第57話 幼少期編57 王族辺境訪問29
肉を断つ感触というのは多彩である。
男、女、子供、老人。人だけでもその肉質は異なり、手に伝わる感覚もまた変化するだろう。
だが、何事にも限度というものがある。
「……は?」
嬉々として、グレイズラッドへと振り下ろした一撃はあまりにもあっけなくその勢いを失った。
響き渡るは金属同士を打ち付けたかのような硬い音。
柔らかく沈み込むはずだった騎士剣は、押せどぴくりとも動くことはない。
がら空きの胴体へと繰り出したはずの斬撃は、その体を傷つけることなく完全に静止していた。
手に伝わるのは、まるで大岩へと剣を叩きつけたような感覚である。
そのあまりにも信じがたい手ごたえに、ルーカスは動揺を隠すことができなかった。
思わず剣を引こうと力を入れて、ルーカスは気が付いた。
自身の剣が全くびくともしない。
「っ」
ルーカスは思考よりも早く、その場から飛びさすった。
グレイズラッドに突き立った剣は、ルーカスが手を放しても動くことはなく。不自然にその姿を維持していた。
異質すぎる様相。ルーカスの緊張が増す。
そして、ルーカスは更なる異常に気が付いた。
この場が異様なほど、
ルーカスの体感は正しかった。
騎士剣の表面に霜が付着している。剣先から伝う薄氷は、瞬く間にルーカスの騎士剣を覆いつくした。
その現象は剣だけに留まらない。
周囲の雨が氷塊へと姿を変えていく。グレイズラッドの周りを細やかな氷晶が舞うのをルーカスは見た。
「……氷の、魔術……?」
ルーカスの理解が追い付かない。
グレイズラッドは魔術が使えないのではなかったのか。
仮に使えたとして、彼は風の属性を発現させていたのではなかったのか。
ルーカスは自身が知るグレイズラッドの情報を反芻する。しかし、当然ながら答えてくれる者はいない。
焦燥と共に冷たい汗がルーカスの背筋を伝った。
そんなルーカスを、グレイズラッドは静かに見つめていた。
薄暗い森に浮かぶ黄金の双眸。
化け物の証たる瞳の揺らめきが、ルーカスにはより一層不気味に映った。
「……っ」
妖しい黄金から、ルーカスは目を背くことができない。
目を離せば、死ぬ。
何故だか漠然とそう感じた。
それはグレイズラッドへの怖れが生んだ、錯覚だったのかもしれない。
だが、恐怖は焦燥を生み。焦燥はルーカスの思考力を奪っていった。
そして視界が暗黒に染まり、ルーカスの心が落ちくぼんで、闇に取り込まれて――。
その時、全身の毛が逆立つような感覚がルーカスを襲った。
戦場における勘が、全霊の警告を発している。
思考に纏う靄を振り払うようにルーカスは叫んだ。
「光魔術<雄大なる心>」
言葉は力となってルーカスを包む。神殿騎士の多くが有する光の魔術特性。
その中でも一般的な、自身を鼓舞する魔術。それが光魔術<雄大なる心>
ルーカスの精神を蝕んでいた恐慌が、幾分か和らいでいく。
光が生み出す高揚感。
沸き立つ心のままに、ルーカスはグレイズラッドへと突貫した。
予備の剣を抜き放ち、正確に放たれる一撃は神速の如く。
鍛え抜かれた体躯から放たれる剣閃はしかし。
またしても、硬質な感触と共に受け止められた。グレイズラッドはルーカスの剣に目を向けてすらいない。それなのに、彼は容易く、まるで赤子の手を捻るように、ルーカスの剣を受け止めていた。その事実が、なおさらにルーカスの矜持に傷をつけている。
ルーカスの剣を防いでいるのは、ともすれば見逃すほどに薄い氷の壁だった。
ルーカスは自身の頬が引き攣るのを感じていた。
氷の壁で剣を防ぐ。一見簡単そうだが、その実は違う。氷を生成したとて、剣を防ぐほどの硬度にするには緻密な魔力操作と膨大な魔力を必要とする。ルーカスの斬撃を防ぐとなれば、その要求難度は格段に高くなるのだ。
それを風に吹かれれば崩れそうなほどに薄い氷壁でグレイズラッドは行っている。まさしく理解しがたい芸当だった。最上位の魔術であっても、このようなことは不可能だろう。それほどに彼の魔術は人離れしている。
