第十四.五話 ・剣修羅散る
メルルによって、更地へと変えられた土地に待ち人の到着を心待ちにする一人の男がいた。
朽ちた大木に腰掛けるその男の名はベクター・ヴァイルハイト、悪鬼の如し活躍でもって戦場を駆けた彼を人は剣修羅と呼ぶ。
ーー深く深く、薄く薄く、より鋭く、より強靭に研ぎ澄ます。
彼は瞑目し、ひたすらに自身の体を巡る魔力を練高める。
ついに時が来たのだ。耄碌し、自分のあり方を見失いかけていた彼に、今一度命を吹き込んだ少女と真剣を交える時が来たのだ。
勝てるか、勝てないか、などという疑問はベクターには既に存在してはいなかった。
ただ、自分の人生の全てを賭けて培ってきたものを全力でぶつけるのだ。それで十分。
答えは自ずと見えてくるだろう。
ベクターは、朽木に立てかけていた愛刀『羅刹』を腰に差し立ち上がる。どうやら待ち人が来たようである。彼の視線の先には、己の最後を飾るに相応しいと定めた少女、メルル・S・ヴェルロードが従者を連れ立って静かに立っていた。
そして、メルルは溢れる寂寥感を隠す事なく言葉を紡ぐ。
「思えば、先生とここで初めてお会いした時が随分と昔の事のように感じます。
この地は随分と変わってしまいましたが、私が先生に抱く尊敬の念は何ら変わりはありません。できることなら、これからも先生のご指導の下、研鑽に励みたいと思うだけに、とても残念です」
彼女はベクターの事をよく理解している。もう後戻りなど出来ない事を、そして始まってしまえばどちらかが死ぬまで終わる事はないということを理解しているのだ。
「何が残念なのですかメルル様。
私はずっと、この時を待っていたのです。メルル様が十分に成長なされる時を待っていたのです。さぁ、もう言葉はいらないでしょう。この老人の剣がどこまで貴女に通じるかはわかりませんが、遠慮なく切り捨ててください。……さもなくば、死ぬのは貴女になりますよ?」
その言葉を吐き終えると、同時にベクターが動いた。
地面を蹴り上げ、土を飛ばす。
それに対してメルルは防ぐでもなく、単純に避けるでもなく体制を低くし、前進することで対処した。すると、先程まで彼女の頭があった場所を確かに剣圧がよぎった。
とても刃自体が届く距離ではない、武技の類だ。それも発声も必要なく、決められた型も存在しないようで、続けざまに今度は彼女の足元を抉る。
不可視の刃が、メルルを切り裂かんと迫るが彼女は止まることなく突き進み距離を詰める。
ーー疾いッ、
ベクターはメルルの怖気しない踏み込みに、獣の如き俊敏さに戦慄を覚えた。
都合三回、メルルが距離を詰め切るまでに飛ぶ斬撃『
メルルの間合いに入った瞬間、上段に構えられていた彼女の剣が袈裟斬りに振り下ろされる。
必殺の気概がこもったその一閃は、防御の上からでも十分に相手を死に至らしめる事だろう。しかし、当たらなければどうということはない。ベクターは身を逸らし致命の斬撃を回避すると、その勢いを利用し即座に刺突を放つ。
狙いはメルルの左胸、確実に彼女の心臓を捉えたように思えたのだがーー。
まるで、予めこうなることが分かっていたかのように、メルルは地に刺さっていた鋒を振り上げベクターの頬から側頭にかけて深々と切り裂く。
メルルが身体を捻った事により、結果的にベクターの刺突は心臓から外れ、彼女の脇を抉るに留まった。
