・メルルSの異端なる異常

 メルルの朝は早い、屋敷の勤勉な使用人の誰よりも早く日々の営みを始める。しかし、そのメルルよりも早く行動を開始する者がいた。


 それはメルルの『カゲ』である。カゲというのは時に主にすらその存在を覚られぬよう気配を絶ち、あらゆる危険から主を裏側より守護する者達のことを指す。




 ベルフト王国の上位貴族のその多くが、各家々でカゲと言う裏の戦力を抱えており、メルルのヴェルロード家もまた、その例に漏れず優秀なカゲを抱えている。




 メルルのカゲ、『クロ』はカゲとしてはまだ若い青年であり、事実単独で護衛の任につくのはクロにとって、メルルの護衛が初めての仕事である。しかし、その初めての仕事はクロの思うカゲらしい仕事とは言い難いものであった。




 なぜなら彼の仕事はただメルルを見ているだけである。




 その理由は簡単だ。なぜならそれは、護衛対象であるメルル・S・ヴェルロードが、非常に高い戦闘能力を持っているからに他ならない。




 彼女は七歳と言う幼き身でありながら非常に好戦的で、魔物を見つけると凶暴な本性を表にし襲いかかり、ものの数秒で魔物を死に至らしめる。その手腕は鮮やかなもので、同じカゲの中でも戦闘に優れているクロですら、正面から戦えば命の危険があると判断せざるを得ないほどだ。彼女が魔物相手に苦戦する姿をクロは未だに見たことがなかった。


 よって、クロはメルルの護衛についてから半年ほど経つが、今まで彼の望むカゲらしい仕事をすることができないでいた。




(これじゃ、護衛というよりも監視だな)




 クロは声に出すこともなく、自傷気味に笑ってみせる。


 しかし、クロは思う、実際メルルに必要なのは護衛ではなく監視なのではないかと。




 メルルがいつものように身支度を整えると、そのままに屋敷を飛び出し村へと向かう道を走り出す。彼女の日課の走り込みが始まったのだ。それにクロも本物の影のように付き従う。




「……今日も始まったか、凄惨な魔物狩りが」




 息を乱しながら疾走するメルルには決して届かない程の小さな呟きが漏れる。メルルと言う少女の本質を最も端的に表している奇行“魔物狩り”。


 武者修行の武芸者が、冒険者として魔物を討伐しながら旅をすると言う話は割とよくある話であるが、それは、より強い魔物と戦い己を磨きつつ旅の路銀を稼ぐと、理にかなったものである。




 しかし、メルルの魔物狩りは武芸者のそれとは違い不毛なものであるように思えた。彼女は戦闘狂というよりも絶対的加虐者であり、相手がたとえ無抵抗であっても攻撃の手を決して緩めることはない。




 それは、クロが護衛の任についた初日のこと、何故か毒素に強い耐性を持つメルルが、温厚なフォレストトータスを嬲り殺しにする光景は、今思い出しても正視に耐え難いものであった。また最近は魔物を見つけ次第、魔術で吹き飛ばすと言う行動を取ることが多い。




 たとえ魔物が人類の敵であるといえど、無害な魔物さえ一切の躊躇なく駆逐していく、その行いは、決して人道的とは呼べないであろう。勿論クロはメルルの危険性を本家に残るカゲに主張し、対策を求めたのだが、結果は『カゲの領分を超え、私情を挟むなど言語道断である』と、クロの主張は認められることは無かった。




(他のカゲはあてにならない、おそらくヴェルロード伯も、ならばいっそ俺の手で……)




 クロの思考が危険な色に染まろうとしていた頃、メルルが新たなる行動に出る。村に向かう道を外れ、森の中へと足を踏み入れたのだ。




「癖になってんだ音を殺して歩くの」




 とても歩くとは言えない速度で疾走しながらメルルが嘯くと、途端に彼女の存在が希薄になったように感じ足音が消える。


 信じがたいことであった。彼女は誰にも教わることもなく、特殊な訓練も積まずに、完璧に自身の気配を絶って見せたのだ。これも彼女の異常性の一つである。恐るべきことにメルルは、魔術や武技に、今のような完璧な技術を独学または感覚のみで習得しているのだ。




