九.生きて、みんなで帰るために
叫ぶと同時に、煙が口の中に入り込んできた。咳き込むと同時に涙が出たみたいで、視界が歪む。
けど、今は目をそらしている場合じゃない。
すぐ目の前で、大きな狼が金色の翼に牙を突き立てているんだから!
『……ぐっ。この、しつこい奴め!』
狼が一度獲物を口にとらえたら、ちょっとやそっとで離すわけがない。
喰らうっていうのは、そのままの意味だ。同胞以外のやつを食べるということ。
特に狼のやつらは強靭な顎と牙で、肉を裂く——、
「やめろ、牙炎!」
最悪の想像が頭の中を駆けめぐる。けど、これは杞憂なんかじゃない。
牙炎は人喰いを犯していないものの、以前翼族の両翼をへし折ったことがある。グリフォンの翼は鷲の翼だ。弱くはねえけど、馬鹿力の牙炎なら最悪が現実になる可能性が高い。
「レガリー、何をする気だ! やめねえか!!」
たぶん、クリュウも俺と同じことを考えたんだろう。絶対力で敵うはずがねえのに、両手でグリフォンから狼を引き剥がそうとしている。なりふり構ってられねえって感じだ。
牙炎は無言を貫いて口を離そうとしない。
攻撃魔法なら、あの狼に通じるかも。そう思ったけど、牙炎だけに魔法を当てられる自信がなかった。もしかしたらクリュウやギルに当たるかもしれない。そうなったらさらに大惨事だ。
世界の知識を学んで、魔法の研鑽を積んで一人前の魔術師になったっていうのに、情けない。肝心の時は何の役にも立ちやしねえ。
こうして棒立ちになって眺めてるだけ。
……いや、なに言ってんだ、俺。
こういう時こそ、俺がギルを助けないといけねえだろうが!
「牙炎ッ」
「ヒムロ!?」
声をあげると同時に足を踏み出す。
もう怖いだなんて言ってる場合じゃなかった。ギルの命が危ない。
国民証すら持ってねえ、見るからに怪しいこの俺を、ギルは雇ってくれた。そればかりか好きだと言ってくれて、今も身体を張って守ってくれてる。
存在感は怖ぇけど、誰よりも優しく頼りになるひと。
俺だってギルが好きだ。ギルのためなら何だってできる。
牙炎なんて、もう怖くない。
魔法が使えないなら、この身体で。俺は手に持っていた錫杖を握りなおし、振り上げた。牙炎の身体に叩きつけるために。その時。
ごきり、と。嫌な音が聞こえた。
一面の赤い部屋が、瞬時に白く染まる。
声にならないギルの絶叫が突き刺さった。国王の……、いや、ギルの翼の骨が折れた音だった。
「ギル!?」
「このっ、レガリーの大馬鹿野郎が!
牙炎はようやくグリフォンから離れた。けど、クリュウの怒鳴り声に恐れをなしたわけじゃないことは確かだ。
ギルの血で赤く染まり金色の羽毛で汚した口を大きく開き、高笑いした。咆哮に似た声が炎に包まれた店内に満ちてゆく。
『国王が何サマだってンだよ。俺サマに逆らうヤツぁ、みーんなこうなるんだぜ! クリュウ、てめェだって例外じゃねえ。俺サマから逃げられると思うンじゃねえぞ。てめェもヒムロも、死ぬまで使い潰してやる!』
地響きのような怒声に、肩がすくんだ。
情けねえ。
もう怖くないと思ったのはついさっきなのに。一分も経ってねえのにこのザマだ。
「……よーく分かったわ。馬鹿に付ける薬なんざないってことはな!」
「クリュウ?」
息を荒げるギルを放っておけず、顔を上げてクリュウを見た瞬間に全身の毛が逆立った。
眼鏡の奥の青い瞳、クリュウの目が据わっている。眉間の皺ができるほど眉は寄っていた。
「あァ? てめェみてえに弱ぇのが、俺サマになにかできるとでも思ってンのか?」
大きな口を開けて狼が
その代わり、強く握った拳を前を突き出す。さっき竜石の指輪をはめていた方の腕だ。
続けて聞こえてきたのは歌だった。いや、歌に似た呪文か。
俺が使う魔法語とは全然違う詠唱の羅列。
禁術だ。
