第10話 幼馴染み、という存在
「
シャープペンシルを持っているその手は、左だ。
「え?でも飯は右手じゃん」
「うん、箸は右手。でも基本は左利きだよ」
夏人は相変わらず、顔を上げない。
「お前ピッチャーでしょ?もしかして左投げ?」
「うん」
「打つのは?」
「どっちも」
「スイッチヒッターかよ!お前すげぇな!」
柊は少し興奮しているようだ。
「柊くん・・・」ようやく夏人が顔を上げて、一つため息をついた。
「勉強しようと、と言ったのは柊くんだよね」
夏人は冷ややかな目で、柊を見る。
「お、おぅ・・・。うん、するよ・・・」
柊は大人しく、プリントを広げた。
椎名に「勉強教えてくれ」と頼んでみた時、柊は正直期待はしていなかった。
だが「俺がわかる範囲だったら」と夏人はあっさりと承諾してくれて、柊はその意外さに拍子抜けした。
こうして柊は、マンションの8階にある自宅に、夏人を招き入れている。
学年トップクラスの夏人と、
それにしても・・・。
頭がいいヤツって、ちゃんと勉強してるんだな・・・。やっぱ努力してるんだな・・・。
プリントに向かって、黙々と左手を動かしている夏人をボーッと見ている柊に
「ほら!柊くん!!」と夏人が厳しい目を向けた。
しばらく静かな時間が流れた。
柊も『現国』のプリントに取り掛かっていたのだが、やはり苦手な科目だ。解けない問題が多い。
「なぁ、椎名ここなんだけど・・・」
と柊が指を差した問題文を、夏人が「どこ?」と覗き込んだ。
その時。
夏人のオレンジがかった髪と、柊の黒髪が
柊の胸が、どきりと音を立てる。
慌てて夏人から離れた柊に、夏人は淡々と解き方を教えていた。
だが柊には、夏人のその声は届いていない。
俺、最近どうしたんだろう。椎名といると、なんか調子狂うんだよなぁ・・・。
そしてまた柊の胸がトクン、と鳴った。
「
急に柊を呼ぶ女の声が聞こえた。
「
「
柊は驚きのあまり、思わず立ち上がった。
夏人も驚いて、振り返る。
「えーーっと」夏人と目が合った菜々子も、知らない顔に驚いている。
「・・・同じクラスの子?」
突っ立ったままの柊に、菜々子は聞いた。
「いや、最近知り合った隣のクラスのヤツ」そう言って「コイツは椎名夏人。軟式野球やってる」
と夏人を菜々子に紹介した。
夏人は立ち上がって「椎名夏人です」と小さな声で言った後、ぺこりと頭を下げた。
釣られて、菜々子もぺこりと頭を下げる。
「で、コイツは・・・」
菜々子は、柊が自分のことを『コイツ』と言ったのが面白くなかったのか、少し声のボリュームを上げて、自ら自己紹介を始めた。
「
ニコリと笑った菜々子の口元に、えくぼができる。
「あー。ちなみに」柊がぶっきらぼうに言う。
「菜々子んちは、このマンションの3階」
「ふーん」夏人はあまり興味がないような反応を見せた。
「てか、お前さ・・・」柊が菜々子に強い眼差しを見せる。
「いつも、ノックしろ!って言ってるだろ!そもそもどうやって家に入ったんだよ!」
菜々子もキッと柊を睨みつけた。
「カギ開いてたの!声かけても返事ないし。でもあんた以外のローファーがあったから、てっきり斗真くんでも来てるのかと思って・・・」
「それにノックしないとか、別にいつものことでしょ!なんで今日はそんなに怒るの?バッカじゃない?」
菜々子に指摘されて、柊は『それもそうだな』と、ふと思った。
2人のやりとりをポカーンと見ていた夏人は、慌てて
「藍沢さんって桜茜女学院なんだ。すごいね!難関校だし、お嬢様学校だよね」
と仲裁に入ったが。
「こんな荒っぽい女、全然お嬢様じゃねーよ!!」と嫌味な顔をして笑う柊に
「はぁ?アンタみたいなバカが
「お前、バカバカ、言い過ぎなんだよ!」
「バカにバカって言ってなにが悪いの!」
『火に油を注いでしまった・・・』
夏人は仲裁に入ったことを後悔した。
それにしても・・・。
まだ、目の前で言い合いしている2人を見ながら、夏人は思った。
喧嘩するほど仲がいい、って言うのはこんな感じなのか・・・。
