三.壁ドンと抱擁
武装した兵士が見張る扉を抜けた先は階段だった。もちろん顔パスで国王は素通りし、俺を連れて奥へと進んでいく。
廊下と同じく階段もふかふかの絨毯が敷かれていた。真っ赤な分厚いそれが俺と国王の足音を吸収してゆく。
その一つ上の階層は常に開きっぱなしになっているフロアとは別物の作りになっていた。
商工会の受付のため解放されている一階は清潔な印象だった。机も椅子もシンプルでありながら質のいいものを使っていたし、二階の応接間も上品なデザインの調度品を使っていた。王城の中だけに豪華な内装だと思ってた。けど、よくよく考えると飾っていた絵画は小さなものが多かった気がする。
俺がそう思ったのは、三階は全く別世界に感じたからだ。
大きく開けた廊下の頭上には宝石みたいにキラキラしていてでっかい照明がぶら下がってる。これがシャンデリアというものなんだろうか。
たくさんの太陽光が入るようデザインされた窓の枠は純金でできているし、分厚そうなドレープカーテンもよく見れば金糸が編み込んである。
下界とは比べもんにならないくらいの兵士の数。行き交う宮廷メイドや文官っぽいやつらの数も下層よりはるかに多い。
階段の手前で見張りの兵士を置いていたことを考えると、三階より上は一般人には解放していないエリアに間違いない。
国王や国王に許可されたやつじゃねえと入れないプライベートゾーンってやつなんだろうか。
ちょっと待て。厳重な見張りがいたってことは、そう簡単にこの階層から脱出できねえってことじゃん!
やばいやばいやばい。マジでやばい。どうにかして逃げねえとマジで処刑される。
「着いたぜ。入れ」
連れてこられた先は両扉の大きな部屋だった。扉を大きく開き、睨みつけてくる。だからいちいち凄んでくるのやめてくれねえかな、この王サマ。
部屋に入ったら、もう二度と引き返せない。
そうわかってはいたけど、国王が背後にいては逃げられるわけがなかった。
覚悟を決めて足を踏み入れる。
「うわ……」
わかっていたつもりだったが、案内された部屋は無駄に広かった。
応接間よりも大きな暖炉。赤い革張りのソファと低いテーブルセット。かかってる絵画に天井まで届く本棚。奥の方にはティーセットが入った食器棚まである。一番目に付いたのは天蓋付きの大きなベッド.....、ってベッドぉぉぉぉぉ!?
なんでベッドまであるんだよっ!
ここって、もしかしなくてもまさか、国王の寝室じゃねえだろうな!?
「陛下、お……じゃなくて、わたしは何をすれば……」
渾身の演技で絞り出した俺のセリフは、扉が閉まる音にかき消されてしまった。
続けて聞こえてきたのは、カチャリと鍵が閉まる音。まだ昼間だというのに、目の前が真っ暗になっていく。
薄闇の中、国王の雷色の瞳がぎらりと光る。
まるで猛禽か猛獣が獲物を狙い済ましたような目だった。俺を睨みつけたまま、ギルヴェール国王はこう切り出した。
「おまえは何者だ?
ば、ば、バレてる——————!?
嘘だろ。恥を忍んで女に
なんでバレたんだ? 俺の変化は完璧だったはず。声まで変えてたのに。
いや、待てよ。俺の本当の姿を国王はまだ知らねえはずだ。もしかすると誤魔化せるかもしれない。
「何者って、わたしはただのメイドだ……ですよ」
「そんなわけあるか。おまえみてえな白っぽい狐の獣人の女を雇った覚えはねえんだよ」
「雇ったって……え!?」
まさか、この王サマ。給仕係の女全員の顔を把握してるのかよ。
そんな俺の思考を見透かしたように、ギルヴェール国王は口の端をつり上げて言った。
「俺は国王様だぜ?
嘘だろ!? 女中や文官、兵士だけでも軽く百人は超えるはずだ。その全員を頭に入れてるってどんだけ記憶力いいんだよこいつ。
「さて。次はおまえが俺の質問に答える番だ」
コツコツと靴音を立ててギルヴェール国王が近づいてくる。獲物を狙う獣のように目を鋭くさせて、ゆっくりとした歩調で。
「おまえがどこの誰で——」
逃げなくちゃ。でもどこに?
