理不尽な指令

 学業も修め、もうすぐ成人する歳だというのに、「明日から学校に行ってくれないか」などと兄パトリックから頼まれた時は、人生で初めて『スパイ容疑の男』の尋問に召喚された時よりも衝撃的だった。

「え? 学校? どうしてですか?」

 いまさら学校なんて、とオドオド困惑しているカレンを見て、パトリックはケラケラ笑った。

「別にふざけているわけじゃないんだよ? カレンが賢いのは分かってるし」

 くくくっ、と悪戯っぽく笑ったかと思えば、今度は真面目な笑みを浮かべて言った。

、結局何も吐かなかったんだよねぇ」

 悔しそうに、唇を歪めている。『あの子』と呼んでいる例のスパイ容疑の男の口を割らせることができなかったことが、相当気に入らないらしい。

「兄さんでもダメだったんですか?」

「まあね〜。でもオレだけじゃなくて、ルイスの奴……兄さんでもお手上げだった」

 不機嫌なはずなのに、皮肉な笑みがこぼれている。

「えっ? ルイス兄さん? ルイス兄さんも来てたんですか?」

 パトリックは頷き、「アイツに頼りたくはなかったケドね」と子どものように口を尖らせた。

「お二人相手でも、何も言わなかったなんて……」

 カレンは身震いした。信じられなかった。

 拷問を「仕事」と割り切り、嫌々やっている方のカレンはともかく、人を痛ぶることを自然と愉しめるパトリックやルイスでさえ、成果を得られなかったなんて。

「だからだよ。だからに行って、調べて欲しいんだ。あの子がほんとうにスパイなのか、それとも他に裏であの子を動かしてた人間がいるのか」

「え?」

 優雅に微笑むパトリックの顔は、まるで悪魔の司令官のようだった。

「あの学校って、まさか……。私が?!」

 パトリックは無言で頷き、思い出したように付け足した。

「大丈夫! 母さんも許可してくれているし、父さんも異論は無いってさ」

「そういう問題じゃない」とカレンは反抗した。

「そんな! そんなの無理です! できません! そんなの、まるで私が本当に『スパイ』にならなきゃいけないってことじゃないですか! 私にはできません!」

 カレンは必死に訴えたつもりだったが、パトリックはどう解釈したのか、「あははは!」と大声でゲラゲラ腹を抱えて笑い出した。

「そう………、そうなんだよ! だからカレンじゃないと。だってほら、オレが十代の学生のふりなんてできないでしょう? 大丈夫! 学校側に圧力かけとくし、カレンは自由に動けるはずだよ。それに、ちょっと調べるだけでいいんだ。あの子と関わりのあった生徒とか、教師とか。それで何も分からなかったら、その時は別の手を考えよう」

 そう説得されては、カレンは反論できなかった。こういう時、兄妹で一番若い自分が駆り出されるのは仕方ないことなのかもしれない。だが、ふと疑問が浮かんだ。わざわざ学校に潜入してまで、例の男のスパイ容疑の真偽を確かめなければいけないものなのだろうか? 

「でも、ちょっと待ってください。こういうのって、私たちだけで対処しないといけないのでしょうか? だって、こういうことを捜査するのは、もっとこう、警察とか、その手の捜査に関して分かっている人たちの方がいいんじゃないでしょうか……?」

 パトリックの笑い声は消え、カレンをたしなめるかのようにニタニタと笑っているだけだった。カレンはそれを見て、ようやく思い出した。この一族の『歪み』とも言えるような、拷問に対する強烈な執着と、誇りを。

口を割らせられなかったなんて、そんなことはあってはならないんだよ? しかもあんな男を……。カレンも見たでしょう? はおかしかった。まるで洗脳されているみたいに」

 そう。例のスパイ容疑の男が口を割らないというのは、「何も話さない」からではなく、「こちらが意味を理解できることを何も話さない」からだった。芸術がどうだとか、世界がどうだとか、彼がやっと口にする内容は、およそ一般的な価値観に基づくものではなく、彼独自の歪んだ世界観、もしくは何者かによって植え付けられたかのような世界観に基づくものだった。

「あの人を密告した密告者の方にお会いして、詳しくお話を聞けないのでしょうか?」

 最後の悪あがきの如く提案してみたが、あっけなく打ち砕かれた。

「それは無理だねぇ。身元を明かさない代わりに警察に密告してれくれた人らしいし」

 諦めたように「そうですか」とため息をついたカレンに、パトリックはにっこりと微笑んだ。

「でもね? 密告者はわからなくても、洗脳を施した人間がもしいるとすれば、それはあの学校にいるだろうね」

「え?」

 どうしてそう言い切れるのか? カレンの頭の中で、事前に知らされていた情報が整理されていく。

 確かあの人は、勤務態度は至って真面目で、交友関係も少なく、毎日家と職場の学校を往復するだけ。彼に良からぬことを吹き込むなら、確かに学校の中で行われていた可能性も高いが……。それなら、スパイ活動も? あの学校の中で行っていた? じゃあ、密告した人物もあの学校にいる……?

 自ら立てた仮説に圧倒されて固まってしまったカレンを、面白そうに眺めていたパトリックもまた改めて言った。

「やってくれるよね?」

 断る余地などなかった。それでも自信なさげなカレンを見て、パトリックは立ち上がり、カレンの肩を抱き寄せると、いつにもなく甘い声で囁いた。「もし成功すれば、ちゃんと実績になるし、次期当主のカレンにとって有利に働くはずだよ。そしたら君は、この一族の頂点に立てるんだ」と。それはまるで、悪魔の囁きだった。

 カレンは思わず、パトリックの顔を見上げた。一族の誰とも違う、絹のような長い金髪。女性のように優しげな青い瞳が、カレンを映してうっとりと微笑んでいる。ところがそれは、兄が妹に向けるような視線ではない。そっと触れて、撫でるような視線だった。カレンもそれを理解していた。

 時々このような視線が向けられる時、そこには、口に出さないだけでパトリックがカレンに向けている何か深い欲望があるのか、次期当主候補のカレンに取り付くことで出世を狙っているだけなのか、はたまた、似たもの同士の境遇に共感した結果の親愛の情があるだけなのか、もしくはこれら全てなのか、カレンには分からなかった。分かりたくもなかった。

 ああ、やっぱり。この家からも、この人からも逃れることなんて、今の私にはできないんだ。

 兄の温もりを側に感じながらも、冷ややかで重たい絶望感が、カレンの心にのし掛かった。

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