第61話 今川義元、討伐令に踊らされる

 天文24年(1555年)3月俺はもうすぐ21歳になる。

 波切城の造船場から


『織田家の旗艦となる海進丸が新たに出来上がった41センチ主砲を載せる艤装作業もついに終えたので、進水式をしたい。』


と言う連絡があったのだ。

 連絡方法も前世の知識モールス信号(として一番有名なのがSOSの「トトトツーツーツートトト」・・・---・・・)というのにヒントを得て織田式信号を考案して配下の者に覚えさせた。

 今回使ったのは灯台の明かりを使ったものだ。・・・まだ電信技術は開示していない。

 灯台から狼煙が上がり、灯台の明かりが

『パッ・・パッ・・・パーッ』

またたく光の間隔を使ったモールス信号(織田式信号)によって連絡を取り合ったのだ。

 

 俺が短い間に桑名新港を攻略し、伊勢や志摩を手に入れることができたのは海運業や海軍の力であったと言っても過言ではない。

 その俺の基盤である船を守り、船の航行を助けるために俺の領地内に出来るだけ多数の灯台を設置していたのだ。

 この灯台が情報伝達にも役立っていたのだ。


 俺は多数の関係者が見守り、陣太鼓が打ち鳴らせる中で波切城の港で新造なった後装式の鋼鉄製の41センチ主砲を前後に1門づつその主砲の後ろには10センチ2連装砲塔を副砲として積載して艤装が終了した

『海進丸』

の進水式を行った。

 波切城から外洋へと海進丸が白い帆を張って静かに進む。

 海進丸に随行するように九鬼家の関船2隻と桑名からここまで俺達を運んだ欧州丸と随行船のヘンリー8世号が続く。

 俺は外洋へ出た直後に灯台の光が瞬き


『将軍足利義輝が織田家に対して討伐令を出した。』


との報告を受けた。


 織田信長となった俺は順風満帆なように見えるかもしれないが、俺に対して恨みを抱く者もいる。

 その一人が塚原卜伝の奥伝「一之太刀」を伝授され剣豪将軍として名高い、当時の室町幕府の第13代将軍の足利義輝(在職1546年~1565年)である。

 この人、俺があの世に送った北畠具教きたばたけとものりの兄弟子に当たるわけだ。

 早くも俺に対する討伐令がその将軍足利義輝から発せられたのである。


 その討伐令は実兄一郎が一向宗の坊官である下間真頼しもつましんらいに成り代わり将軍足利義輝をそそのかした上に、下間真頼の地位を利用して造り上げられたネットワークによって津津浦浦まで届けられたのだ。

 これに素早く呼応したのが織田家と隣接する宿敵今川義元である。


 天文18年(1549年)11月に庶兄信広が城主をしていた安祥城あんしょうじょうに今川義元の軍師、太原雪斎たいげんせっさいを主将に押し立てて約8千の兵で押し寄せた。

 後年「安祥城の戦い」と言われる戦いで、史実では庶兄信広は敗れて捕虜になり、松平犬千代(後年の徳川家康)と捕虜交換が行われる等、織田家自体が雌伏して時を待たなければいけなかったのだが、現世では俺がその戦いをひっくり返して大原雪斎を捕虜にして勢いに乗った庶兄信広はその後、親父殿と共に松平(徳川)家の主城である岡崎城まで手に入れたのだ。

 その岡崎城には手柄を上げた庶兄信広がえられていた。

 今川義元は軍師、太原雪斎と岡崎城を失った事により、今度は今川家が雌伏して時を過ごしていた。

 今川義元は太原雪斎を失ったとはいえ彼が率いた兵8千名は逃げ戻ってほぼ無傷であり、今川義元も雌伏の時を無駄に過ごしていたわけではない馬を飼い兵を養って、約3万もの軍団を造り上げた。

