第6話 名前と物忘れ

「なぁ、前から気になってたんだけどさ」


 ぎっしり詰まった布袋の中身が擦れあって、ごとごとと音を立てる。


「ん? 何?」


 隣を歩くキーマが俺のと同様に物で溢れ返った荷袋を抱え直した。


「師範の名前って、何だったっけ?」


 ごろっ。キーマがバランスを崩し、果実が道端へ転がり落ちる。キーマは、夕陽を浴びて艶を放つ赤を一瞥し、信じられないものを見る目つきで俺を凝視した。


「え、今更?」



 俺達が住むこのユニラテラ王国には、王都の騎士団を始めとしてかなりの騎士団や兵団がある。

 武力を他国へ貸し出しもしているらしく、内外の脅威から守ってあげる代わりに、ユニラテラでは不足しがちな食料などを融通して貰うのだそうだ。


 そんな国だから、兵士として出世を志した者は町から町へと渡り歩いて腕を磨く。人の移動は情報や物の流通にも繋がるので、町の側にも利益があるみたいだ。

 今回もそんな町の一つに立ち寄っていた。


「あ~、久しぶりに疲れと埃が落とせるぜ」

「なんだかオジサン臭いセリフだね……」


 昼のうちに着くつもりだったのに予定が遅れ、やっと町へ辿り着いたのは夕方近く。長らく集落にも寄れずに心身の疲れが溜まっていたため、今日は休養を取っておくよう指示された。


「誰がオッサンだ。こんなチャンス、滅多にないだろ」

「素直に休むって選択肢はないんだね」

「気が乗らないなら寝てればー? お前ならどこででも寝られるだろうしさ」


 お、沈黙してる。まぁ、反論の余地なんてないか。つか、させないし。

 俺達は町長の館へ挨拶に出向いた後、宿を取った。大部屋が空いていれば問答無用で押し込められるのだけれど、今日は珍しく二人部屋へと案内された。


 もともと大人数であるため、一つの宿に入れないことも多い。そういう場合は幾つかの宿に別れて宿泊することになっていて、今回もそのパターンだった。


 ただし、俺だけは特殊というか、必ず同じ宿に師匠が泊まって、夜の訓練をやらされる。ちなみに相部屋にされそうになったこともあったが、それだけは断固拒否した。絶対嫌だ。全く眠れる気がしない。

 それはさておき、相部屋になったキーマと俺はせっかくの機会を逃すまいと画策した。


 一応兵士として給金を貰う立場になったのだし、たまには好きに食べたとてバチは当たるまい。静かに一騒ぎしようと、買い出しに来ていたのだった。食事は宿で出ても、デザートまでよろしくって訳にはいかないからな。

 そこで俺は話題を変えようと、頭に浮かんだ疑問を呟いた。師範の名前についてである。


「……」


 がらがらという音と土煙を上げて、馬車が横を通り過ぎる。あれ、また沈黙した?

 キーマは無言のまま、自分が落とした野菜を拾って布袋に押し込んだ。それから見開いていた目をぐっと細めて「冗談だ、とか言いなよ」と言った。声が異様に冷たい。


「だ、だから、俺は人の名前とか覚えるの苦手なんだってば」

「それにしたって、もうどれだけ一緒にいると思ってるわけ」


 キーマの細目がジト目に変わる。ここはスルー……駄目か。


「う……。え~と、一年と数か月くらい、かな?」


 一層空気が重くなる。


「あのさ。見習いの頃だって毎日顔を合わせてきたし、旅でもお世話になっている人だよ。保護者と言っても過言じゃないよねぇ?」

「ほ、ほら、『師範』って呼べば済んじゃってたしさ。そういうことって、あるだろ?」

「どこの親戚のおばさんだよ」


 本当に今日のツッコミは鋭い。


「まさかとは思うけど、一緒に旅をしてる仲間の顔と名前、一致するよね?」

「……」


 底辺いっぱいまで沈黙が落ち、ぽつりと零れた「呆れた」という言葉が染み込む。


「ヤルン。強くなるのはいいけど、もっと外にも目を向けないと、大事なことを見逃すよ」

「大事なこと?」


 いつも飄々ひょうひょうとしていて掴みどころのないキーマの口から、信じられない人生訓が飛び出して、面食らってしまった。歩みは止まり、袋の中身も静まり返っている。


「たとえば、チャンス。自分を希望するところへ、ヤルンの場合は騎士に、引き上げてくれそうな人との出会いがあっても、その人の顔や名前があやふやじゃあ、アピールの場を失う。コネだとか言って嫌悪する人もいるんだろうけど、良い仕事をしたいなら、人間関係を滑らかにするのが近道だからね」


 俺の口は阿呆みたいに開いていた。同い年で、兵士としての経験もほとんど同じはずのキーマが垣間見せた人生観に、どう反応して良いか判らない。


「ヤルン、聞いてるー?」


 つい数秒ほど前の鋭い光を湛えた瞳が、ふいに丸みを帯びた気がした。そこにいたのは、いつもの気だるげなキーマだった。


「お前、そんなこと考えてたのか」


 まだ焦点が定まらないまま、俺は溜息とともに感想を吐き出す。


「別に、一般論を言っただけ」


 一般論は扱う者によって意味を変えるものだ。ただの伝聞か、自らの経験から発せられたかで、印象を違えてしまう。その見極めくらいは出来るつもりだ。仮にも言の葉を操る魔導士なのだから。


「ほら、行くよ」


 ひらひらと手を振って歩き出そうとするキーマにつられ、俺も足を前に出す。今までさして気にはしてこなかったが、実は凄い奴なのかも……?


「あぁ、でも」


 ふいにキーマが振り返ると、旅続きで満足に切り揃えられない金髪が無造作に揺れた。


「師範の名前は覚えて無くても無理ないのかも。今まで疑問を抱かなかったのは、驚嘆の極みだけどさ」


 どういう意味かと訊ねる前に、キーマが悪戯っぽく笑った。


「初日に一度聞いたきりだからさ」

「は? 一回きり!?」

「教官の自己紹介の時のこと忘れた? 面白かったのに」


 うーん、どうだったかな。額に皺を寄せて思い出そうとしても、走馬燈のように駆け巡るのは師匠の説教と無茶な訓練、生傷を数える自分の姿……。


「ヤルン……」

「なんだよ。哀れみの目で見るなっ」



 結局キーマは答えを教えてくれず、俺が件の「面白い出来事」を思い出したのは数日も経ってからだった。

 きっかけは師匠が師範を「リー」とあだ名で呼ぶ声で、その瞬間に自己紹介の時のことが脳裏に蘇ってきた。


『剣術、体術指南役の……リーゼイだ』


 師範は顔を赤らめながら話し、あまり名前で呼ばれるのが好きではないと語っていたっけ。そうだ、当時、なりたての兵士見習い達は絶句したのだ。

 何故なら、「リーゼイ」はスウェルに咲く可憐な花の名にちなんで付けられる、愛らしく育てと女の子に付ける名前だったから。


 そうか、そうだったんだ。俺は不覚にも忘れてしまったんじゃない。あまりに不憫ふびんで記憶を封印したんだよ。


「くううっ、なんて可哀想なんだリーゼイ師範!!」


 旅の真っ只中、街道で思わず叫んだ瞬間、前で誰かが盛大に吹き出す音がした。


 《終》


 ◇この後師範がすっ飛んできて叱られます。

 ヤルンが名前を覚えないのは、どんどん知識を詰め込もうとする師匠のせいもあるかも?そこまで優秀な頭の持ち主じゃないので……。

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