第14話 篁、世の無常を知る。


「藤原……薬子の娘……」


 たかむらは絞り出すようにそう言った。

 今の上皇────安殿あてが皇太子の時に入内した姫の名を、篁は知らなかった。

 知っているのは、幼い娘を支えるために皇太子の宮「春宮」の女房となった薬子が、安殿の寵愛を得てしまったことだけだ。

 その後の政変の折にも、娘の名前は人の口に登らなかった。


「ふっ……そなたもわらわを憐れんでいるのか? 十一歳年上の夫に見向きもされず、夫と母の睦言を他人から聞かされる。女の一番良い時を無駄に過ごし、今はこのようなあばら家で尼僧暮らし。滑稽であろう? それだけで、妾には上皇を恨む理由があるとは思わぬか?」


 篁は返す言葉もなく、ただ白蓮を見つめた。

 今にも折れてしまいそうな手を口元に寄せて微笑む彼女は、痛々しかった。


「……ずっと、孤独であった。誰もが妾を避け、笑みを浮かべながら陰口を叩いた。

 そんな妾に唯一優しい言葉をかけてくれたのは、伊予いよ皇子様だけだった。年の近い見目麗しい皇子様が、妾に優しくしてくれる。それだけで恋をするには十分だった。

 なのに、妾が初めて恋した伊予様を、帝となった安殿は追い詰め、殺した!

 あの時の妾の気持ちがわかるか? 初めて好いた大切なお方を殺された妾の気持ちが、そなたにわかるか!」


 かそけき麗人は、カッと目を見開いた。


「知っているか? 安殿は皇太子となる前、すでに皇太子であった早良さわら皇子を殺している。自分の政敵となる者を排除して皇太子となり、帝に即位した安殿は、自分も同じことをされるのではないかと考えたのじゃ。

 異母兄弟の伊予様を恐れ、自分が排除される前に伊予様を陥れた。

 安殿にすり寄っていた我が伯父、藤原仲成は、北家で一番力の無い若造を使って謀反を捏造した。そこにいる宗成がそうじゃ。この者は伯父上にそそのかされて使われた挙句、今では参内する事も叶わぬ身となった。妾と同じ、上皇の被害者じゃ。

のう、そうであろう、宗成?」


「は、はい! その通りでございます白蓮様!」


「政変後も、名ばかりの出家をしてのうのうと暮らしている上皇が憎かった。だから、尼僧となった妾は祈った。上皇を呪い殺すことが出来れば魔物でも良い。来る日も来る日も祈り続けた。そうしたら、ほれ、このような魔物が妾に力を貸してくれるようになった」


 白蓮の周りには、いつの間にか魔魅まみが数匹まとわりついていた。

 空気が暗く淀み、闇色になった庵の中には、伊予皇子らしき黒装束の男の姿もあった。やはり、篁の剣ごときで倒せたわけではなかったのだ。


「妾を殺したければ殺すが良い。だが、死した妾は恐ろしいぞ。怨霊となってこの世を呪うだろう。それでも良ければ殺せ!」


 白蓮の気迫に負けそうになりながら、篁は言い返す。


「俺は! べつに、あんたが恨みを晴らしたいなら晴らせばいいと思う。でもそれは、関係ない人たちの魂を狩ったりしなければの話だ! あんたらは、なぜぬえに魂を喰わせてるんだ? 上皇を殺すのは、伊予皇子の剣だけで十分じゃないのか?」


 篁の言葉に、白蓮はうっそりと微笑む。


「人を呪うには力が必要じゃ。人の魂はその為の贄じゃ。昨夜はそなたらのせいで邪魔されたが、愛しい魔魅たちは妾の為に魂を狩って来てくれるだろう。さぁ、どうする? 妾を殺すか? それとも力を貸すか?」


「くっ」


 篁が聞きたかった答えは、一枚も二枚も上手な白蓮にはぐらかされていた。

 選ぶ事など出来ない二つの選択肢を前に口を噤んでいると、背後の竹林から圧倒的な存在感を撒き散らしながら魔犬母子が姿を現した。


「この件はいったん持ち帰る。それでよろしいか?」


 農民娘姿のサラマーがぐいっと前へ出ると、白蓮はふっと笑ってうなずいた。


  

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