救いの『手』

 色を失くした世界に、ロイは立っていた。

 幼少期を過ごしたあの村の、あの場所だということはわかるのに、深い霧に覆われているかのように全てが霞んでいる。見覚えはあるが、懐かしさは感じられない。木々と木々に挟まれた小道をしばらく進み、やがて立ち止まると、幼い姿に戻ったロイは小さな頭をゆっくりもたげて森を見た。

 自分の背丈の何倍もある木々たちが、ロイを押しつぶそうとしているようだった。季節ごとに色を変え、形を変え、いつだってロイを見守り続けていた偉大な温もりは消え、今や全てが灰を被ったように荒んでいる。あらゆる生命の輝きが吸い取られた森も、ハリボテのような小道も、今ロイが見ているそれは、全てがそこに「ある」のに「ない」、無機質な虚無の世界だった。

 彼の世界がまだやさしい色彩に満ちていた頃なら、震え上がって泣き出してしまっていたかもしれない。ところが、今の彼は違っていた。涙を流すことができなかった。代わりに、幼い天使のようなその顔で、不気味に佇む森のその奥を静かに目を凝らして見つめていた。

 (母さん……?!)

 ロイにはすぐにわかった。暗闇で何も見えない森の奥に、やわらかい金の光が浮かんでいた。高貴で神聖な魂の色のようにも見えた。あれは母に違いない。そう直感したロイは、迷わず森の中へ駆けて行った。

 近づけば近づくほど、光のように見えていたそれが徐々に人型となり、朧げな母の姿に変わっていった。

 絶対に逃すまいと、ロイは大声で母を引き留めた。

 「母さん! 母さんまって! ぼくだよ!」

 ロイの叫びの甲斐あってか、光は薄くなって消えていき、それは生身の人間そっくりの姿に変わっていた。そしてまた、母もロイに引き寄せられるように近づいてきていた。

 ようやく出会えるという距離になっても、ロイは走る速度を緩めなかった。そして、再会のその瞬間、走ってきた勢いで母の腰にすがりついた。

 母の固い抱擁を背中に感じながら、いつまでも母を呼んだ。感激のあまり、何も見えない森の中でなぜか転ばずにここまで疾走して来れたことなど忘れてしまっていた。

 「母さん、ロッテが! ロッテが……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 必死に謝るロイを見て、母は笑っていた。幼いロイを安心させるためなのか、昔のように目尻を垂らして聖母のような微笑みを浮かべていた。

 澄んだ空色。忘れるはずがない。母の瞳のこの色は、他のどんな色が消えてもなくならないだろう。

 ロイの目から、静かに涙がこぼれた。

 そして、心からの喜びを伝えたくて、彼なりににっこりと笑って見せた。こういう時に限って自分の笑顔が歪んでしまっているのではないかという不安に襲われた。取って付けたような笑顔だと思われたらどうしよう。ぼくは本当に嬉しくてたまらないのに、と。

 ロイの不安とは裏腹に、母は何も言わずに嬉しそうに目を細めてくれた。ところが、どういうわけか、母はその優しい笑顔のままロイの首に両手を伸ばしてきたかと思うと、ほっそりとした指先でロイの細い首筋をそっと覆った。

 (母さん……?)

 「どうしたの?」とは聞かなかった。

 母の生温かい指先はロイの脈を探り、それを捕えた。

 柔らかくて、かすかに温かい。髪をやさしく撫でてもらっているような感覚だった。ロイにとって、それだけで十分だった。こんな形でも、数年ぶりに母の温もりを感じることができたのだから。

 「信じて」

 母はそう言った。そう聞こえたような気がした。だが、もうその意味を問いただすことはできない。信じられない力でロイの首は締め付けられ、愛情深い母の手は愛する子の命を全身全霊で止めようと牙を剥いた。

 ロイの血脈という血脈が激しく波打ち、小さな身体全体に波及した。首から顔、やがて両腕にかけて痺れていき、目眩に襲われ、やがて感覚がなくなった。

 苦しさでさらに涙が滲んでもなお、ロイは狂気じみた母の手を振り払おうとはしなかった。その代わりに、我が子の首を絞めても顔色ひとつ変えない母の目を見つめていた。

 (母さんは僕の望みをわかってくれているんだね。僕が消えないと世界のどこかでまた同じことが起こるかもしれない。母さんみたいな人を増やしてしまうかもしれない。だから母さんは、こうして僕をようとしてくれているんだよね?)

 母は、何も答えなかった。

 真っ黒な煙のようなモヤががモクモクと母を覆い、グルグルと渦巻いている。目の前にいる母が、本当に母なのかわからなくなってしまった。ロイにとって、それが一番悲しかった。

 もっと話していたいのに、できることならずっと一緒にいたいのに、真っ黒になった母が首を絞める力は弱まらなかった。

 (ちがう……! ぼくが母さんからロッテをってしまったから? そうだ……! そうなんだ。そうなんでしょう?)

 真っ黒な顔の口元だけが、うっすら微笑んだような気がした。絶望のあまり、今度こそ涙は出てこなかった。 

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