第35話 クリスの事情②
クリスと俺を乗せた馬車は、アバロンを出発した。
彼女は言葉少なに、ゆっくりと流れる景色を見ている。
俺も特に話すべきことはなく、彼女の横顔をぼんやりと見ていた。
少しずつアバロンの街が遠ざかり、村の畑や果樹園が目に入る。
多くの村人が、農作業に勤しんでいた。
さらに馬車は進み、辺りは森に囲まれる。
長く続く森の景色は、その中にいる魔物の姿を覆い隠して広がっている。
しかしクリスには、その気配が鋭敏に伝わっているのだろう。
やがて。
空が暗くなり、ポツリ、ポツリと、雨が降り始めた。
……雨か。
クリスと組んだクエストで、雨は一度もなかった。
雨は、どうだろうか。
クリスの動きに影響しないか。
「クリス、この雨は大丈夫なのか?」
彼女は景色から視線を外し、俺の方を見て言った。
「問題ない。むしろ好都合だ。
雨だと匂いが薄れる。
やつがどうやってこちらを認識しているか分からないが、情報は少ないに越したことはないだろう」
クリスと目が合う。
相変わらず、綺麗な瞳の色だ。
とても澄んだ、カナリヤ色の瞳。
初めて出会った時に、この瞳を俺は信じた。
その判断は、間違ってなかった。
クリスは良くも悪くも、真っ直ぐなやつだった。
雨の中、馬車はつつがなく走り、目的の村へと到着した。
―――――
「さて、ここからは徒歩だ。少し険しい道も通る。
ここで一度休ませてもらおう」
村の門の下で雨宿りしつつ、持ってきた食事を取った。
クリスは弁当を用意していた。
俺はいつものパンとカシーだ。
食べた後しばらく休んでから、歩き始める。
2時間ほどの道のりだ。
ちょうど、サンドラ村からクレタの街くらいの距離か。
鎧を着ている分、少しばかり体力の消耗は激しいが。
黙々と歩く。
最初は道の上を歩き、途中で逸れた。
進んでいくと森にぶつかり、その中へ入っていく。
しばらく森を歩くと、湖があった。
「……この湖のそばに出るという、ポイズンリザードを狩りに来ていたんだ。あの時は」
湖畔を歩きながら、クリスが独り言のように言った。
6年前か。
「こんな道を、よく生きて帰ってこられたな。
キマイラが追ってこなかったにしても、子ども1人で通るにしては険しすぎるだろう」
「私には、魔物の気配が分かったからな。
恐らく、魔物との遭遇を避けながら歩くことができたんだろう」
「恐らく?」
「ああ。あの時のことは覚えてないんだ。
走り出して、気づけば、アバロンの家にいた」
「……そうか」
そこで、会話は途切れた。
しばらく2人で、黙々と歩いた。
しかしふと見ると、クリスの顔に暗い影が宿っていた。
一歩踏み出すごとに、影が深みを増していく。
そして彼女はついに、これまでに見せたことがないほど暗鬱な表情になった。
……一体どうしたというのだろうか?
不意に、クリスが話の続きを始めた。
「帰り道のことは、覚えていない。
だが……それなのに。
両親を見捨てて逃げた時のことは、鮮明に覚えている。
両親と共に戦うことなど考えず。
恐怖に駆られて逃げ出した、あの瞬間のことは」
――ピタリと。
クリスが立ち止まる。
「……そうか。
そうだったんだ。
確かに、母は逃げろと言っていた。
私は今まで、その言葉に従ったつもりでいた。
……だが、本当は違ったんだ。
もしも、逃げるなと言われていても、私は逃げていた。
やつに立ち向かうことなど、まるで考えていなかった。
生き残りたい。
それだけだった」
押し殺したような声だった。
「私は……そんな自分が、許せなかったんだ」
そう言って、クリスは天を仰いだ。
雨粒が、クリスの顔に落ちては弾けていく。
……ほう。
彼女が逃げたのは、母親の言葉に従ったからではなかったらしい。
彼女は自分が助かりたいがために、逃げ出したのだという。
なるほど、恐らくその事実こそが、彼女をこれまで苦しめた原因なのだろう。
もしかしたら俺を助けてくれたのも、どこまでも真っ直ぐな性格も。
無意識にその過去を覆い隠そうとしていたからなのかもしれない。
もしくは、その贖罪のためか。
……つまり、この復讐は、動機が違った。
キマイラに両親を殺されたことで、キマイラを恨んでいるんじゃない。
キマイラから逃げた自分を克服するために、キマイラを殺そうとしているのだ。
クリスが、振り返って言った。
「すまない。ハジメ。
直前になって、こんなことを。
今になって気づいた。
私は、やつを許せないんじゃない。
私が許せなかったのは、自分自身だった。
君を助けたのも、ただ自分の後ろめたさから目を背けるためだったんだ。
だから、君は恩なんて感じる必要はなかった。
それなのに、ハジメの優しさにつけ込んで。
その命を危険に晒して。
自己満足の復讐に付き合わせるなんて」
見ると、クリスの目には涙が溜まっていた。
「心底、自分が嫌になった。
……ごめんなさい。ハジメ。
今更、気づいたの。
ごめんなさい。
もう、あなたは大丈夫。
ここからは、私ひとりで行くから。
ごめんなさい」
最後には消え入りそうな声になってそれだけ言うと。
クリスは前を向き、歩き始めた。
――何? え?
