第27話 まだ見ぬ世界

 父龍二りゅうじが運転する、ステーションワゴンの助手席に乗っている夏人なつとはご機嫌だ。

「夏人もスイミングやってみればいいのに・・・」

父はハンドルを握りながら、夏人の横顔をチラリと見た。

「僕はいいんだ。陸玖兄りくにいの泳ぎを見ているのが楽しいから!」

嬉しそうな夏人の声を聞きながら「もったいないなぁ・・・」と父は呟いた。

それは、夏人のズバ抜けた運動能力を知っているからだ。



 椎名しいな陸玖の弟になって、半年が経とうとしている。

父と母が入籍して間もなく、椎名父子の住んでいるこの町に、夏人たちは引越して来た。

父は新しい家族の為に、小さいながらも新居を購入していた。

そして、夏人とみのりには、それぞれ部屋が与えられた。

狭い公団住宅に住んでいた2人は、憧れの自分の城に喜び、父に感謝した。


そんな2人を見た父は、母彩乃あやのにこう言った。

「これからの住宅ローンも、払い甲斐があるよ!」


夏人とみのりは転校をし、病気のこともあった母は、再婚をきっかけに仕事を辞めた。



夏人は新しい小学校に馴染めるまで、かなりの時間を要した。

人目を惹く容姿をしているためか、クラスメイトからはよく話しかけられる。

しかし、内向的で人見知りの性格のせいか、うまく会話が続かない。

そんな毎日だった。

それでも、なんとか数人の友達もでき、無事に5年生を終え、春休みに入った。



「俺ずっと水泳をやってるんだ。陸玖って名前だけどな!」

初めて会った時、そう自己紹介をした陸玖を、夏人はまた思い出していた。

助手席でクスクス笑う夏人に「着いたよ」と父が声をかける。

「あ、うん」慌てて車から降りる夏人を、父は不思議そうな顔で見ていた。


夏人は『三好スイミングクラブ北校』の、入り口の自動ドアが開くや否や、塩素とアンモニアが混ざった、プール特有の匂いがする、施設の中に走って行った。



「あ、陸玖兄!!」

2階の見学場所からでも、夏人は陸玖を瞬時に見つける。

上級生ばかりの選手コースで泳いでいる、中学2年の陸玖は、周りの高校生たちと比べても、全く引けを取らない。

それどころか、兄が泳ぐ自由形はどの選手より速く美しい。

夏人の目には、そう映っていた。

 


実際、陸玖はジュニアクラスの頃から、数々の大会で好成績を収めている。

中学生になった昨年は、中総体の県予選で優勝し、全国大会でも入賞しているのだ。

 

このクラブにとって、陸玖は『期待のエース』の1人だった。


プールから上がりゴーグルを取った陸玖が、ふと、2階の夏人に気付いた。

そして、満面の笑みで大きく手を振った。

夏人も笑顔で手を振る。


父の仕事が早く終わる日は、こうして陸玖をスイミングクラブまで迎えに来るのが日課になっている。

その車に便乗して、陸玖の泳ぎを見ることが、夏人の一番の楽しみになっていた。



「夏人!お待たせーー!!」

着替えを終えた陸玖が、ロビーで待っていた夏人と父に駆け寄って来た。

 

陸玖の声に振り返った夏人は、後にいる人物と目が合った。

 あ、陸玖兄のコーチ・・・。

いつも遠目でしか見ていないが、陸玖を指導している日下部くさかべだ、と夏人はすぐ気付いた。

 