「うわぁああああ! 何だ、これはぁあああ!!」
爆ぜる音に混じり、牙炎の悲鳴が聞こえてきた。
床板を舐めていた炎の隙間から黒いものがぬるりと出てきたのだ。赤い光に照らされてもなお光沢を放つそれは、迷わず狼の四肢を絡め取る。噛み付いて引き千切ろうとしても、ゴムみたいに伸びるだけだ。
「皆さん、なにやってるんですか。早くしないと手遅れに——、」
ケイの声が近づいてきた。なかなか避難して来ねえから様子を見にきたんだろう。
なんて説明したらいいか分からねえ。ギルの怪我だって早く応急処置してやらねえと。けど、添え木をするにも、ここは何もかも場所が悪すぎる。
迷っているうちにケイが再び姿を見せた。
うずくまるグリフォンに寄り添う俺と、触手に拘束された赤い狼。シュールすぎるその惨状を見て、ケイはすぐに事態を飲み込んだらしい。
顔が火についたように一瞬で激昂した。
「貴様、よくも陛下を……!」
「熱くなるな! それよりも国王の安否が最優先だ。牙炎は俺が押さえておく!」
今にも飛びかかろうとするケイを押さえてくれたのはクリュウだった。
よく見ると指輪の台座にはめこまれた竜石は全てなくなっていた。さっきの術で壊れたってことかよ。禁術に使う媒体ってそんな脆いのか。
「クリュウ、ギルは骨折してるんだ。あまり動かさない方がいいんじゃねえのか!?」
「折れてるのは翼だ。翼を動かさなければ問題ねえ。可能なら、お前らで国王をかついで脱出しろっ」
これでも幻薬を作るだけの知識はあるんだ。俺も少しは応急手当てができる。
けど、いくら技術があったって、道具がなくちゃ何もできない。ギルのために一刻も早く燃え盛るこの部屋から脱出する必要がある。
幸いにもケイが戻ってきてくれたから国王を抱えて逃げることはできるだろう。
この違和感は何だ。
牙炎の動きを禁術で拘束し、後はみんなで炎から逃げるだけ。
なのに、脱出しろとその口で言った張本人が、なんで床に縫い止められたみてえに動こうとしねえんだよ。
「クリュウはどうすんだよ!」
「だから俺は、これ以上国王に害が及ばねえように牙炎を押さえておくんだよ!」
炎は飢えた獣のように全部呑み込んで広がっている。もう火の海になろうって時に、牙炎を押さえるだと?
ふざけんな。
指輪だってもう砕けただろうが!
「何言ってんだよ。死にてえのか! 今は悠長にしている場合じゃ……」
今は引くべき時じゃない。そう頭ではわかっていたのに、俺は口をつぐんでしまった。
天井が焼け落ち、燃え盛る炎を背景に。熱風で髪を躍らせ、振り返ったクリュウがきれいな顔で笑っていた。
「言っただろ? 俺がなんとかしてやるって」
身体の奥に落ちた鉛が大きくなっていく。胸の中が大きく騒ぎ立った。
まさかクリュウ、死ぬ気なのか。
ガキの頃、俺は故郷で大切な命を失っていくのをこの目で見た。大切な誰かがいなくなるのはもうたくさんだ。
ギルも、クリュウも、誰も死なせるもんか。
「ケイ、ギルを頼む」
「——え?」
返事は聞かなかった。
立ち上がり、俺はクリュウへ向かって歩いていく。距離を縮めるごとに、クリュウの顔が焦っていくのがわかった。
「ヒムロ、人の話聞いてたか!? 早く逃げ——、」
「フェンリルの眷属、
凍えた空気が俺の全身を満たし、室内へ放出されていく。熱った肌に氷の魔力が心地よかった。
氷を細かく砕いたような無数の欠片はほろりと溶け、濃密な白い霧へと変化する。それこそ、すぐ目の前にいる赤い狼さえも見えなくなるほどに。
人は、体内でめぐる精霊によって属性が違ってくる。同じ肉親でも髪や瞳の色が違うのはそのためだ。
俺の
「……
飢えた狼のように呑み込もうとしていた炎が小さくなっていく中、クリュウはぽつりとそう言った。
