第6話 悪夢の再来
その慰めの言葉を聞いた時、湧きあがってきたのはわずかな反発心だった。振り向きはせず固い声を返す。
「綺麗ごとですね。残念ですがこの世界では正直者ほど馬鹿を見るんです」
どうして自分はこんな可愛くないことしか言えないのだろう。胸中に苦さが広がる。ネリネは今度こそ出て行こうとした。だが、
「でも、それを理解してもなお、君は卑怯な手を使ったり人を出し抜いたりはしない。そうだろう?」
ハッとして思わず振り返る。クラウスは優しいまなざしでこちらをまっすぐに見ていた。
「私はそういう不器用なところも含めて、君を好ましいと思っているよ」
「!」
ドクン、と、鼓動が胸を穿つ。言葉の意味を考えれば考えるほど、それは暖かな春の雨のように、カチカチに踏み固められていたネリネの心に染みこんでいった。
ツンと鼻の奥が熱くなる。まずいと思った瞬間、気づけばその場から逃げ出していた。ほぐれかけた心は、それまで堰き止めていた感情の防壁をモロモロに崩し始めてしまう。
自室に飛び込んだネリネはドアを勢いよく閉め、もたれかかるようズルズルとしゃがみこんだ。抱えたままだったクロスに顔をうずめて、激しい動機と荒れ狂う心をいなそうとする。
(悪魔の誘惑だ!! そうに決まってる! でなければ……こんな気持ち)
ふつふつと湧きあがる嬉しさと同時に背徳感がこみ上げる。悪魔なのに、言葉に耳を貸してはいけないのに。
(いつぶりだろう、人から信じてるだなんて言われたのは)
たとえ悪魔でも自分を信じてくれる人が居た。それは形だけの言葉かもしれない。けれども、それは確かに彼女の心へ届いたのである。
(どうしよう、嬉しい……)
ネリネは静かに泣いた。自分がどれだけ優しい言葉に飢えていたのかを、この瞬間初めて思い知らされたのだ。
「おや?」
その晩、いつものように夕飯の配膳を終えたシスターは着席した。神父が声を出したのはその位置が変化したからだった。それまで、できるだけ離れた斜めの位置に座っていたのが、一つこちらに近付いている。
クラウスは特にコメントせず口の端を吊り上げた。それに対しネリネはすました顔で問いかける。
「何か?」
「いいや?」
二人の距離がほんの少しだけ縮まった、そんな夜だった。
***
そろそろ暑くなっていく気配を感じさせる中、ネリネは今日も朝早くから清掃作業を行っていた。今日は正面玄関前を中心にやる日だ。参拝者が多く通る場所なので念入りにホウキを使って掃き掃除をする。
そろそろ衣替えもしなければと、汗ばむ陽気の中で服の袖を捲った時、ザッと地を擦る音が聞こえた。顔を上げれば、そばかす面の配達員が自転車を止め手紙の束を掲げているところだった。
「シスター、手紙だよ!」
「ご苦労様です」
ホウキを持ったままそちらに向かう。鉄柵ごしに受け取った物を順番に送って内容を確認していく。クリーム色の大きめの封筒――これは教会本部からの定期連絡書類だろう――あとは地域の店の宣伝、そして小さめの黄色い封筒。
そこで手を止めたネリネは怪訝そうに片方の眉を上げた。宛名には優雅な字体で『コルネリア様』とだけ書いてある。裏返してみるが差出人名はない。
赤い封蝋を指で押し切り開けようとした時、まだ残っていた郵便配達員が不明瞭なうめき声を出した。
「うぅ、なんか朝から頭が痛いんだよな。シスター、いい薬ないかな?」
「あ、それでしたら……」
たしか噛むことで頭痛を和らげる薬草があったはずだ。手紙の事はいったん忘れ、少し待つようにと言って踵を返す。
ところが一歩進むか進まないかの所で背後からドサッという音が響いた。驚いて振り返ると、先ほどまで普通に会話していたはずの配達員が倒れていた。支えを失った自転車の車輪がカラカラと回転している。
「だ、大丈夫ですかっ」
