第47話

 包みと篭手が青白い光を放つ。


 固い声でトフカ語を唱え終えたトレンスキーが紐を緩めた包みを前方に放った。転がり出たのはかけらよりもやや大きな水精石すいせいせきの結晶たちだった。

 結晶に触れた大地が見る間に凍りつく。

 およそ夏場に聞くことのない激しい凍結音を響かせて、夏草の生える野を氷の塊が喰いつくしてゆく。それは四つ足の招来獣たちも大きく巻き込んで季節外れの景色を押し広げていった。


「……っ、はっ!」

 吐く息が白く揺らいだ。肺に届く空気の温度が変わる。深く息を吸おうとしたトレンスキーがその冷たさに表情を歪ませた。

 無力だった風も、広がった氷の上に流れれば鋭い刃物のようにむき出しの肌を刺してゆく。薄い外套がいとう一枚ではその刃を遮ることはできなかった。 

 周囲を見渡したトレンスキーの顔から次第に血の気が引いた。

(……ワシは、また……)


 アーシャ湖を遠目に眺めた時に感じたものを、自分が作ってしまった。

 向かってくる招来獣しょうらいじゅうも、飛んでいた羽虫の気配も、日の下で育った夏草の柔らかさも。凍りついた大地の上には何も残っていない。

「……あ、うぅ……っ!」

 喘ぐような息を重ねながらトレンスキーは体を折った。かじかむ指先で両腕を抱えながら強く目を閉じる。


 思い出したくなかった。この空気も、この感覚も。

 全身が芯から凍える。

 耳の奥にかすかな潮騒しおさいの音が届く。夏の夜空は遠い星明りで大地を見下ろし、篭手の重さと冷たさを際立たせる──。


 トレンスキーが唇を噛んだ。

 違う。ここはカルバラだ。クレスタリカのアーシャ湖だ。ルートポート領リファスではない。

 そして、自分はまだ何も終わらせていない。

 そこまで考えてゆっくりと目を開いた。闘いの最中に視界を遮るなど自殺行為でしかない。集中の途切れた今この瞬間に攻撃がないのは、上手く招来獣たちを止められたからなのだろうか。


 視線を上げたトレンスキーは白く揺らめく息をはっと止めた。

 四精術しせいじゅつが作り上げた氷の大地の先に、巨大な白鳥が降り立つ姿が見えた。

 氷に飲みこまれた野を軽く見回した後で、サリエートがすっと細い首を伸ばす。水精石すいせいせき由来の青い眼がトレンスキーを見据えていた。

 退かなければ、と思ったトレンスキーの耳にアンティの悲鳴が届いた。


「──ゲルディさん!」


 わずかに振り返った目に映ったのは、招来獣に対峙するアンティの姿だった。空を飛んで凍結を逃れたツバサヘビ、さらに氷を回避して大きく迂回したキツネモドキたちを数体相手にしている。

 分が悪いことは見て取れた。アンティの振るう剣は明らかに精彩を欠いている。白鴉の援護もあって何とか踏みとどまっている様子だった。

 その隙をついて一体のキツネモドキが倒れたままのゲルディークを狙ったのだろう。アンティも追いかけたが、キツネモドキを突き飛ばすよりも鋭利な牙が首筋に突き立てられる方が早かった。


 広がった血飛沫。それを見た瞬間、トレンスキーの背に寒さ以上の悪寒が走った。

「逃げろ、アンティ!」

 弾かれたように踵を返してトレンスキーが叫ぶ。遠目に見えるサリエートの姿などはもう眼中になかった。


「早く、離れるのじゃ!」

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