 クロは思う、何故、神はこんな精神異常者にこれほどまでに多くの優れた才能を与えたもうたのか、持つ者が持てば、多くの命を救うこともできるであろう力を何故、他者の命を奪うことしか能のないメルルなどに……。クロの眼に強い力が宿る、気配を絶ったメルルは、優れた実力を持つカゲであるクロをしても気を抜けば見逃してしまうのだが、それにしても必要以上に自身の双眸を鋭くしていることをクロは気づいていない。




 とても少女が走るような距離ではない距離を走り続けたメルルが、今日初めての獲物を発見する。




 スイーパーアントだ。森の掃除屋とも呼ばれる彼の魔物は、死肉や弱った魔物などを狙い複数で襲いかかり巣に持ち帰る習性を持つ。その習性を理解しているらしいメルルは、その場で這い蹲り、おぞましく、生理的嫌悪感を催すような動きで彼らの巣穴まで追跡する。




 どうやら殺戮に飢えているメルルは、巣に残るスイパーアントもろとも一網打尽にする心づもりであるらしい。




 理性ある狂気の所業のなんと恐ろしいことか、クロは湧き上がる恐怖感をこらえながらメルルの後を尾ける。やがて、スイパーアントの巣穴に辿り着いたメルルは己の欲望を満たせるのが、よほど嬉しいのか気味悪く微笑んで見せると、魔術の詠唱を始めた。




『喰らい喰らえ、巡り巡りこの世の円環となせ、全てを貪り蝕む毒蛇の王“哭死病の八岐大蛇ヴェノムエイト”』




 メルルのどす黒く深い業が解き放たれる。恐るべき点はこの魔術が、彼女の殺戮衝動の具現とも言えること。“哭死病の八岐大蛇ヴェノムエイト”なる魔術はこの世のどこにも存在しなかった。少なくともメルルの屋敷にある、どの魔導書にも記されてはいなかったのだ。




 つまりこの魔術は、彼女のオリジナルであるということになる。




 彼女の歪んだ欲望を満たすためだけに生み出されたと思わしき、この魔術は、恐ろしい殺傷能力を誇り。その威力は、出入口付近にいるスイパーアントを一瞬で蒸発させ、おそらくは巣穴の奥に潜む者もすべからく死に至らしめたことであろう。




 今彼等の巣穴に潜れば、大量の魔結晶を手に入れられるはずである。魔物の魔物である所以、魔結晶は魔物の体の一部であり魔力の塊だ。


 主な冒険者たちは魔導具の原材料になるこれを採取し、冒険者ギルドなどに売却して生計を立てている。しかし、メルルは今や宝の宝庫になっているであろう巣穴には見向きもしない。




 なぜなら彼女が求めているのは殺戮のみであり、その副産物になど、まるで興味を示さないからである。




「ふふふ、よし! きたきた。これでまた私はまた強くなった」




 メルルは希にではあるが、魔物を殺した後に満足げに微笑んでみせる。その微笑みに映るは暗い喜びの色。




 そして、彼女は『私はまた強くなった』と、つづけるのだった。




 クロが考えるに、メルルは他者を殺めることで、その魂を喰らい力を増していく魔性を秘めているのではないだろうか? 証拠などはないが事実、彼女は不毛に思える殺戮行動を繰り返す度に強くなっていく。その一連の流れに関係があるとすれば彼女の不可解な行動にも一用の説明がつくのだが……。




「……まるで、伝説の魔獣キマイラのようだ」




 クロの頭を邪悪なる魔獣の名前が過ぎる。“魔獣キマイラ”遥か昔、魔王が私役し、世界を絶望の底へと誘ったとされる三魔獣の一体。彼の魔獣は他者の血肉を喰らうことにより魂を奪い、力を増していったと言われている。オリシオン教会では魂とは不可侵にして神聖なものであるとされており。それに手を加えるというのは自他問わず最大級の禁忌である。




