第7話

 そして、時は来た。


 わたしが端材で練習したミシンの痕跡を点検し終えた秋山さんは、

「じゃあ、いよいよ仕立てに入れるわね」

と微笑んだのだ。


 秋もぐっと深まった頃のことだった。


 祖母が肩まで丁寧に縫ったグレーのベストに、ついにわたしは針を通し始めた。脇、裾、胴へと。


 テキストで学び、秋山さんから助言をいただきながら走らせるミシンの音は、すべての人たちの声を乗せ、コーラスのように店の中に響いた。


 祖母から母へ、母からわたしへ。

 祖父が亡くなり、イトとして生まれ変わり。


 抑えてきた「自分」を表現しようとしたお嫁さんのエネルギー。

 暗い自分を変えようと服屋を探した高校生の勇気。

 支配してくる彼氏の手から逃れ出てきた女性の強い足取り。

 毒親から離れ、自分を愛する決意をした双子の妹の新たな始まり。

 昔の自分の純真さを取り戻した秋山さんの柔軟さ。

 周囲の匂いに交わらないことを決めた女子高生の素直さ。

 本当の自分の顔を取り戻した双子の姉が見つけた妹との絆。


 今までわたしと、このお店に関わってきた人たちすべての声が、美しいハーモニーとなってミシンの中から聞こえてくるようだった。

 それは自ら自分の身に纏わり付き絡みついた糸を解き、福を感じ取った人たちが奏でられる、幸せのメロディー。


 わたしたちには直接糸を取り払う手を差し出すことなどできない。ましてや、糸を断ち切ることなど。

 ただ寄り添い、話を聞き、心の奥底深くに共感することだけ。


 すべての人に、幸福を授けられますように――祈りを込めて、接客するだけだ。


 福を与えられる店の礎を築いた、イト――衣人と絹子の絆を、わたしが再び結びあげる。

 そんな気持ちでミシンを走らせ続けた。


 もちろん不慣れな作業だ。

 途中でミシンが止まる瞬間も多々あった。

 でも隣には秋山さんがいてくれた。

 さらに店の奥にはイトが待っていてくれた。

 だからこそ、わたしは途中で投げることなくミシンを走らせ続けられる。


 祖母・絹子が縫い終えていた箇所と齟齬がないように、丁寧に。

 きっと衣人のことを思い、どの箇所もないがしろにしたくなかったに違いない。

 多忙な日々の中、いい加減に仕上げることをよしとせず、直接衣人を採寸し、時間を掛けて型紙から作ったが故に、自分の手で完成させることはかなわなかったのだ。縫い目を見つめるうちにその思いは強くなっていった。


 仕上げのボタンを取り付けながら、祖母に語りかける。



――安心してください。おばあちゃんの思いは、わたしが受け継ぎます。





 完成した朝は、よく冷え込む、雲一つない秋晴れだった。




 イトは、本来いるべき世界へと旅立っていた。

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