「こんなこと、ありえないでしょう!?」
戦慄と共に叫ぶルーカスはもはや確信していた。
グレイズラッドは化け物だ。
知能だけではない。剣の腕は大人顔負け。さらには、剣が霞むほどの力を。黄金の目に恥じぬ人外の力を、かの忌み子は持っていた。
教会も、国も知らないのだろう。
まさか忌み子が。宮廷魔術師に比肩、あるいはそれを超えうる魔術の腕を有しているなど。
やはり金眼は化け物だった。ルーカスの考えに、ルーカスの信じる教えに間違いはなかった。
ならばこそ。このような存在をルーカスは許すわけにはいかない。
人の世界に化け物は必要ないのだから。
「カーリナ! そして
そこまで叫びかけて、またしてもルーカスは異常に気が付いた。
騎士が駆ける音も、土砂を踏む音も、鎧が擦れる音も、何1つとして聞こえてこなかったから。
強烈な違和感に駆られて、周囲を見渡したルーカスは目を見開いた。
カーリナ、そして
ピクリとも動かないものもいれば、時折呻き声をあげる者もいる。
だが、誰一人として無事な者はいない。
思わず総毛立つ。
何があった。この一瞬の間に何があった。
呆然とするルーカスに声をかけたのはグレイズラッドだった。
爛々とした瞳を隠すこともなく、彼は淡々と、平常にルーカスへと語り掛ける。
「彼女達には寝てもらいました。まぁ、僕がやったわけじゃないんですけど……」
「……寝ている、ですか……?」
「むしろ、あなたが寝ていないことの方が不思議なんですけど……」
不思議そうに首を傾げるグレイズラッド。その様子があまりにもいつも通りで、それが逆に恐ろしい。言葉を失うルーカスを気にすることなく、グレイズラッドが続ける。
「……はい? ああ、手加減しすぎたんですか? ……えっと、いいですけど。……殺さないでくださいね、ほんとに」
虚空へと話しかけるグレイズラッド。明らかに「誰か」と話している様子なのに、その存在がルーカスには見えない。何も見えない。それがルーカスの恐怖を駆り立てる。
何と話している。
お前には何が見えている?
その黄金の瞳には、何が映っている?
既にルーカスに戦意はなかった。
あるのはグレイズラッド、そして未知への恐怖。ただそれだけ。
何かへと声をかけるグレイズラッド。その周囲が暗く淀んだ気がした。
その直後。
脳天を殴られたような圧がルーカスを襲った。
尋常ではない重圧。本能が死を警告している。
ただ漠然とルーカスは察知した。そこに何かがいる。人知を超えた化け物が、そこにいる。
グレイズラッドの傍ら。何も見えないはずの空間に。
「ひっ」
気が付けば、ルーカスは逃げ出していた。
本能の警鐘に従って、ルーカスは全力でグレイズラッドから逃亡した。
「あ」
虚を突かれたグレイズラッドが固まっている。
その隙を逃さず、ルーカスは走った。
走って。走って。走って。
全力で走ったせいで胸が痛い。呼吸も苦しい、だが、言いようもない重圧がルーカスの体を突き動かす。
木々の隙間を縫い、目指すは森の外。止まれば死ぬ。その一心でルーカスは走って。
走って。
――どれくらい走っただろうか。
ふと足を止めた。
体は呼吸を欲していた。肩で息をしながら、ルーカスは背後を見やる。
そこにはどこまでも続く木々しかない。グレイズラッドの姿はない。
あの化け物からは逃げ切れたのだろうか。
そんなことを考えて、ルーカスは少しばかり安堵した。
そして安堵したルーカスは再び正面を振り向いて――。
絶望した。
「な、な、な――」
声にならない悲鳴がルーカスの口から漏れた。
それもそうだろう。
なにせ、ルーカスの目の前に。
グレイズラッドがいたのだから。
黄金の瞳に射抜かれて、ルーカスの恐怖はいよいよ臨界点に達していた。
「ひっ」
逃げる。逃げる。
逃げ惑う。
しかし、逃げた先には――またしてもグレイズラッドがいた。
なんなのだ。なんなのだ。こいつは。
恐慌状態のルーカスは正常な判断ができない。
