第47話 家族と共に

 「え?……」

驚いたのは夏人なつとだけではない。ひいらぎもみのりも同じだ。

「あの日」

彩乃あやのが少し遠い目をしながら、ポツリポツリと話し始めた。

「変わり果てた陸玖りくを見て、これが夏人だったらと思ったら、ゾッとした。そんなの耐えられないと思った。だから助かったのが夏人で良かったと思ってしまったのよ……」

「酷い母親でしょ?いくら血の繋がりがなくても、息子には変わりないのに。そんな風に思うなんて許されるわけがない」



 驚いていた3人はどう答えたら正解なのか分からない。ただ、黙って彩乃の話を聞くしかなかった。

「こんな私を大事にしてくれて、夏人とみのりを自分の子供として迎えてくれた龍二りゅうじさんに申し訳なくて……。だから夏人が責任を感じ、水泳を辞めて塞ぎ込んでいても、私はそれでもいい、と思った。大切な一人息子を失った龍二さんの悲しみを思うと、私も夏人も幸せになってはいけないんだと……。私と夏人は、一生罪を背負っていかなきゃって思ってたの」

 話の後半は声が震え、小さくなっていた。そして彩乃の白い握り拳の上に、ぽたぽたと涙が落ちている。 


 暫くの間、沈黙の時間が流れた。

柊は恐る恐る夏人を見た。

 実の母親が息子の幸せを願っていなかった。そんな告白を聞いた夏人は、今どんな表情をしているのか。

 ……夏人、大丈夫かな

だが柊の目に映ったのは、悲しむでもなく、怒るでもなく、冷静に彩乃を見ている夏人の姿だった。



 「母さんの本当の気持ちを知ったのは、みのりから夏人がスイミングクラブに入りたいらしいって相談された時なんだ」

この沈黙を破ったのは、龍二の優しい声だ。

「打ち明けてもらって驚かなかったと言えば嘘になる。でも彩乃が、実の息子の夏人が助かって良かったって思うのは当然だ。もし逆なら僕もそう思うよ。でもだからって、夏人も彩乃も幸せになる権利がないなんて、おかしい話じゃないかな、と僕は言ったんだよ」

柊はその言葉に大きく頷いていた。

「それじゃ、死んだ陸玖が可哀想すぎないか?死んでも助けたかった夏人が、楽しく幸せに暮らせないなんて、陸玖が望んでいるわけがない」

龍二の顔は終始穏やかだが、その声は力強い。

 3人は相変わらず黙ったままだ。


「ちょうどそこに、柊くんと夏人が母さんと話したがってると知ってね。僕も彩乃も、子供達にはちゃんと話そう、と決めたんだよ」


 龍二の隣に座っている彩乃の涙は、大粒になっていた。

「夏人、ごめんね、ごめんね……」

謝る母を見ていたみのりの啜り泣く声も聞こえてきた。



 ……そういうことだったのか

柊は母親が夏人に冷たかった理由がわかったと同時に、夏人は今どんな気持ちでこの話を聞いているのだろう、と不安になった。


 「母さん、ありがとう。本当の気持ちを話してくれて」

その少しハスキーで綺麗な声を聞いた柊は、夏人を見た。そして驚いた。

なんて清々しく美しい表情をしているのだろうか。その顔と声と所作に、柊は心臓が握り潰されるかと思った。


 「母さんも陸玖兄のことで苦しんでいたのは知っていたけど、そこまで自分を責めていたなんて初めて知った」

 下を向いて涙を流していた彩乃がパッと顔を上げた。その目は真っ赤に充血していた。

「あの日から死ぬのは俺だったら良かったのに、とずっと思ってた。でも現実は俺が生かされた。陸玖兄が命をかけて助けてくれたんだ。だから毎日を大事に一生懸命に生きないと陸玖兄に怒られると思うようになった」

 不意に立ち上がった夏人は、彩乃の隣で立ち膝をつき、その小さな手を握った。

「母さん、もう俺に迷いはないよ。これからは陸玖兄の為にも精一杯生きていく。だから母さんも自分の人生を歩いて欲しい。母さんには自分自身の幸せを一番に考えて欲しいんだ」



 みのりも立ち上がり、彩乃を後ろから抱きしめた。

「みのり、夏人、ありがとう。大好きよ」

彩乃の言葉を聞いたみのりは再び泣き出し、龍二もそっと彩乃の手を握った。

よく見ると夏人の目にも、うっすらと光るものがあった。



 柊まで泣きそうになっていた。

椎名しいな一家のこれまでを想像すると、胸が張り裂けそうな思いだが、これで少しは前に進めるのかもしれない。柊はそう安堵していた。


 ……あれ?そういえば俺1人だけ部外者……だよな。

今までの緊張から解き放たれたせいだろうか。柊は突然我に帰った。

 ……こんな家族の大事な話し合いに、俺が入ってるのっておかしくね?

柊はここに居る自分が、急に場違いの様な気がして落ち着かなくなった。


  突然様子がおかしくなった柊に、頭のいい夏人が勘付かないわけがない。

「こうして母さんの気持ちを聞けたのも、あの日から止まっていた家族の時間が動き出したのも、全部柊くんのおかげなんだ」

柊の気持ちを察した夏人が、隣に戻って笑顔を見せた。

さっきまで涙を浮かべていた夏人の美しい目に、柊は吸い込まれそうな感覚を覚え、視線を外せないでいた。



 「ほんとその通りよね!」

みのりが明るい声で同意する。

「柊くんのおかげで夏人だけじゃなく、わたしたち家族も目が覚めたもの」

「そうだな、きっと陸玖も喜んでるだろう。柊くんありがとう」

龍二に頭を下げられた柊は、そんなことないっす、と慌てて首を横に振った。


 「柊くん、これからも夏人のことよろしくお願いします」

改めてそう言った彩乃も頭を下げた。

「いや、本当に俺何もしてないんで。ただ夏人……夏人くんの笑顔が見たかっただけで。なんか俺、すみません。図々しくて……」

照れくさそうに頭を掻いた柊に、まだ目が赤いままの彩乃が言った。

「夏人のこと、恋人として大事にしてあげてね」

その言葉に柊と夏人は目を丸くした。

「え?」「え?」



 狐に摘まれた様な顔をしている2人は、同時にみのりを見た。

その視線に気づいたみのりは、首を大きく横に振る。

「みのりからは何も聞いてないよ。夏人を見てれば分かるよ。これでも親なんだから」

龍二が3人の様子を見ながらクスクスと笑った。


 「ただ、他人と少し違う生き方はしんどいこともあると思う。可愛い息子を心配する気持ちは、世の中の親御さんと同じだからね」

そう言った龍二の表情はどこまでも穏やかだ。

「でも、今日の2人を見て確信したよ。柊くんと夏人なら大丈夫だと」

隣に居る彩乃も大きく頷く。

「夏人が柊くんと一緒に居るのが自然で幸せなら、私たちは全力で応援するよ。もちろん競泳もだ。陸玖と同じように、いやそれより上の景色を見ておいで!」

龍二の言葉に頷いていた彩乃の目に、再び涙が浮かんでいた。



 顔を見合わせた柊と夏人は黙ったまま、深々と頭を下げた。

そしてその2人の手は、もう離れることのない様、固く繋がれていた。






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