白く立ち込める霧の中でも、近づけば顔を見ることはできる。一歩踏み出し、俺はクリュウとの距離を縮めた。頭上からシャン、と涼やかな音が聞こえた。
「これで少しは火の勢いも消える。今のうちに牙炎を捕縛しろよ、クリュウ。ただ地面に縫い止めるだけじゃ、何の解決にもなんねえだろ」
牙炎の姿は霧に紛れて見えない。けど、「ふざけんな」とか「後で覚えてろ」と吠えてクリュウの名前を呼ぶ声がするから近くにはいるはずだ。
「禁術は精霊魔法とは違う。普通の縄や鎖よりもずっと確実に、牙炎を捕らえておける。で、禁術で縛ったあとみんなで脱出しようぜ」
「臆病で泣き虫だったお前に、そう言われる日がくるなんてなあ」
泣きそうな顔で笑われた。感激している場合かよ、このバカ教師。一秒だって時間が惜しいって言ってんだろ。
「それにな、お前はよくやってくれた、ヒムロ。牙炎のことはともかく、火事はどうにかできるかもしれねえ」
「へ?」
「
マジか。結構な勢いで燃えていたから、少しでも火の勢いを弱められればと思って使ったんだが、功を奏したようだ。
今回は無事に魔法が発動してくれて、本当によかった。
「なら、クリュウも今のうちに禁術使えよ。なんとかするんだろ?」
使えるもんならな。
カマをかけて軽く睨んだら、クリュウはとうとう観念したように両手を広げた。
「そうしたいのはやまやまなんだけどな、あいにく手持ちの竜石が切れちまって」
「じゃあ、この後俺たちが逃げたらどうするつもりだったんだよ!」
「禁術式で織ったあの触手を引き千切ることはねえだろうし、最悪
「いいわけないだろ! 誰かのいのちを助けるために他の誰かが犠牲になんのは、もうたくさんなんだよ!!」
怒りにまかせて、手に持っていた錫杖で床を叩いた。
すぐ目の前で、力なく笑うクリュウがぐにゃりと曲がる。記憶の片隅で、泣き叫ぶ小さな真白い姿と悲鳴が木霊する。目の前で散ったいのちと、手を伸ばしても届かなかった大切な——、
くそ。嫌なことを思い出しそうだ。今は感傷に浸っている場合じゃねえってのに。
「……ほんとに、もう術に使う媒体がねえのかよ」
「ない。使えるもんは、この命だけだな」
クリュウは親指で白衣の胸ポケット、心臓のあたりを指し示した。
こうしている間も真白い霧は俺たちを包み込んでくれている。魔法の効力はまだ続いているらしい。火の勢いは衰え、煙も少なくなってきた。
クリュウもギルも、ここにいる全員が助かる道はねえのか。二人で考えれば、なにかいい案が思いつくはずだ。
すっかり冷えてしまった杖の取手を持ち直し、軽く床を叩いた。銀の輪が打ち合って、シャンと、錫杖が鳴く。
ちょっと待てよ。
禁術に竜石を使うのは、ソレが魔力のかたまりだからだ。いにしえの竜のからだからあふれた魔力が結晶となって石になる。それが竜石である、と前に千影は言っていた。
そしていにしえの竜のからだは純粋な魔力でできているとも。
であるならば、その身体の一部も禁術の媒体として使えるんじゃねえのか?
「クリュウ、これは禁術に使えねえか!?」
錫杖を真横に掲げ、鞘になっている下半分を抜き放った。
濃い霧の中でもなお、刀身は黒く輝いている。もともとは魔力の補強をするために作った仕込み刀だった。
「ヒムロ、この剣は……」
「これはいにしえの竜の爪を加工した刀だ。身体の一部だって、竜石となんら変わらねえ魔力のかたまりだろ? だから——、」
「でかしたぞ、ヒムロ」
言い終わらねえうちにクリュウは俺の手から刀を奪い取った。さっきまで泣きそうだったくせに、今度は白い歯を見せ、勝ち誇ったかのように笑って言った。
「変わんねえどころか、竜石よりもはるかに強力な媒体だ。これなら全員助かるぜ」
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