 もし、その事実が露呈した場合、異端者審問にかけられることもなく、問答無用で死罪とされている。仮に、メルルが他者を殺めることを条件に、他者の魂を得ることができるとするのならば、それはオリシオン教徒にとっては快楽殺人者以上の異端者となるのだ。




 今も恍惚の表情を浮かべ、殺戮の余韻に浸っているであろうメルルは明らかに快感に心狂わしている。それが殺戮そのものによるものか、それとも魂の味に舌鼓でも打っているのかは、クロにはわからないが、それが、どちらにせよ大変危険なものであるということだけは理解できた。






 ーー着の身着のままに食卓につくメルル。彼女のその行動は、凄惨な魔物狩りを抜きにしても貴族の令嬢にはあるまじき行いであるが、誰も窘めはしない。それは、皆、メルルのことが恐ろしく、彼女の顰蹙を買う事を恐れている事にほかならなかった。事実、失踪者まで出ている。




 メルルに対する恐怖心。それは、古くからヴェルロード家に仕えるセバスをしても同じである。しかし、他の使用人達とは違い、セバスはメルルの豹変ぶりに強く心痛めているのであった。




 今もメルルは急に嬉し気に表情を和らげたかと思うと、顔を赤らめたり、泣きそうになったりと情緒不安定だ。




 カゲからの報告も踏まえると、彼女の精神が相当に病んでいることは明らかであった。たまらず、セバスはメルルに労りの声をかける。




「……お嬢様、大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫。別になんともないから」




 本当になんでもないかのように振舞うメルルであるが、その表情の奥に隠された憂いの色をセバスは敏感に感じとっていた。カゲからの報告によるとメルルは魂に干渉する邪術にまで、手を染めている疑いがあるらしい。




(何が、お嬢様をそこまで追い詰めたのか?)




 本当はセバスの中で、既に答えは出ている。生まれながらに母と死別し、父からは疎まれ、重大な病を抱え、死を待つだけの日々、彼女が運命を呪うには十分すぎる境遇であった。ただ、セバスは自分が側にいながら彼女の心を救えなかったことを、受け入れられないでいるだけなのだ。セバスは自身の傲慢な想いに気づいてはいない。






 朝食を食べ終えたメルルは再び外へと出ると、剣修羅の異名で恐れられた剣士、ベクター・ヴァイルハイトと落ち合い、いつものように修行を開始する。




 今から彼女が行うのは、初心者から蔵人まで幅広くの剣士が重用する伝統的な修行法、影切と呼ばれるもの。しかし、彼女の影切りは、凡百の者の影切りとは一線を画す。驚異的な集中力により可能になるそれは、“影”を第三者に幻視させる。


 メルルの師匠であるベクターですら影切りをここまでの練度で行うことは不可能であり、メルルが見せる幻影はベクターそのものである。ベクターはこの光景を目にする度に肌が粟立つのを感じるのであった。




 いつかメルルが、幻影を切り裂いた時、それは現実でも同じことが可能であると、ベクターは確信しているのだ。




(なんと素晴らしいことか、もはや諦めていた私の理想の最後は、この少女が叶えてくれることであろう)




 ベクターは歓喜に打ち震え神に感謝する。老が自身の全てを奪い去ってしまうギリギリにメルルに出会えたこと、そして、彼女の異常な成長速度ならなんとか間に合いそうだということが、ただ、徒々嬉しかったのだ。




(しかし、まだ甘い。まだ青い、完成は近いがまだ不十分)




 メルルが今一歩踏み込めずに、幻影に押し込められてしまう。それから数合打ち合うが、いまいち精彩を欠いてしまったそれにベクターは待ったをかけた。そして、先程の影切りについての講釈を始める。




「ーー恐怖を感じないのは血に狂った魔物ぐらいのものですよ」


(そう、初めて出会った貴女は正に血に狂った魔物そのものでした)




