第6話


「試着して構わないかしら?」


 手書きの宣伝文句に導かれるようにして、私は自然とそう尋ねていた。

 もちろんです、と記憶にある試着室よりいくぶん広く、カーテンが新調された試着室へ案内される。


 七十を過ぎたおばあちゃんが着たら若すぎて浮いちゃうかしらと思ったが、そんな心配は杞憂に終わった。


 全身鏡に映る私は、若々しく、凛としていた。

 かといって「若作り」と後ろ指を指されるようななりでもない。

 ちゃんとこんなおばあちゃんにもしっくり合うのがニュートラの魅力なのね、とジャケットやスカートを褒める。


 その時、鏡の面がぐらぐらと揺れた。

 鏡の中の私の顔は、何と二十代のときのそれになっているではないの!

 二十代の、お肌もつやつやぴちぴちの顔に戻った私が、今試着した服を着ている――奇妙な光景に足がすくんだ。


『できたわ!』


 嬉しそうに彼女は一着のスカートを手にしている。

 それは忘れようたって忘れられない、赤いチェックのプリーツスカート――人生で初めて作ったスカートだ。


 今まであえて思いださないようにしていた、忘れられない過去が、鏡の中に次々に映し出される。


 中学校の同級生と回し読みしたファッション雑誌。

 誌面で初めて見た、神戸のおしゃれ女子大生の姿。

 次々に繰り出される業界用語。

 

 ファッション業界で働きたくて、頑固な父と母を説得した夜。

 女なんて社会に出て働く必要はないと冷たく言い放った父の声。


 きっと明治生まれの父を母は「洋裁は家庭に入ってからも役に立ちますから」とひそかに説得し、助け船を出してくれていたのだ。

 そうでなくては、田舎娘を神戸のお金のかかる洋裁学校などにやれるはずがない。


 あの頃は輝いていた。ヴィトンもグッチも手が届くはずがなかったけれど、女の自分が、自分の人生を切り開いているのだということが誇りだった。自然と背筋が伸び、鼻高々だった。


 嫁入りの話が来たとき――それはお決まりのごとく、すでに結婚することは「確定」していたのだが――怒りに手が震えた。

 思わず道具箱の裁ちばさみを手に取って叫んでいた。


『不自由な生き方を強いられるくらいなら、裁ちばさみで首を切ってしまいたい!』


 その時の裁ちばさみの妙にひんやりとした感覚が今でも右手に残っているような気がする。


 でも首は切らなかった。そこまでの度胸はなかったし、何より服を作ることが大好きだった。死んじゃったらもう服を作ることも切ることもできない。


――家族のために服を作り続けよう、と決意した。


 以来、家庭内に綻びを生じさせることなく、できかけたてもすぐに繕いなおし、良き妻賢き母を貫き続けた。


『だけどね、いえ、だからこそ』


 鏡の中の二十代の姿をした私が突然に、しゃべりかけてきた。

 なんて摩訶不思議なことが起こる鏡なのだろう!


 でも金縛りにあったように、私は試着室から出て行くことができない。

 直感的にそれが決して悪い物ではないとわかったからかもしれない。

 一番大きいのは、ここが絹子さんのお店だからという安心感だ。

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