第16話

「できたわよ」


 氷岬がシチューの鍋をテーブルに運んでくる。食べる分だけ皿によそって食事の準備をする。


「いただきます」


 手を合わせてスプーンを手に取る。一口掬って口へ運ぶ。美味い。やはり氷岬は料理が上手い。


「美味いよ」

「それは良かった。拓海くんって作った料理を美味しいって言って食べてくれるからこっちも作り甲斐があるのよね」

「俺は料理ができないからな。料理ができる人を尊敬してるんだよ」

「そう。ねえ、どうかしら。少しは私を嫁にする気になった?」

「ならない。それとこれとは別だ」

「あら残念。まだまだ努力が必要なようね」


 氷岬はそうため息を溢すと、シチューを口へ運んだ。口の周りが白く汚れているのが変な妄想を掻き立てるが、俺はその妄想を振り払う。やっぱり溜まっている。どこかで隙を見て一発抜いておかないと、制御ができなくなるな。

 そうして俺は夕食を楽しんだ。自分で希望した手前、おかわりをして残さず完食した。


 夜。ベッドに入った俺の部屋に来訪者があった。勿論、相手は氷岬だった。


「一緒に寝てもいいかしら」

「いいわけないだろ。今日は別に親父も家にいねえんだし」

「なんだか寂しい夜ってあるじゃない。なんだか今日は一人だと眠れそうにないのよ」


 普通だったらそんな馬鹿な話があるかと一笑に付すところだが、氷岬の場合は事情が異なる。両親に捨てられたのだ。寂しい夜があっても不思議はない。

 実際、氷岬の表情は不安そうだった。俺が断ったら、本当に一睡もできないんじゃないか。そんな風に思わせる表情をしていた。


「わかった。今日だけだからな」

「ありがとう。感謝するわ」


 氷岬は笑顔になると、遠慮がちに俺の部屋に入った。こうして一緒に寝るのを許してしまうのは俺が氷岬に心を許してしまっている証拠なのだろう。

 部屋に入った氷岬は、ベッドに腰掛けると俺の方を見てくる。ベッドに入ってもいいか許可を求めているのだろう。俺が頷くと氷岬はベッドに仰向けに寝転がった。

 その横から俺もベッドに入る。氷岬が隣に来るだけで、フローラルな香りが鼻をくすぐる。そこで俺は初めてこの状況がまずいということに気が付いた。

 結局、俺はまだ抜けてはいない。自分の欲望を抑えられるか危うい。抑えなくてはならないが、この誘惑はいつも以上にきついものがある。

 俺は氷岬に背を向けると、瞼を固く閉じた。だが、脳内に広がるピンク色の妄想が俺の眠気を吹き飛ばす。


「本当にありがとう」


 そう言って氷岬が俺の背をそっと掴んでくる。その瞬間、背筋に電流が奔ったかのような感覚になる。いったい俺の体はどうしてしまったのだろう。


「氷岬とこうして一緒に寝るのは何度目だろうな」


 少しでも妄想を振り払おうと、俺はそっぽを向いたまま氷岬に話し掛ける。


「さあ、何度目かしら。数えてないからわからないわ」

「普通だったらあり得ないよな。年頃の男女がこうして一緒のベッドで寝るのって」

「拓海くんが草食系だから可能なのよ。普通の男子だったら、私はとっくに襲われているわね。まあ、拓海くんになら襲われてもいいのだけど」

「お前みたいな可愛いやつにそんなこと言われたら本気で襲っちまうから軽々しくそういうことは言うなよ」

「私は本気なのだけどね」


 静かに囁く氷岬の声が虚空に消えていく。そして、しばらくすると氷岬の寝息が聞こえ始めた。俺は振り返ると氷岬の顔を見る。まったく、こっちはお前のせいで寝れそうにないってのに、こんなに安心した顔で眠りやがって。

 俺はため息を吐きながら、自身も目を閉じる。俺の背中を掴んだままの氷岬の手は力がこもっている。平気そうな顔をして過ごしてはいるが、やっぱり両親に捨てられたのは相当なダメージを氷岬に与えているのだろう。これからもこうして不意に寂しくなる夜が訪れる度、こうして部屋を訪ねてくるのだろうか。その時俺はこうして受け入れてやるのだろうか。受け入れてやる気がする。拒絶するなら、最初から拾ったりしていない。