 本音を表情には出さず、音にも乗せずベクターは初めてメルルと出会った日のことに思いを馳せる。




 なんてことはない、初めは徒の好奇心だった。七歳にして武技を操り、王宮指南役にもつく剣帝流の師範代の心をへし折り、引退したとはいえ、元A級冒険者を半死半生に追いやった少女に興味が湧いたのだ。


 最後に弟子でもとって、生きた証でも残そうかと耄碌した自分に疑問も抱かずに、ノコノコとメルルの元へとやってきた。本来なら自分の息子にでも技を託すべきなのであろうが、ベクターの息子は剣に生きるには脆すぎる。息子に剣を教えず学問に生きるように諭したのは彼の唯一の父親らしい優しさであった。




 メルルを目にし、ベクターは自分がいかに耄碌していたかを覚った。目の前にいる少女はまるでけだものように剥き出しの殺気を送りつけ、まるで品定めでもするかのようにこちらを観察してくると、こともなげに「一本お付き合い願えますか?」と、殺気を隠すこともなく申し出てきたのだ。




 この時、ベクターも全力の剣気を送り答えたのだが、少女は舌舐りをすると、いきなり武技を仕掛けて来きた。ベクター程の達人が放つ剣気は、型を必要としない一種の武技であり、魔物ですら萎縮させてしまうのだが、それをまるで意に返さないかのような踏み込み、そして、放たれようとしている必殺の気迫のこもった武技。




 気がついたとき、ベクターは少女の手から、武器を奪い、顎に全力の一撃を見舞っていたのだ。




 本来なら武器を奪い足を掛け、転ばす程度におさめるはずのつもりであったのにもかかわらずの反射的行動、殺らねば、殺られると、意図せず防衛本能が働いた結果の出来事。ベクターは頬を流れる冷や汗を拭い、あるいは、この少女なら年老いゆく自分の最後の願いを叶えてくれるのではないかと期待を寄せるのであった。




 狂った魔物の如き少女との出会いにベクターが、思いを馳せていると。恐る恐る、ベクターの反応を探るかのような調子で、メルルが問いかけてきた。




「……それは、先生も恐れを抱くことがあるということですか?」


「はは、もちろんですよ。私も恐怖を抱きながら生きる、普通の人間なので」


(今もそう、貴女の紅い瞳に私の姿が映るだけで、肌が泡立ちそうだ)




 メルルは、何かに期待するように、やや釣り目がちな紅い大きな双眸を見開きながらベクターの話に聞き入る。赤よりもなお紅い、真紅の瞳。メルルの瞳は、最上級の紅玉の如く美しく、見た者の心を捕える妖しい煌きを放っている。




 これは比喩などではなく、彼女の瞳には強い魔性が宿っているためにほかならない。




 魔物が身体のどこかに魔力結晶を持つように、人間も身体の一部に魔力を宿すことがある。一番多いのが、心臓、次に瞳。または、男性なら髭、女性ならば髪にそれぞれ魔力を宿しやすいとされている。


 特に瞳に魔力が宿る場合、それ自体が魔術的な効果を発揮することがあり、それを魔眼と呼ぶ。メルルの場合、今のところ指向性もなく、彼女自身、自覚していないため魔眼と呼ぶには少々お粗末であるが、宿す魔力は質、量、共に最高レベルであるため、その瞳は見た者の彼女の印象に大きな影響を与える。




 しかし、指向性を欠くそれは、見るもの次第で全く違うものになる。ベクターはその目を、飢えた猛禽類のようだな、などと思いながらも話を続ける。




「必要なのは恐怖を無くすことではないのですよ? 恐怖と向き合い上手くコントロールすることが大切なのです。そうすることにより、より危険や脅威に対する鋭敏な反応が可能となり、戦いを制することができるようになるのです」




 これは、ベクターの持論であるが、


 ーー魔物は生まれながらに強い。それに比べ人は、あまりに脆く、弱い。しかし、人は魔物を殺し、文明を築き上げ繁栄の歴史を歩んできた。それは何故か? 弱者にんげん強者まものに何故、勝てるのか? それは人が恐怖に敏感な、臆病な生き物だからだ。