だからって、俺を置いていくつもりなのか?
ちょっと。
「待てよ」
思ったよりも、硬い声が出た。
俺の声に、ビクッと身体を震わせ、立ち止まるクリス。
その背中は、普段の頼もしさからは想像もつかないほど弱く、儚げに見えた。
全くコイツは、何も分かっていない。
このままでは、一生分からないのだろう。
誰かが言ってやらなければ。
……こんなことは柄じゃない。
柄じゃないが、どうやらそれを伝える役者は、俺しかいないようだ。
意を決して、俺は口を開いた。
「何突然語り出して、俺を放り出そうとしてるんだ。
こっちは何一つ納得できてないぞ。
――我が身可愛さに逃げ出した?
――それを忘れるための、自己満足のための復讐だった?
――それに俺を付き合わせてしまった?
――そのことに、今頃気づいた?
そんなの全部な、知ったこっちゃないんだよ」
クリスは背中を向けたまま、うつむいている。
「……いいか?
俺が君に、君の復讐に協力しようと決めてるのは、君の行動の結果なんだ。
例えどんな理由だろうと、俺は初めて会ったあの時に、君を信じると決めた。
それはクリスを、君が許せないと言う君自身を、俺は信じられると思ったからだ。
でなけりゃ、命を救われたって、もう一度その命を賭けられなんかしないよ」
雨が一段と強く降り、木々の葉を揺らした。
その音に負けないように、できるだけはっきりと伝える。
「自己満足だろうと構わない。
それでクリスが救われるんなら。
そのために命を張ると、そう決めてここまでやってきたんだよ、俺は。
つまり俺にとってはクリスの動機の違いなんて、些細な問題なんだ。
……だから、なぁ、一緒に行かせてくれ。
ここまで一緒にやってきたのに。
勘違いしてた自分がちょっと恥ずかしいからって、突然放り出すなんて……あんまりだろ?」
クリスは背中を向けたまま、動こうとしない。
よく見ると、肩が震えている。
そのまま、少し沈黙が続いた。
雨は容赦なく降り続け、俺とクリスの体を濡らす。
このまま動かないと、冷えきってしまいそうだ。
やがて小さな声で、クリスが言った。
「……本当に?」
「ん?」
「本当に、手伝ってくれるの?」
「ああ」
「こんな、自分のことしか考えてない、その自分のことすら、見たくない所から目を背けてた、馬鹿な私を?」
「ああ。そんな馬鹿なクリスをだ」
「なんで……」
「なんでってそりゃ……そうだな。
君が、どうしようもなく、真っ直ぐだからかな。
本音の動機なんて言わなきゃ俺は分からないのに、気づいたら言わずにはいられない所とか。
目を背けてるくせに忘れられなくて、克服するために精一杯頑張って、他人の俺を助けてくれるところとか」
初めて会った時のことを、思い出しながら言う。
「例えきっかけがどうだって、それだけずっと正しくあれるなら、それはもうクリス自身だと思う。
もし俺にそんな過去があったら、きっとそれに囚われて何もできないままだったよ。
何もせずにボンヤリ一生を終えるか、非行にでも走ったろうと思う。
でもクリスは、そうじゃなかった。
……俺から見たクリスは、自分の過去としっかり向き合ってて、他人を想いやれる、どこまでも真っ直ぐな、優しい女の子だよ」
言ってから赤面してしまう。
……キザ過ぎた。
「だ、だからさ、さっさとキマイラをぶっ殺して、いつものバーで乾杯しようぜ。やつの肉でもツマミにしてさ」
あわてて付け足すが、なんか空回りした感じだ。
クリスの反応はどうだろうか。
置いていくのは思い直してくれただろうか。
様子を伺っていると、彼女はこちらを振り向いた。
その目には雨でもハッキリと分かるほどの、大粒の涙が流れていた。
「お、おい、大丈夫か?」
俺の言葉は無視して、クリスは俯きながらこちらに向かってくる。
な、なんだ?
俺が動けないでいると、クリスは両腕を広げ、俺に抱きついてきた。
「うおっ!
……え、えーっと……クリス?」
俺の言葉は全て無視し、そのままの体勢を維持するクリス。
手のやり場に困った俺は、とりあえず頭を撫でてみた。
濡れてるのに、指通りは滑らかだ。
これはきっといいシャンプーを使ってるに違いない。
しばらくそのままでいた後。
「ありがとう、ハジメ」
胸の中からポツリと、そう聞こえた。
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