翌日、日高は本当に本を一冊携えてやってきた。

 「これ、私の本。」

 「ありがとうございます。」

 借金して買った水色のワンピース姿のマリは、畳にぺたりと座り込んで本を開いた。深い緑色の表紙に、細い金色の蔦模様で装飾がなされた、それは手にしただけで心が躍るくらいうつくしい本だった。

 しかしその一ページ目に目を落としたマリは、悲しく首を振った。

 「……私には、読めないみたい。」

 「なぜ?」

 「漢字があるもの。私、ひらがなとカタカナと、簡単な漢字しか読めないんです。」

 「私がいるじゃないの。」

 日高はマリの隣にごろりと寝そべると、両手で頬杖を付き、本のページを覗き込んだ。

 日高の痩せた頬を見やってから、マリは、整然と並んだ活字を、ぎこちなく読み下した。

 「わたくしは」

 マリが言葉に詰まると、日高は胸ポケットからちびた鉛筆を取り出し、素早く漢字の上に読み仮名を振った。

 マリは嬉しくなって、またはじめから文章を読みだす。

 「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。」

 「そう。読めるじゃない。」

 「先生が仮名を書いてくれたから。」

 「この本を読み終わる頃には、きみは今よりずっとたくさんの漢字を読めるようになるよ。そうしたら次の本を持ってくる。その繰り返しをすれば、きみはすぐに私の本くらい読みこなせるようになるさ。」

 「本当かしら。」

 「きみは賢いから。」

 「賢くなんかないよ。」

 「賢いよ。私には分かるんだ。」

 くすぐったくなって、マリは本を抱くようにして笑った。賢いなんて、言われたことはこれまでの人生でなかった。

 「おぼろげな記憶をたどれば、明治三十年ごろでもあろう。神田錦町に在った貸席錦館で、サンフランシスコ市街の光景を映したものを見たことがあった……」

 ゆっくりと、日高が仮名を振る速度に合わせてマリは文字を追う。

 楽しかった。本当に自分が本を読めているような気になった。

 この世には文字があふれている。この世界を構築しているのは文字だとでも言いたげに、どこを見回しても文字、文字、文字、だ。そこからずっと疎外されていた自分が、文字を読めるようになったことで、世界の仲間入りをできるような気がしたのだ。

 嬉しくて嬉しくて、マリは腹這いになった日高の背中にそっと片手を置いた。じわじわと部屋の中を黒く染めていく夜を、二人の傍らの行灯が逞しく跳ね返していた。

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