一見、痛み分けのようにも見えるが、その立場が対等でないことをベクターは理解していた。
そもそも、体力が違う両者。
特にメルルの体力は常軌を逸しており、今回のダメージにしろ何ら負担ですらないだろう。
対してベクターにとって、今回の出血は十分な痛手である。
このまま時間が経てば状況は悪くなる一方だ。
早々に決着をつける必要があると判断したベクターは、ここで勝負に出る。
密着状態に近い至近距離で、ベクターは連続で斬撃を放ちつつ距離を開ける。
小手先の斬撃は簡単にメルルに防がれ、事態が好転するようには思えない。しかし、当然ながら彼の狙いは他にあるのだ。この小手先の斬撃は、布石に過ぎない。
ベクターが持つ最強の武技を発動するための布石。
そして、計五回の斬撃を放ち終えた時、準備は完了する。
決着を着けましょうかと、短い呟きを彼が漏らした後、それは発動された。
“修羅剣舞・阿修羅”
武技の発動と同時に、六つの斬撃がメルルに襲いかかる。
この武技は直前に行った行動を魔力でトレースすることが出来る武技だ。
そして、発動の直前にベクターが放った斬撃は同じ軌道を描きつつも、その一つ一つが武技であると十分に理解できる鋭さを持っている。
それは一瞬の出来事であった。
逃げ場はないと覚ったメルルは、六つの斬撃のうち実体のある一つをベクターの腕を斬り飛ばすことによって防いだ。
残りの斬撃のうち三つを、懐に隠し持っていた金属製の棒を間に噛ます事によって防ぎ。
二つの斬撃をまともに受けながらも、メルルは生きていた。
吹き出した鮮血が、二人の余白を朱に染め上げる中、ベクターの懐に潜り込み武技の発動を告げる。
ーー暗黒舞闘・椿
メルルの掌から放たれた魔力の奔流は、ベクターの体内に流れ込み広がり、全身の骨を軋ませ内蔵を攪拌する。
ゴポリと、ベクターの口から赤黒い液体がこぼれ落ち、メルルの顔を彩りながら彼は崩れ落ちた。
崩れ落ちたベクターに一瞥を送ると、すぐに思い出したように従者を呼ぶ。
「アクア! 早く先生を治療してあげて、お願い早く!」
それに対してアクアは、了承しましたと至って冷静に応える。
自身も決して無視は出来ない重症を負っているのにも関わらず、メルルは更に言い募る。
「先生は助かる?」
「ええ、問題ありません。私にお任せ下さい」
「腕はつながるかな」
「勿論ですよ、
「うん、ありがとう。……後はアクアに任せておくわ」
そう言って疲れた様子で立ち上がるメルル。
すると、彼女の体を液体状に変化した魔力が包む“属性付加・水”コレの恩恵により、メルルの傷口は止血され彼女の再生能力は更に強化される。
自身の傷を自前の治療で対処したメルルの様子に、アクアは満足そうに目を細めると、ベクターの治療を始める。
確かに傷は深いが、この程度ならアクアからしてみればなんということはないだろう。
切断された腕にしてみても、オーダー通りにつなげるだけなら簡単だ。
ーー二度と剣を握れない程度につなげておきますよ、お嬢様。
決して音には乗せない独白は、当然ながらメルルには届かない。
それどころか、アクアに背を向けトボトボとどこかに向けて歩き出した彼女には、アクアの酷く歪んだ端正な顔すら見えてはいないだろう。
(脳の方も弄った方がいいかな? いやいや、流石に差し出がましいかな?)
