第30話 このまま唐子まで行ってみる?

 「さてと」

 幸織さちおはまたオールを握る体勢に戻った。

 「どうしようか」

 「どうしよう」

 瑠姫るきが泳いだのは、時間も距離もまだわずかだ。

 でも、いまのカツオノエボシの出現でぐったりするほど疲れたし、それに、幸織といっしょに泳ぐのでないなら、一人だけでこれ以上泳ぎたいとも思わなかった。

 でも、せっかく幸織がいままで来たことのないところまで連れて来てくれたのに、じゃあ帰ろうというのも気がひける。

 あの浜辺の村に十何年か住んで、いちども来たことのない場所なのに。

 幸織が何気なく言う。

 「このまま唐子からこまで行ってみる?」

 「はい?」

 それはどこだろう?

 「ほら」

 幸織はいまボートが向いている方向へと顔を上げた。

 「そこが花井山はやいやまの原生林でさ、そのすぐ向こうが唐子だよ」

 「えーっ」

 「花井山」と言われてもわからないが、「原生林」と言われればわかる。

 中学校のときに習った。ほんとうに原生林なのかどうかわからないけれど、このあたりと岡平おかだいらの街のあいだは海辺まで小高い山になっていて、そこの林は昔から手つかずのままいままで残っているんだ、と。

 その北側には岡平の街があり、さらにその向こうには岡下おかしたの街もあって開けているが、ここはその南側で、交通が不便で、それでこの甲峰こうみねあたりはなかなか開けないのだ、と。

 そして、せっかく甲峰にあのリゾートホテルがあって、このあたりも儲かるようになったのに、それがなくなってしまうなんて、と話が続いたのだったと思う。

 その原生林の向こうということは、唐子というのは岡平の街に近いほうなのだ。

 「それって遠くないの?」

 「こっちから行くと四キロぐらいあるかな」

 怖いことを言う。

 四キロというと歩いて一時間の距離だ。その途中で幸織の体力が尽きたらどうするのだろう?

 「途中で寄れる港とかあるの?」

 「いいや。ずっと崖で、砂浜すらないよ」

 さらに怖いことを言う。もしやと思って、もう一つきいてみる。

 「幸織、そこまでボートで行ったことある?」

 「ないよ。だから行ってみよう、って言ってるんだけど」

 「うーん」

 昔ならば「却下」のひと言だが、もうちょっと答えを考えよう。

 それにしてもいまので安心した。そういう突拍子とっぴょうしもないことを考えるという点で、幸織は少しも変わっていなかった。

 安心はしたけれど、じゃあお願い、というわけにもいかない。

 さてどう答えようかと考えているところに、とつぜん場違いな音が鳴った。


 ※ 唐子からこは『荒磯の姫君』と『月が昇るまでに』の舞台となった場所です。

 『荒磯の姫君(上)』

https://kakuyomu.jp/works/16816700426904751796

 『月が昇るまでに』

https://kakuyomu.jp/works/16817139554645669487

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