 闇が怖いから灯を、寒さが怖いから家を、獣が恐ろしいから群れを作る。強者が怖いなら、それよりも強くなろう。強者が恐ろしいなら殺してしまおう。そうすれば、己等こそが結果的に強者になり得る。




 臆病な人類は武器を持った、戦う術を考えた。そうやって恐怖に対する数々の対策を立て、対抗してきた。原初の本能の一つ、恐れ。それに他の何者よりも敏感に、的確に対処してきたからこそ人は万物の霊長なりえたのだ。だから人は結果として魔物より強くなった。




 ならば、もしも、恐怖を学び、人のように考え、強くなっていく魔物がいたなら? 答えは簡単だ。それは、最強である。




 ベクターは結論を出した。剣術を学んだ魔物メルルこそが最強足り得る存在であると、最強を育て、最強に剣を突き立て、最強の前に散る。自身が育んできた技を使う者が最強であるのなら、その技もまた然り。彼は、常人には理解し難い愉悦に表情を歪ませる。




 やはり、師弟とは似るものなのであろう。ベクターの凶相にメルルは満足気な笑みを返す。今この場は、剣闘に心狂わした師弟のみが心通わせる、一種の異次元と化していた。




「メルル様、メルル様」


 とても、穏やかとは言い難い静寂にベクターは一石を投じた。


「え? ああ、すいませんついぼーとしてしまって」


「大丈夫ですか? 体調が悪いようでしたら今日はこのへんで……」




 一見、メルルの体調を気遣うような言葉であるが、事実は違う。ベクターは彼女が体調を崩すような、軟弱な肉体の持ち主ではないとよく理解していた。また、こう言えば彼女がより奮い立つとも。




「いえ、大丈夫です! 私はまだやれます!」


「そうですか、ならいつものように実践訓練を始めましょうか」


「はい!」




 より実践に近い訓練が開始される。真剣を用いないとはいえ、使用されるのは獣の皮で包んだだけの木刀、十分に人を殺せる武器である。とても貴族の令嬢が行うようなものではない。しかし、メルル自身からは不満などは出ていない。




 それどころか打ち据えられる時すらも、どこか嬉しげである。この事実を彼女のカゲであるクロは気味悪く思っているのだが、ベクターは喜ばしく感じていた。サドフィストでありマゾヒストであるというのは、彼の提唱する最強論には欠かせない要素であるからだ。




 ベクターの放った武技が、メルルの体制を大きく崩し、彼の木刀が、彼女の白く細い首筋に突き立てられると、悔しそうにメルルは自分の敗北を宣言する。




「……参りました」


「もう、やめますか?」


「いえ、もう一本お願いします」




 メルルは何度でも立ち上がる。決して心折れることはない。常人には理解できないだろう、何が、彼女をそこまで奮い立たせるのか? 何故、そこまで自分を追い込めるのか? しかし、ベクターだけは彼女の行動理念に答えを出した。




 他人を痛めつけ喜び、他人に痛めつけられ喜ぶ、彼女は最強になるために生まれた変態的天才、メルル・S・ヴェルロードなのだからと、ベクターは理解しているのである。








 ーー心折れずとも、肉体は限界を迎える。精神と肉体はイコールではないのだから。やがて、メルルは立つこともままならないほど、消耗し、本日の訓練の終了をベクターに伝える。




 メルルは、しばらくの間、地面に大の字で転がっていたが、人間離れした回復力を発揮し十分もすれば立ち上がり、確かな足取りで食卓に着く。すると、何事もなかったかのように大人二人分ほどの食事をとる。昼食をとり終えると、やはり何事もなかったかのように、書庫に向かい魔道書を読みあさる。




 日によってはここから魔物狩りに向かうこともあるので、彼女にとっては本当に何事も無かったのと変わらないのであろう。




 規則的に、業務的に、淡々と代わり映えのしない日々を過ごしているように見えるメルルであるが、少女らしく年相応に振舞うこともある。それは、夕食を食べ終えたあとの執事とのやり取りであった。




