度を速めるけど、ふと一つの人影がオレの行く手を遮った。なんだ、この人。歩道の真ん中に突っ立って邪魔だなあ。

 オレはその男を避けて先に行こうとしたけど。

「……切戸樹里くんだね」

 過ぎ去ろうとしたオレの背中に向け、男はそう声をかけた。どうしたものか一寸悩んだけど、

「そうですが、あなたは……」

 振り向いて男のことを観察するけど、やっぱり知らない人だ。誰だろう。年齢は三十代前半といったところだろうか。大人で懇意にしている人なんてオレにはいないし、第一、東京に知り合いなんていない。

 関わらない方がいいだろうと判断したオレは、足を動かす。けれど男が、

「僕は高校で陸上を教えているんだ」

と勝手に話し出した。

 陸上……。その単語一つでオレは止めてしまった足を再び動かして、その場から去ろうとする。しかし、その前に、がしりと右腕をつかまれた。

「本当にやめてしまうのかい!? 僕は君のことをよく知ってる。今までの君の走りを、活躍を見てきた。その時がきたら君を僕の高校にスカウトするつもりでいたんだ。

 切戸くんはまだ若い、今ならやり直せる! だからっ……」

 やり直せる……? やり直せるだって? そんな訳……。

 つかまれた腕を思い切り振り払うと、オレは男を思い切りにらみつける。

 そんな陳腐なセリフ、聞き飽きた。何百回聞かされたと思ってるんだ。他に言うことはないのか、この三流役者どもが。

 オレは拳をぎゅっと握りしめ、

「一番に……、一番になれなきゃ意味ないんです……。二番でも三番でもだめだ。走れるだけじゃ、それだけじゃ、だめなんです。そんなこと、あなただって分かるでしょう!?」

「それは……。けど、あきらめたら、それまでなんだよ!」

「そんなことっ——……!」

 言われなくとも分かってる。だけど、あきらめるな? ……あきらめたくなくても、どうすることもできないことなんて。そんなの、この世の中にはゴロゴロ転がってる。

「だったら……、そんなに言うなら、あなたが走ればいいじゃないですか。コーチなんてしてないで、自分が選手として走ればいい。自分の夢を人に押し付けるなよ!

 自分の体のことは、オレが一番よく分かってますからっ!!」

 そう叫ぶやオレはその場から走り出す。

 逃げてきたのに。全部、全部、あの時、捨てたはずなのに。なのにっ……。

 なんで忘れていたんだろう。こんなこと、無意味だってことを。

 ああ、そうだ。オレは、やり直すんだ。ミオ先輩たちに振り回されて、すっかり忘れていたけど演劇なんて……、ううん、なにをやったって、一体なにになると言うんだ。

 どうせその場限りの酔狂劇だ。そうだ。芝居なんてなおさら、テレビドラマや映画と違って映像にすら残らない。人の記憶ほどおぼろげで儚いものはない。

 その内、忘れるくせに。忘れられるくせに。なのに、どうしてそんな一時のためだけに、みんな、こんなにも真剣なんだ——?

 あまりの眩しさに見上げた月は、嫌味なほどきれいだった。

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