などと、考えながら治療を進めるアクアの表情を、メルルはとうとう拝むことは無かった。
ーーーー
ーー目を覚ますと、見慣れない部屋に寝かされていた。
ベクターは疑問に思う。
自分は死んだ筈ではと、最後にメルルから受けた武技はそれほどまでに強力なものであった。
とてもじゃないが、あの状況から助かるとは思えないのだ。
それどころか、見たところ傷すらもなく痛みもない。
更に自分の身体の様子を確認しようとしたところ一つの異変に気が付いた。切り落とされた筈の腕があるのだ。しかし、まるで握力が入らない。
今の自分の状況を不審に思い、訝しげに首を捻っていた彼に声がかけられた。
「おはようございます。思ったよりも随分と早いお目覚めですね、流石は剣修羅といったところですか」
「貴女は、確か……」
「私の名前はアクア・エクリプス。お嬢様にお仕えする従順な
ベクターはその名前に覚えがあった。まだベクターが駆け出しの騎士見習いであった頃に上司から聞いた話だ。普段は堅苦しく、笑顔など見せたことの無い上司が珍しく上機嫌に語るものだからよく覚えている。それは、上司の娘に守護精霊が宿ったという話であった。
そして、その上司の姓はエクリプスといい、娘の名はアクアという。
超常の存在である精霊が関わっているのなら、自分の傷の事はどうとでも説明がつくだろう。
精霊とはそういう存在である。
しかし、一つだけ納得がいかない事があった。
それは、意図せず言葉となって彼の口からこぼれ落ちる。
「……どうして、殺してくれなかったのですか? 私はそれを望んでいたというのに、これでは生き恥ではありませんか、私に生き恥を晒せというのですか」
ベクターの身体が悔しさに震える。
情をかけられたと言う惨めさと、やっと迎えられたと思った自分が望む最後を穢された屈辱に、言い知れぬ憤りが溢れ出す。苦悶の表情に顔を歪め、憤りに震えるベクターに対して、アクアは勘違いをするなと言葉を並べる。
「勿論お嬢様が望んだからですよ? 勘違いしているようなので、考えを改めてもらいましょうか」
藤色の瞳がベクターを射抜き、まるで不出来な子供に諭すかのように続けられる。
「貴男の信念を貫こうとする姿勢は私としても賞賛に値するものに思います。
しかしながら、それもお嬢様の崇高なるご意志の前ではまるで無意味なのです。いいですか、貴男は負けたのですよ、負け犬が自分の意志で簡単に死ねるなどとは思わないでください。全ては勝者の、つまりはお嬢様の御心次第なのです」
アクアの言い分は、あまりに理不尽なものだろう。
しかし、その理不尽な理屈こそが戦場では常識である。敗者は死ぬ自由すらないのだ。ある者は人質に、ある者は奴隷へと成り下がる。
事実、ベクターもその理不尽な常識の下、辛酸を舐める者達を多く見てきた。
まさか剣修羅と恐れられた自分が、このような目に逢うとは想像もしていなかったベクターは、自分も覚悟が足りていなかったかと自傷気味に嗤う。
「ご理解いただけたようで幸いです。おや? どうやらお嬢様が来るようですよ。後はお嬢様のご指示に従って下さい、当然拒否権はありませんので、そのおつもりでお願いします」
トテトテと、間抜けな足音が壁越しに聞こえてきたかと思うと、足音は扉の前で止まり、一拍子置いてから扉が開かれる。
最初は隙間から中を覗くように狭く開き、紅い瞳が起き上がっているベクターを捉えると、緩慢な動作で扉は開かれ、自信なさ気な表情のメルルが部屋の中へと入ってきた。
「おはようございます」
ただ、簡潔に挨拶だけを済ませたメルルをベクターは睥睨する。
この少女は自分の事をよく理解していた筈である。少なくともベクターはそう思っていた。その彼女が敢えて自分を生かしたのだ。一体どう言うつもりであるのかと、ベクターは問うてみる事にした。
「なぜ、私を助けたのですか? あのまま捨て置いてくださればさえ、私の願いは果たされたというのに何の為に私を生き長らえさせたのです。どうか、メルル様の口から直接お聞かせ願いたい」