「お嬢様、旦那様よりお手紙が届いておりますよ」


「ほんとに? やったー!」




 全身で喜びを表現したメルルは、待ちきれないとばかりに手紙を胸に抱き、足早に自室に向かうと、すぐに封を切り中身を読み始めた。




 手紙の内容はメルルの才能の開花を催促するようなものであるのだが、彼女は本当に楽しそうに目を通していく。そして、一通り、手紙の内容を読み終えると彼女は一息つき、天井に目を向ける。




 『気のせいだろう、気のせいだ、そんなはずがない』




 そう、自分に言い聞かせることしかクロには出来なかった。


 この時、クロは、確かに“メルルと目が合っていた”。




 ただの勘違いだと済まし、視線を早く外してしまいたかった。しかし、彼女の紅い瞳はクロを捉えて離さない。そして、次の瞬間、彼は絶望を知ることとなる。




 メルルの表情が歪に歪む。




 何かを待ち焦がれているかのようなその表情は、まるで、新しい玩具を前にした幼子のようで、ただ、純粋に笑みを湛えていた。その笑みは、明らかにクロに対するものであり、彼を戦慄させるには十分であった。




(こちらの、存在に気づいていたとでも? なら、今までの殺戮も……)




 クロは自分の推測に答えを出すと、せり上がってくる吐き気を抑えるのに精一杯であった。メルルは、見られていると知りながら、いや、あえて見せるために、あそこまでの残虐な殺戮を行っていたのだ。クロの心を摩耗させ、必死に足掻くさまを楽しむために。




 “邪悪”




 この世に決して相容れない邪悪があるとすれば、それは銀色の髪に真紅の瞳をしている少女の事に違いないと、クロは思った。




 そして、新たな事に気づいた。何故、このタイミングで、メルルがカゲの存在に気がついていると知らしてきた事の意味についてである。クロはメルルが先程まで読んでいた手紙の内容を知っている。


 その手紙には『とても驚くことを用意している』と、書いてあるが、それはおそらく祝福の儀のことである。メルルがどのようにして、その答えを出したのかは不明であるが、メルルの様子から祝福の儀で何かをしでかそうとしているのはほぼ間違いないだろう。




 祝福の儀でメルルが何をしようとしているのかはわからない。しかし、何かが起こる。




 彼女の笑みがとても不吉なものに思えたクロは、痛みを堪えるように歯を食いしばるのであった。










~~おまけ・次回予告~~




 ーーいつになく騒がしい日となった。




 奇跡の神子が、聖都フォレスローザに来訪すると、静かな街は、蜂の巣をつついたような喧騒に包まれた。噂が噂を呼び、一目その麗しい少女を目にしようと人集りがつくられる。




 彼女はただ、ひたすらに美しかった。


 彼女が視線を向けると、老人は拝み、祈りを捧げる。


 彼女が物憂げに息を吐くだけで、年頃の男児は呼吸すらも忘れ見惚れてしまう。


 彼女が手を振れば、幼い女子が恥じらい、頬を朱に染め上げる。


 彼女の美しさは、フォレスローザの人々を瞬く間の内に魅了してしまったのである。






 ーーヴェルロード伯は一瞬、死を覚悟した。




 彼が生まれて初めて感じた死の気配は、他でもない愛娘から齎されたものである。


 彼女が立っていた場所に目を向けると、石畳に確かに残る靴底の焦げ付いた痕。


 彼は顔を青くし、冷や汗を流す。


 彼が異常なまでの成長を遂げた娘に、感じるは恐怖と歓喜。


 彼は震える指で我が子の頭を撫でるのに酷く苦心した。






 ーー少女はこう切り出した。




『傲り、踊る愚者の狂宴、謀り、蔓る背信の凶淵。憂き世に救済の裁きをもちて、神の威光を示さん』




 そして、少女より、放たれた閃光は、




“フォレスローザの空を割った”




 これが、俗に言う聖少女伝説の始まりである。




 次回・第一話《 ☆・魔術少女ミラクルメルル!☆ 》






 P.S.次回予告は大体合ってます。




 

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