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「私は大ばか者なので。」

 マリは膝先に両手を突き、蝉と日高に深く頭を下げた。

 「マリ?」

 驚いたように彼女の名を呼んだのは蝉の方で、日高はただじっとマリを見ていた。マリの心に刺さったのは、雇い主である蝉の声ではなく、日高の視線の方だった。

 日高の目は、明らかにマリを案じていた。身勝手でばかなマリを、それでも。

 その視線を、いつでもマリは日高から与えられていた。二人きりで本を開いているときにいつも頬に感じていた、優しい眼差し。

 だから、それを振り切ることは心細かった。マリに対してそんな目を向けてくれた人は、スラムに生まれ育った身であるせいもあって、日高以外にはいなかった。それでも、マリはそのまま言葉を接いだ。

 「このお話は、なかったことにしてください。」

 自分の身請けに幾らの金が動くのかも知らないまま、深々と頭を下げ直したマリは、そのまま席を立った。

 蝉の居室、傾きかけた西日、日高の白い頬と、蝉の引き攣った眼元。

 障子を開け、廊下に出ると、そこには琴葉の身請け話の時のようにやじ馬がたかっていた。その先頭にいたのは、パーマネントの娼婦だ。

 「マリ。」

 パーマネントの娼婦は、低い声でマリの名を口にした。まるで彼女自身の身体のどこかが痛んでいるような、それは誠実で密やかな声だった。その声一つで、ざわめいていた野次馬を黙らせてしまうほどに。

 「あんた、信じているわけじゃないだろうね。」

 なにを、と、問う気にもなれなかった。

 あの男は、スラムから連れて来たばかりの頃にきっとこの娼婦にも、迎えに来るからと約束をしたのだ。

 分かっている。あの言葉が自分だけに向けて発せられたものじゃないことくらい。そんな言葉を信じるなんて、ばかだ。大ばか者だ。

 それでももう、マリは信じてしまったのだ。すっかり、頭の先から、あの男の嘘を。

 「信じてるよ。」

 辛うじてそれだけ口にすると、パーマネントの娼婦は深く息をついた。それはため息に似ていてため息ではなかった。しょうがない子だね、と、マリを思いやるような色があった。

 「ばかな子。」

 パーマネントの娼婦が、マリの身体を両腕でしっかりと抱いた。マリはその腕に身を任せたまま、一滴だけ涙を流した。もう二度と、死ぬまで絶対に泣いたりしない、と心に誓いながら。

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観音通りにて・女衒 美里 @minori070830

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