鋭いベクターの双眸に、睨みつけられたメルルは一度視線を伏せてから、その情けない表情を改めて、なんでもない事を口にするように彼の言葉を自然体で否定した。
「いいえ、先生は死にました」
「ーーは? 何を」
メルルの口から出た言葉が、本当に当たり前の事を言うかのようだったので、ベクターは呆気にとられ言葉を失う。そんな彼に彼女は朗々と言葉を続ける。
「そう、死んだのです。我が師、剣修羅ベクター・ヴァイルハイトは私が殺しました」
メルルの手がスッと伸びてきて、ベクターの手を包む。
白く、小さな手だ。
しかし、か弱い様相とは裏腹に掌は固く、彼女が積んできた修練の程を容易に想像させるそんな手だ。
「よって、今の貴男はただのベクターさんです。
剣修羅の妄念は、私が晴らしました。だから、ベクターさんが死ぬ必要なんてどこにもありません」
もう話は終わりだと言わんばかりに、メルルは踵を返し部屋から立ち去ろうとする。
傲慢な彼女らしい勝手な結論であるが、ベクターはちょっと待って欲しいと声を上げた。
「待ってください! 勝者は敗者の全てを決定する権利があります」
メルルの歩みが止まる。
「剣に生きてきた私は、他の生き方を知りません。教えてくださいメルル様。
剣を失った私はこれからどう生きればいいのでしょうか」
これは、メルルに対する意趣返しのようなものであった。
死に場所を選ばせてくれないのならば、生き方まで決めてもらおうと、ベクターはメルルに問うたのである。
一瞬迷ったように、それでも、ハッキリとした声でメルルは彼の今後の生きる道を示した。
ただ、生きればいいでしょう。
彼女はそう切り出し、言葉を続ける。
「剣の道しか知らぬというのならば、他の道を知ればいいのです。
いや、他の道を知るために生きればいいのです。これからの貴男は、今まで蔑ろにしてきたものの為に生きてください」
それは、ベクターを狼狽させるに十分な言葉であった。
メルルの言う蔑ろにしてきた者とは、残してきた家族の事で間違いだろう。
その話を彼女にした覚えはないが、底知れない彼女のことだ。どこからともなく話を仕入れてきたに違いない。
今更、どんな顔で会えばいいのか? 家族には剣に死ぬとだけ伝え別れた。
その自分がおめおめと生き残り、二度と剣を握れぬ体になって帰ってきたとしたら皆どんな顔をするのだろう。ベクターには、それが死よりも恐ろしかった。
ーーいや、だからこそか。
ああ、どこまでも優しく、残酷な御方だ。
メルルは今まで逃げてきた責任に向き合えと言うのだ。
なにも、殺し合いだけが戦いではない。
無理矢理に、ベクターが死ぬべき戦場は随分と様変わりさせられてしまったらしい。
それは、ベクターが焦がれていた戦場よりもずっと、彼にとっては過酷なもののように思えた。
孫にでも囲まれながら安らかに眠る自分の姿を想像し、ベクターは思わず吹き出してしまう。
これは、やりきれない想いはあるものの、半ばメルルの定めた死に場所も悪くないかも知れないと、思い始めている自分がいることに気がついだからだ。
彼が似合わない小規模な葛藤に決着をつけかけた頃に、メルルは蚊の鳴くかのような小さな声で何かを言いかけたのだが、
「もし、ベクターさんがーー」
奇しくも、ベクターの誓の言葉は、何かを言いかけたメルルの言葉を遮るかたちで告げられた。
「漸く決心が着きました。
私は残りの人生を、今まで蔑ろにしてきた
「フェ? ……その、えーと、頑張ってください」
後には、赤面しながらそっぽを向き無責任な声援を送るメルルと、その無責任さこそが彼女らしいと苦笑するベクターが残された。
いや、正確にはもう一人、赤面するメルルを凝視しながら人知れず鼻を押える従者もいたが、別に気にする程のことでもないだろう。
穏やかな空気が部屋に流れる。
まるでそれは、ベクターのこれからの人生を暗示しているようであった。
こうして、死に場所を自身の弟子に求めた男と、その背中を追いかけながらに、最後の最後で彼を否定した少女の歪んだ師弟関係は精算されることとなったのである。
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