「今日も俺は眠れそうにないな」


 そう思いながら、俺は長い夜の旅に出た。




 翌日。やはりというか俺は一睡もできなかった。氷岬が隣に寝ていても早く安心して眠れるようになりたいが、こればっかりは恋人同士にでもならなければ不可能な気がする。


「おはよう、拓海くん」

「おはよう、氷岬」


 よく眠れたのか、氷岬の顔色はいい。ベッドで横になったままおはようの挨拶を交わす俺たち2人は、互いに対照的な顔をしていた。顔色のいい氷岬に対し、俺はゾンビのように死相を浮かべている。一睡もしていないのだから当然だ。だからきっと油断していたのだろう。ぼーっとした頭で思考が上手く整理されていなかったのだろう。近付いてくる氷岬の顔に、何の違和感も覚えなかったのは。


「これはお礼のキス」


 そう言って氷岬は俺の頬にそっとキスをした。柔らかな唇の感触を頬で感じながら、俺は硬直した。


「な、なななな何をしてるんだよ!」

「おはようのキス。隙があったからいいかなって」

「いいわけないだろ」


 ベッドに寝転がったまま、俺たちは互いに言い争う。言い争うと言っても氷岬は薄く微笑んだままで余裕を持っているが。慌てているのは俺だけだ。


「いいじゃない。減るものじゃないし。唇にしなかっただけ大目に見てくれても」

「そういう問題じゃないって。だってキスだぞ」

「大袈裟ね。ほっぺにしたぐらいで」

「逆になんでお前はそんなに冷静なんだよ」

「加害者だから」


 飄々と言ってのける氷岬に俺は何も言い返せなくなってしまった。実際、嫌だったわけではない。初めての女の子の唇の感触は頬とはいえ、最高だった。不意打ちだったから堪能する余裕はなかったが。


「それにあなた顔が死んでるもの。ちょっと元気づけてあげようと思ったのよ」


 誰のせいでこうなってると思っていやがる。口にはしないが俺は内心で悪態をついた。


「まあ、もういいから起きよう」


 俺はベッドから体を起こす。それを見て氷岬もベッドを出た。


「着替えるから部屋出ててくれる」

「おいおい、ここは俺の部屋だぞ」

「別にいてもいいけど、私は勝手に着替えるから。覗きたいなら覗けばいいわ」

「……出て行くよ」


 俺はそう言うと部屋を出る。先に顔を洗って歯磨きでもしておくか。そう思って洗面台に向かい、歯ブラシをしゃこしゃこさせた後、洗顔し眠気を少しでも吹き飛ばそうとする。だが、吹き飛んだのは一瞬だけで、すぐに眠気が襲ってくる。今日の授業は寝てしまうかもしれない。そう思って俺は朝シャワーを浴びる。少しでも頭の冴えを取り戻そうとしての試みだったが、これもあまり意味はなさそうだった。

 シャワーを終えてリビングに行くと、着替えを終えたらしい氷岬が朝食の用意をしているのが見えた。毎日本当に助かっている。本当に氷岬が嫁だったのならこんな幸せな生活が続くのだろうか。思考がふんわりしていたからか、そんな妄想をしてしまう。俺は自室に戻り制服に着替える。


「拓海くん、朝ごはんできたわよ」


 氷岬に呼ばれ、俺は1階に降りる。氷岬のおいしい朝食が食べられるのは本当に幸せだな。そのうち、なにか感謝のプレゼントでも渡してみるか。そんなことを考えながら、俺は朝食の席についた。


「今日も体育祭の練習するのよね」

「ああ、毎日やらなきゃ意味ねえからな。本番までには絶対に失敗しないレベルまで仕上げるぞ」

「うん、わかった。運動は苦手だけど精一杯努力するわ」


 氷岬がそう言うと本当に精一杯頑張るから、無理をさせないように俺が管理する必要がある。できるだけ氷岬のレベルに合わせて練習するとしよう。

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