鍵は閉められたし、バルコニーに通じてそうな窓はあるけど、今背中を向けたら絶対やばい。
「何の目的で
近づかれるたびに後退していくうち、背中に固いものが当たった。壁だ。
やばい。もう逃げ道がねえ!
やっぱり逃げるなら窓から——。
この時、俺はうかつにも視線を国王からそらしてしまった。
顔のすぐそばでギルヴェール国王の腕が伸びてくる。国王は勢いよく手のひらで壁を叩いた。どん、という大きな音が耳に響いた途端、心臓と尻尾が縮んだ。
「逃がすかよ! せっかく二人きりで話をする場所を用意したんだ。おまえが洗いざらい吐くまで付き合ってやる」
初めて聞く怒声は全身が貫かれるように鋭かった。
さすが雷光の獅子王と巷で呼ばれているだけはある。って、そうじゃなくて!
顔の真横にはギルヴェール国王の
やばいやばいやばい! マジで逃げ道がねえ!!
「お、れは……その……っ」
緊張なのか恐怖なのか。心臓がドクドクと大きく波打っている。やばいって警鐘を鳴らしてるんだ。
もう女になりきる演技さえも剥がれ落ちてる気もするけど、そんなことどうでもよかった。どうせバレてるんだ。取り繕ったって意味がない。
ふいに腕を掴まれる。身体中が震え上がり、尻尾の毛が逆だっていくのを感じた。
「まず名前を教えろ。あと性別……は、どっちなんだろうな。女の声をしているが、声なんていくらでも変えようはある」
左手で壁を突き、右手で俺の腕を捕らえたギルヴェール国王は、瞳をすがめたまま顔を近づけてきた。
鋭い印象の端正な顔が間近に迫る。
その瞬間。俺の意識は、過去へと引きずり込まれた。
耳にまといつくのは、荒い吐息と絶えることのない鎖の音。
まるで真綿で首を絞められてるみたいに苦しくて。助けてって叫んだのに誰も来てはくれなかった。
ジンジンと尻尾が痛い。指先から全身にかけて、力が抜けていく。
目の前に赤が迫ってくる。ルビーみたいな赤が、血のような色の赤が俺の視界を、世界を、覆っていく。
『立場の違いってモノを教えてやる——』
いつも、耳もとでそうささやかれていた。もう思い出したくもないのに。
真っ暗の闇の中、手を伸ばしても光は見えてこない。
まるで水の中をもがいているみたいだ。苦しくて辛くて、呼吸ができない。
いや、そもそも俺はどうやって、息をしてたんだっけ。
「しっかりしろ!」
雷のような一喝が俺の意識を現実へ引き戻した。
身体の奥から空気がせり上がってくる。
なのに息をうまく吸えない。浅く吐き出すのに精一杯でだけで吸い込めない。どうなってんだこれ。
「大丈夫だ。落ち着け」
腕を引かれ、ぐっと身体を締めつけられる。なのに不思議と苦しくは感じなかった。
力強いのにあたたかくて、服を通して背中から体温のぬくもりが伝わってくる。まるでガキの頃、怖い夢を見て眠れない夜に、親父が抱きしめてくれた時みたいだ。あたたかくて安心する。
「落ち着けばちゃんとできる。ゆっくり息を吸って吐いてみろ」
ぽんぽんと軽く背中を叩かれた。
体温に似たぬくもりに包まれたせいか、震えていた心が穏やかになっていく。
言われるままにやってみた。
吸って、吐いて。吸って、吐いて……。
最初は吐くだけで精一杯だったのに、自然と身体の中に空気が満ちていく。ゆっくりと鼻と口から、新鮮な空気が入ってくる。
なんだ、冷静になればなんてことない。ちゃんと呼吸できるじゃねえか、俺。
「よくがんばったな」
ゆがんだ視界の中、耳もとでそうささやかれ、こくんと頷いた。
これはきっと夢だ。今はもうない故郷や家族が恋しくて。寂しくなった俺に精霊たちが見させてくれた夢なんだ。
だからせめて夢の中だけでも。もう二度と、現実で会うことは叶わないから。
「ありがと、親父」
そんな言葉を残して、本当は誰に身体をあずけているのか確かめず、俺は細くなっていく意識を手放した。
あたたかな闇の中へまどろむ中、どこか遠くで、
「……誰が親父だ」
そんな声が聞こえたような気がした。
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