第6話 心は目には見えない
場面緘黙症は不安症の一種と言われている。心の問題は、当たり前だけど目には見えないから、その大きさや形も可視化できないし、数値化して測定することもできない。
人それぞれ感じ方は違う。受け取り方も違う。
例えば、同じ出来事が起きて、同じストレスを受けた人がいたとしても、十人いれば十人の受け取り方があるだろう。そのストレスを重いと感じる人もいれば、ストレスとも感じない人もいるかもしれない。
たとえば、そろばんの試験で落ちたときに(例がおかしくてごめんなさい…)
「次がんばればいいやー」と全く気にしない子と
「どうしよう、あんなに頑張ったのに、私は出来損ないだ」と深刻に受け止めすぎて、落ち込む子がいるかもしれない。受け取り方は人それぞれということだ。
心の問題は他人と比較できるものではない、とても主観的なものだ。
心の不調が続くと「頭痛」「身体のだるさ」「起き上がれない」「不眠」など、身体症状に出たり、或いは全く別の病気として表れたりするかもしれない。身体にその症状が出たことにより、心が辛くて我慢していたことに気付く場合もあるだろう。
「不登校」や「会社に行きたくない」など実際の行動に表れた場合は、その度合いによって大変さを推し量ることができるかもしれない。
私の場合は表面的に見える部分は「話せない」という症状が出ていた。
このように「話せない」というような目に見えて確認できる身体症状があったので、後から振り返ってみて、あの時はそれほどに不安を感じていたのだということを自分なりに認めることができる。
もしこのような目に見える症状が特になければ、あの時は内向的な性格で生きづらかったなーというだけで終わるのだろうと思う。
何が言いたいかというと、心の問題において何らかの形で身体症状が出るということは、メッセージやサインという意味で、周りの人に気付いてもらいやすくて、自分自身でも何とかしないと、と思うきっかけになるということだ。身体の不調はイヤなものだけど、ある意味「お知らせ」という側面がある。
心と身体は密接に繋がっているからね。
『病は気から』というように、気持ちが弱ってしまうと、身体が不調になる。逆に身体を整えていないと、心も不調になってしまうこともある。
身体も心もバランスよくどっちも大事にしないとですね。
*
私は「話せない」という身体症状が出ていた時、どんな不安症状があったのかというと、【自分を表現すること】が怖かった。
自分を知られるのが怖かった。自分の発したものに対する人からの反応が怖かった。極端に自分に自信がなかったので、何か余計な言葉を発して、後から後悔するぐらいなら、最初から何も言わない方がいいと思っていた。
自分の心を押し殺してまくって生きていた。感情を抑圧していた。表情も出さないから無表情だったと思う。
小学生の頃は、自分が何に不安を感じていたかを言語化することはできなかった。それに、不安を感じている、という自覚もなかった。
学校などでは、声を出そうとすると喉が締め付けられるように感じ、声が出なかった。自覚できたのは、自分は学校ではなぜかいつも緊張してしまう、ということぐらいだった。
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