ただ、逃げて、逃げて。
――うふふふふふ。
艶やかな女の声が風に溶ける。
ルーカスは気が付かない。気が付けない。
闇の大精霊の幻惑からは逃れられないのだから。
目の前で倒れ伏すルーカスを見て僕はほっと息を吐いた。
というのも、やはり僕としては殺さずに彼を無力化したかったから。
別にルーカスに対する同情からそんなことを言っているわけじゃない。
ルーカスは
つまり王国や<英雄教>にとっての重要人物である。下手に僕が殺してしまうと、要らぬ問題を生む可能性があった。
ルーカスにはしっかりとこの事件の犯人になってもらわないといけないのだ。
アリシアの一声があるとはいえ、事件のけじめをつける上でルーカスの生存は割と重要である。
「うふふ、やはり夢と言えば悪夢ですわよねぇ」
「……」
隣で楽しそうに微笑む闇の大精霊に関しては、僕は見なかったことにする。
ヤミの精霊術は精神に異常をきたすようなものが多いらしいから、真の意味で彼が無事でいられるかは不明である。
他の騎士団の人たちも悪夢に魘されているらしい。そこかしこから、うめき声が聞こえてくる。端的に地獄のような光景である。その中でも、一際にルーカスが苦しそうなのは、ヤミが念入りに虐めているからだろうか。
…………うん、考えるのを止めよう。
僕は思考を放棄すると、アリシアへと視線を向けた。
虚ろな瞳に生気はない。息はあるが、微弱で。浅くて速い。雨に濡れた四肢は冷たい。
かなり衰弱している。
僕は腕をまくると、アリシアへと右手を向けた。
「アイ、もう少しだけ力を貸してほしい」
僕のお願いに頷いたアイが、手の甲に触れた。
藍色の魔力が僕の魔力と混じり溶けて、僕の手掌を染める。
使う奇跡は癒しの秘術。
意外かもしれないが、魔術や精霊術の界隈において、医術や回復術は水属性が主である。
理由はわからないけど、身体の多くは水分だから干渉しやすいのではないかと僕は勝手に考えていた。
また、体を癒すのは水属性である一方で、
故に医師としての側面を持つ聖職者の多くは、<光>あるいは<水>の属性を持つ者が多い。
かつて僕を診てくれた神官も、この2つの属性の人たちだったし。
藍色の魔力が輝きを増す。幾何学の模様がいつものように光芒を発すると、術は意味を成してこの世に現界した。
【
溢れ出でる水色の波動がアリシアを包み込むと、彼女の体内を循環する。病的なほどに白かった肌が幾分が温かくなり、その色を取り戻していく。しばらくすると、アリシアの顔色は見るからによくなった。
彼女の瞼を閉じてやると、ほどなくして安らかな吐息が聞こえてきた。
どうやら、疲れて眠ってしまったらしい。
僕はアリシアを横抱きに抱える。
すると。
「ご主人様、ご無事ですか!」
今度は鈴の音を転がしたような声音が耳朶を打った。
シラユキだ。
ピンと張った耳は毅然としているけど、白尾は落ち着きなく揺れている。
その顔はどこか得意げで、すっきりとしていて。僕は、彼女が求めていることを瞬時に理解した。
「ああ、なんとかね。シラユキがいなかったら大変だった。よくやってくれたね」
「もったいなきお言葉、大変恐縮です」
僕がシラユキを労わると、シラユキが畏まってお辞儀した。その顔はすまし顔である。
でも、彼女の尻尾は正直だった。現に彼女の尻尾はぶんぶんと振り回されている。その様子を表現するなら「荒れ狂う」が適切な表現だろう。尻尾、痛くないのかな。
あとは、返り血がわりと多くてちょっとホラーだった。
その猟奇さと愛らしさの何とも言えない調和に僕は苦笑して。
ふと、空を見上げた。
木の葉隙間から、宵闇の空が垣間見える。
曇天は消え、隠れていた星々が姿を現していた。
煌々とした月が、残った細氷を照らしては、まるで宝石のように虹彩を放った。
いつの間にか、雨は止んでいた。
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