その日の真夜中、ちょうど客の切れ間でマリが部屋に一人でいたとき、宗太がやってきた。それも長屋の玄関からではなく、部屋の窓から。おまけに宗太の着ている白いシャツは、全体がぐっしょりと血に染まっていた。

 「え?」

 状況が理解できず、マリはただそれだけ口にして硬直した。

 「服と金貸せ。」

 宗太が端的に呻いた。

 「女一人、殺してきた。」

 女一人。

 琴葉だと、すぐに分かった。だって、宗太は白いシャツに血のシミをつけて街を歩いてくるほど馬鹿じゃない。もしもそんなに馬鹿になる理由があるとすれば、琴葉以外にはない。

 「抱いたのね。」

 マリの唇はほとんど自動で動いた。

 「あんた、刺した琴葉を抱いたのね。」

 だからそんなに血にまみれているのだとしか思えなかった。

 抱いたよ、と、宗太は答えた。ひどく疲れたような口調だった。

 抱いた。その単語が性行為を意味しないことは、なぜだかその場では、マリと宗太の間では、当たり前みたいに共通認識されていた。

 宗太は、女を一人殺したのだ。白いシャツを血まみれにして抱きしめるためだけに。

 私も抱いてよ、と、マリは半ば悲鳴のような声を上げた。

 でかい声を出すな、と、宗太は片手を伸ばしてマリの口を塞いだ。

 「刺して、抱いてよ。」

 刺青だらけの腕に縋り、マリは泣いた。

 泣いている自覚なんてなかった、ただ、目の周りがびっくりするくらい熱くて、顎からなにかの液体が膝先に伝っているのだから、これは涙なのだろうと認識しただけだ。

 「バカか。」

 短く宗太が吐き捨てる。

 分かっている。女一人殺してきた、と、宗太は言ったのだ。マリでは女一人の『女』にすらなれない。

 分かっている。分かっていても、その腕に抱かれるために刺されて死んでしまいたかった。

 「服。お前がスラムから着てきたのがあるだろう。」

 スラムから着てきた服。確かにマリはそれをまだ保管していた。男もののぶかぶかのシャツとコート、裾が長すぎて幾重にも折ってベルトで腰に縛り付けていた軍の払い下げ物のズボン。

 宗太がスラムの人ごみに紛れて姿を消すつもりならば、それは確かに完璧な組み合わせだった。

 だからマリは絶望したのだ。自分が求められているのは、本当にただ服と金を必要としているからであり、そこには宗太のなんの情も含まれていないのだと理解してしまうから。



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