第29話 悪い子になっちゃうよぉ

 幸織さちおは続ける。

 「あれの触手って、細くて、どっちに流れてるかわからないからね。体を大きく動かすと絡まっちゃって、あちこち一度に刺されたりすることもあるから」

 「ああ、それで体を動かさないで、って」

 「そう」

 幸織は言っていちど唇を閉じる。

 「危ない、って言って、慌ててばたばたしたらかえって危ないと思ったから」

 少しずつ恐怖感が湧き上がってきた。あのまままっすぐ泳いでいれば、もし幸織が気づいてくれなければ……。

 瑠姫るきは、全身にそのカツオノエボシの触手を巻きつけ、全身を激痛にさいなまれ……。

 死なないにしても、この沖から海岸まで戻らないと応急治療も受けられない。幸織にボートに引き上げてもらって、そして、その幸織にボートを漕いでもらって……どれぐらい時間がかかり、どれぐらい幸織にたいへんな思いをさせただろう。

 それに、あの村、医者はいるのか?

 昔はいなかった。あのホテルに入っていた医者に行くか、学校の向こうまで行くかしかなかった。あれから村はさびれたけれどお医者さんは来ました、なんて展開は、あんまり想像できない。

 「瑠姫いーっ」

 緊張感の消えた声で、幸織が言う。

 「よかったあ……」

 そう言って瑠姫に顔を寄せてくる。麦わら帽子の下のおでこをごつんとして、目を閉じてみせる。

 そして、バスタオルの上から、その両方の肩を、ぽん、とたたいた。

 力は強かった。

 それはそうだ。この、普通より大きいボートを操って、ここまで漕いで来たのだから。

 「ちょっと注意が足りてなかったら、わたしのだいじな人をひどい目に遭わせるところだったよぉ」

 そのねるような言いかたが、昔の幸織に戻ったようで、瑠姫は微笑した。

 「しかも、わたしがわざわざ呼んでさぁ。わたしが悪い子になっちゃうよぉ」

 海水浴に来てくらげに刺されたって、そこに呼んだ子が悪い子にはならないだろう。

 いや、だいたい、幸織はもう「子」ではない。

 「いや、だいじょうぶだから」

 もうおでこをくっつけてはいないけれど、ボートの上で向かい合って見つめ合って、瑠姫は答える。

 「あれに刺されたって、あんたのせいにはしないから」

 「そんなこと言って……それ、刺されたことないから言えるんだよぉ」

 ということは、幸織は刺されたのだろうか?

 それが、幸織が海に入りたがらない理由……?

 それで、そのことには触れずに、言う。

 「でも、昔はあんなのいなかったよね?」

 「ああ」

 幸織は拗ねた泣きそうな声からいきなりもとに戻った。

 「いや、ふだんはもっと沖にいるらしいんだけど、海岸に近づいてくることがあるんだよ。だから、中学生はこっちに出ちゃだめ、って」

 「そういうことか」

 つまり、中学生をあのブイの外に出さないのには、それだけの理由があったのだ。

 「いや、もちろんほかにも理由あるけどさ」

 それはそうだな、と思ったけど、きいてみる。

 「どんな」

 「中学生ってどんなことやるかわからないから。とくに女子の集団は」

 言って、白い歯を見せてきゃははっと笑う。

 最初から白い幸織の顔に、やっと血の気が戻ったように感じた。

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