夏人は羨ましいような、どこか面白くないような、不可思議な感情を抱いている自分に気づいた。
そしてなんとなく、居心地が悪くなってきた。
「お茶
と言いながら、菜々子はステンレスのボトルを突き出した。
「・・・。お、おぅ。ありがと・・・」
それを柊は気まずそうに受け取った。
「よかったら椎名くんも飲んでみて!」とニコっと笑い、えくぼを見せる。
「勉強の邪魔しちゃってごめんなさい。この
嵐のように現れた菜々子は、嵐のように去って行った。
菜々子は、あの2人が一緒に勉強しているというより、柊が夏人に、勉強を教えて貰っているのだろうと、理解していた。
柊は高校生になっても、相変わらずよく友達を連れてくるが、夏人は、そんな友達とは少し違う気がした。
顔もキレイだし、たぶんかなり頭もいいだろう。モテそうだ。大人しいタイプと見たけど、それだけではなく、どこか不思議で魅力的な子だ。
「祐介とは真反対のタイプだなぁ」
菜々子はエレベーターの下りのボタンを押した。
「椎名ごめん!」
柊は手を合わせて、夏人に謝った。
「驚いたよな、急に・・・。菜々子いつもあんな感じだから。ガサツっていうか、乱暴っていうか・・」
「ううん」と首を横に振った夏人は、どこか機嫌が悪そうだ。
「藍沢さん可愛いね、勉強もできるし。仲いいんだね」
夏人はやっぱり、何処となく不機嫌だ。
「可愛いかぁ?あれ」柊はうーんと、唸った。
「あ、そうだ」
「菜々子のお茶飲む?」
思い出したように、柊はさっき渡されたボトルを指差すと、夏人が小さく頷いた。
座って待ってて、と言って部屋を出る柊の背中を、夏人は目で追っていた。
柊が持ってきたのは『抹茶茶碗』だった。茶碗の外側はキレイな薄い緑に色付けされていて、そこに小さな紅い花があしらわれている。
注がれた
「これ、藍沢さんが点てたお茶なの?」
「そう。アイツ、あんなガサツな性格なのに、茶道部なんだよ。似合わないだろ?」
クスクスと笑いながら、柊も抹茶茶碗に口をつける。
「お茶のこと俺は全然わかんないけど、菜々子が点てたお茶は美味いし、どこかホッとするっていうか・・・。なんかムカつくけど」
さっきまで、菜々子の事を散々悪く言ってたのに、急に褒め出した柊に
「やっぱりすごい仲良いんじゃん」と夏人はポツリと言った。
「え?なに?」
「ううん、なんでもない。それより・・・」夏人は柊の部屋の壁にかかっている時計を見た。18時半になろうとしている。外は既に暗くなっていた。
「そろそろ帰るね」と夏人が立ち上がった。
慌てて柊も立ち上がって「下まで送るよ!」と椎名の後を付いてくる。
「今日はありがとう!椎名、教えるのすげぇ上手いよな。わかりやすかった!」
マンションのエントランスで柊は笑顔で話している。
「明日も教えてくれるよね?」
そう言った柊を、夏人は少し睨むように見た。
「・・・!ちゃんと勉強するし。それに」柊は両手を合わせながら
「菜々子には来ないように言うから!」
お願い!と夏人に懇願した。
「別に藍沢さんがどうのじゃないけど・・・。気が向いたらまた明日、来るよ」
「マジ?ありがとう!」
柊は、また子どものような笑顔を夏人に向けた。
「じゃ、また明日学校で・・・」
夏人がマンションの自動ドアから出て行こうとした瞬間、柊が言った。
「気をつけて帰れよ!ありがとう!」
夏人は振り返らず、左手を軽く上げた。その夏人はなぜか顔を赤らめていたが、無論、柊には見えていなかった。
椎名を見送った柊は考えてた。
なんか椎名、機嫌悪かったよな。俺が真面目じゃなかった?いや!菜々子のせいだな!
あの、バカ!キツく言ってやる!
だが柊は、菜々子の突撃があったものの、嫌いなテスト勉強が今日は少しだけ楽しく感じていたのだ。
「また明日、来てくれるかな」
柊はエレベーターの上りのボタンを押した。
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