「うぇぇ、気持ち悪……」
慌てて荷物を放り出し駆け寄る。助け起こすと青年の身体は妙に熱かった。土気色の顔をして、こみ上げる物を堪えるように口に手を当てている。
「とにかく中へ」
肩を貸して一歩ずつ歩いていく。ところが正面扉を開けようとしたその時、またしても急な来訪者が通りの向こうからやって来たのである。
「シスター! 悪いがウチのカミさんの具合見てやってくんねぇかな。朝から急にゲロゲロ吐き出してよ」
***
「参ったな、何かの伝染病かな?」
午後になっても続々とやって来る患者に、クラウスは長椅子を脇にどかしながら途方に暮れた声を出した。もはや教会奥にある簡易ベッドだけでは数が足りず、この礼拝堂を開けて急患たちを寝かせる事にしたのだ。毛布を引っ張り出してきたネリネは手早く広げながら同意する。
「めまいに吐き気・頭痛に発熱。これだけ同時発生したとなると可能性はありますね」
「そこの君、村長に伝言を頼めるかい?」
病人の付き添いで来ていた一人の若者に伝言を託す。今からこの教会は一時的に隔離施設だ。
昼下がりを過ぎても、患者は誰一人として回復の兆しを見せなかった。それどころかどんどん新たな患者が運び込まれてくる。彼らは見ているだけでも辛そうで、食べることもできずにひたすら呻いて横になっていた。
せめて水分だけはしっかり取らせるようにと、看護に協力してくれている村の女性たちに指示を出す。吐瀉物に触れないよう処理していたクラウスに、ネリネは声をかけた。
「神父、まだ陽のある内に伝令を飛ばすべきかと」
「本部への緊急連絡か。……あのハト私を猛烈に嫌がるんだよなぁ」
教会の裏では緊急の連絡用に伝書鳩が数羽飼われている。帰巣本能を利用して数時間で手紙を運んでくれるのだが、クラウスが近づくと怯えて全力で逃げようとする。おそらく動物の本能で彼の正体に気づいているのだろう。
懐かないハトに怯えている場合かと、ネリネはその尻を蹴っ飛ばすように追い立てた。
「取り付けるのはわたしがやりますから、早く書く!」
「はいはい」
***
結局、対応に追われて手紙が完成したのは夕暮れ時になってしまった。内容としては原因不明の集団病状の報告と、一刻も早い首都からの応援要請だ。
鐘塔の外階段を登り、両手で抱えた白いハトをそっと放してやる。羽音を響かせた鳥は、一番星が輝き始めた東の空へとまっすぐに飛び立っていった。
(あれ?)
そして再び戦場へと戻ろうとしたネリネは、階段を降り始めたところでその異変に気が付いた。
ホーセン村はクロス状の道を境にして四つの地区に区切られているのだが、ここから見て左上――北西部分だけが妙に暗い。普通この時刻になったらランプに灯を入れるものだが……。
そこではたと気づく。今、下の礼拝堂で苦しんでいる面々は、その北西地区の者が多くないだろうか?
(教会の中で二次感染は起きていない。もしかしたら原因はあの地区にある……?)
そう仮説を立てたネリネは、食堂でホッと一息お茶を飲んでいたクラウスを捕まえ調査に行くことにした。襟元をひっぱられた神父は情けない声を上げる。
「わ、わ、なんだい。少しぐらい休ませてくれよ」
「確かめたい事があるんです。ついてきてください」
問答無用で連れ出したクラウスに、道すがら先ほど見たものを伝える。彼は早足に進むネリネを追いかけながら顎に手をやった。
「なるほど、一理あるね。水かな?」
「もし井戸水が原因なら被害はもっと広い範囲で起きているはずです。井戸同士は地下で繋がっていますから」
ここでチラリと背後を伺ったネリネは、疑わしそうな視線でこう問いかけた。
「まさかとは思いますが、あなたの仕業じゃないですよね?」
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