「いつも陸玖がお世話になっております」

コーチに軽く頭を下げた父が「最近の陸玖はどうですか?」と聞くと

「お父さんと夏人くんが来ると、絶好調なんですよねぇ」

と日下部は笑いながら答えた。


「コーチに夏人を紹介したくてさ!」

陸玖がニヤリと笑った。

「?」

夏人はキョトンとしている。


「夏人くん」

日下部が、夏人に視線を合わせた。

「・・・はい・・・」

夏人は少しドギマギしていた。

「陸玖から話は聞いてるよ。どうだろう、体験だけでもやらないか?」

「・・・・・・」

なんてことはない、クラブへの勧誘だった。

だが、夏人は迷わず首を横に振った。



日下部は、新しく家族になった夏人の話を、飽きるくらい陸玖から聞かされていた。

キャッチボールも、サッカーも、バスケも全てが上手い。

おまけに運動会でも、マラソン大会でも、ぶっちぎりで足が速い。

生まれ持った運動センスと、体幹の強さ。

スポーツをする者なら、誰もが欲するものを、夏人は既に持っている。


さらにこれを鍛えたら、鬼に金棒だ。

しかし、当の本人はこの恵まれた才能を自覚していないし、活かそうともしない。


「マジもったいないんっすよ!アイツの才能をなんとか開花させたいんです」

「そして夏人には、もっと笑ってほしい・・・です」

幼い頃から苦労してきた弟に、幸せになって欲しい、と陸玖は切に願っていたようだ。

スポーツを通して、仲間と切磋琢磨し、自分と向き合い、努力した先にしか見えない世界を見せたい、とも言っていた。

「でも俺には水泳しかないし。一緒にできることって、泳ぐことだけだから」


可愛い弟を思う陸玖の熱量に負けた日下部が、夏人に入会するよう直談判したのだが、こうしてあっさりと、首を横に振られた。

 自分に自信がなく、控えめな子だな・・・。

 陸玖とは正反対だ。

見事に玉砕した日下部だが、しかし、予感がしていた。

きっと、陸玖の圧倒的な熱量に、夏人も惹き込まれるだろう、と。



「なんであっさり断るんだよー!」

父の車の後部座席に乗り込むや否や、陸玖は夏人にふくれっ面を見せた。

隣にいる夏人は「だって・・・」とモジモジしている。

「どうせ陸玖兄が、夏人は運動神経凄いんですよー、とか言ったんでしょ?」

「その通りじゃん。お前自分がスゲーの、まだわかんないの?」


夏人は俯いて、ボソボソと話す。

「多分みんなよりは、少しできる方だとは思う」

「でもそんなの、たまたまだし。それに、人前でなにかやるのって無理・・・」

陸玖はハァーーーと、大きく溜め息をついた。


「夏人。俺はね、自分の成長にこだわるのがスポーツなんだと思うんだ。誰の為でもない、自分の成長の為に努力した結果が、勝ちと負け、に分かれるだけって思う」

「勝つと嬉しくて、もっと成長したいと思う。負けると悔しくて、もっともっと成長したいと思う」


陸玖は夏人の頭に優しく手を乗せた。

「そうやって、ずっと成長していく努力をした人間しか見れない世界があるんだよ」

「それってどんな世界?」

夏人はいつの間にか顔を上げていた。

「わかんないよ」

陸玖は、ははは、と笑った。

「わかんないから、いつかその世界を見る為、俺は成長するのを止められないんだ!」


「夏人は人前がいや、って言ったけどさ。見ている人って、その選手を応援してるんだよ。その選手が成長する為に努力してきたことを、賞賛して応援してくれてるんだ」

「だから、努力を怠ってきた人間には、応援しない。たとえ勝っても誰も見ないよ」


そして陸玖は笑顔でこう言った。

「見られてる、なんて自意識過剰だよ、夏人。努力もしないお前なんて誰も見ないから。例え金メダル獲ってもね」

笑顔で言ったが、陸玖は「しまった!」と思った。

まだ11歳の夏人には厳しすぎる言葉だ。

 傷つけたかな?

陸玖は、恐る恐る夏人の目を見た。



じっと一点を見ている夏人の目の奥には、鋭い光のようなものが、陸玖には見てとれた。

それは陸玖にとって、想定外のことだ。

いつものように「俺なんて・・・」と俯くだろう、と想像していたからだ。


「陸玖兄!!」

突然自分を呼んだ声に「お、おう!」と陸玖は驚いて、夏人を見た。

「僕、やっぱりクラブには入らない。でも、水泳はやってみたい!!」

「どうすればいい?」

夏人の顔は真剣だ。


 コイツ、こう見えて頑固だからなぁ。

陸玖は夏人をスイミングクラブに入れることは、一旦諦めることにした。

それでも、泳いでみたい!と夏人が言ってくれたことは、なんとしても実現させたい。

「うーーん・・・」

 

数分後、陸玖から提案されたことを、夏人は嬉しそうに、快く承諾した。

「うん!それなら出来そう!」


その提案とは、陸玖が時々息抜きに行く市営プールで、夏人に泳ぎを教えることだった。

「あそこなら、小学生は300円だし、慣れてくれば俺がいなくても、1人で練習できるだろ?自転車でも行けるしな!」


夏人にとって、料金とか、距離とか。

そんなことはどうでもよかった。

陸玖に直接教えてもらえる、そのことが嬉しいのだ。



「じゃ、決まりだな!あ、でも言っておくけど」

陸玖は夏人の柔らかい両頬をムニっと摘みながら、笑った。

「椎名陸玖コーチはキビしいぞ!!」



後部座席の2人の会話を、父はスマホを弄りながら一部始終聞いていた。

「てかさ、親父」

陸玖に話しかけられ、父はハッと顔を上げた。

「車いつ出すの?俺腹減って死にそうなんだけど」

「それに母さんとみのりも待ってるよ!」


ごめん、ごめん、と言った父はようやく車を走らせた。


 

バックミラーに映る2人は、子どもらしく、ふざけ合って笑っている。


しかし兄弟になったばかりのこの2人は、少しずつだが、確実に、成長しているのを父は実感していた。












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