 将軍足利義輝の発した織田信長討伐令を受け取った今川義元は


「好機到来!」


と言って討伐令を握って小躍りしたという。


 この軍団の主将は今川義元、先鋒には重臣である朝比奈泰能あさひなやすよしを配して一路奪われた岡崎城を目指した。

 今川義元の嫡男である氏真うじざねは居城である今川館(現在の静岡県静岡市にある駿府城)に籠っている。


 3万もの軍勢が動けば嫌でも情報が入る。・・・初陣での情報戦の重要性は身に染みている。

 直ぐに洋上にあった海進丸にも織田式信号で将軍足利義輝の発した討伐令に続いて


『今川義元動く、目指すは岡崎城、その数3万。』


との報が入った。

 俺は直ぐに欧州丸と九鬼家の関船を引き連れて庶兄信広を救うべく三河湾に向かう。

 向かい始めるとしばらくしてから


『同盟者斎藤道三の息子斎藤義龍謀反』


との凶報が届いた。

 それは俺と同様に親父殿が息子の信広を救うべく岡崎城に向かった隙を突かれて謀反が起こった。


 当時親父殿は平手政秀さんを連れて随行船のヘンリー8世号に乗り込み洋上で新造船の海進丸の雄姿を見ようと船出していたところだった。

 親父殿は

『今川義元の率いる軍は3万』

という驚異的な軍団であったことからとりあえず俺の率いる海進丸の艦隊と合流すべく動いてしまった。


 これが呼び水となって斎藤義龍を謀反へと駆り立てた。

 織田家の同盟国は俺の義父美濃の斎藤道三の他は志摩半島の九鬼家(九鬼水軍)と伊賀の国や甲賀の里と柳生の里があるが、その美濃の斎藤道三の足元をすくったのが嫡男を廃嫡された斎藤義龍である。

 それでは謀反を起こした斎藤義龍とはどのような人物だったのだろうか?


 義龍の母親は前領主の土岐頼芸ときよりあきの愛妾で深芳野みよしのが大永6年(1526年)12月に斎藤道三に下賜された。

 問題の義龍は大永7年(1527年)6月10日に生まれたとする説がある。

 その説を採るならば義龍の父親は土岐頼芸であった可能性が高い。


 道三も実子でもない義龍を大うつけと罵り、義龍を廃嫡して正妻との間に出来た孫四郎を後継者として据えた。

 ただ道三から大うつけと罵られていた義龍ではあるが、歴史上から見ても弘治2年に起きた

『長良川の戦』

で斎藤道三を攻め滅ぼした手腕から凡庸な人物では無かったと思われる。

 史実では天文24年に元号が変わり、弘治元年(1555年)にその孫四郎は義龍の策略によって暗殺され、その翌年、長良川の戦で道三も首をとられているのだ。


 史実から本小説に戻る。

 将軍から追討令を受けた義龍はまず、織田家と同盟している父親殺しを決意する。


「道三が実父では無く血の繋がりも無い事。」


を母親の深吉野から聞いた義龍は「親殺し」の汚名を着ることが無くなり、心が軽くなった。

 彼にとっては弟の孫四郎とも血の繋がりの無いことから殺す事に何の心の負担、良心の呵責かしゃくも無くなった。

 義龍にとって将軍足利義輝からの織田信長討伐令は江戸幕府を終焉しゅうえんに導いた

『錦の御旗』

と同様である。

 史実通り後継者に据えられた孫四郎を暗殺して義龍と道三は対立した。

 将軍足利義輝の討伐令という錦の御旗を振っただけで美濃の国内で道三に加担する者はいなくなった。


 そのうえ同盟国の次期当主の織田信長は


「新たに出来た船の進水式で出かけた。」


等と言う聞いたことも無い行事を思いついたと言って出かけた。

 大うつけの大うつけたる由縁ゆえんあかしである。

 さらには


「当主の織田信秀と右腕と頼む平手政秀までもが志摩半島で出来た新造船を見ようと西洋の船に乗って出かけた。」


と言うのだ。

 これを知った義龍は好機到来と謀反を実行したのだ。


 俺は進水式を終え一路三河湾を目指している時に


「義龍謀反」


の報を受けた。

 俺は海進丸の船上でこのまま岡崎城を目指すか反転して道三を救いに行くべきか、どちらを優先すべきかで迷った。

 義父の斎藤道三は「まむし」と呼ばれるほど戦上手であり現領主である、廃嫡された斎藤義龍が謀反をくわだててもそれほど兵は集まらないと踏んだのだ。・・・討伐令の権威の威力がこれ程とは分からなかったのだ。

 それに道三が亡くなるのは史実では来年の弘治2年(1556年)でまだ有余がある。・・・う~ん俺によって歴史の流れが大きく変わっている事に気が付いていなかったのだ。


 ただ安祥城あんしょうじょうの時もそうだが、庶兄信広が守る岡崎城を取られると地理的に名古屋城の喉元に短剣を突き付けられた形になり苦しいことになる。

 それに岡崎城を取られると知多半島と渥美半島に囲まれた三河湾の制海権を失いかねないのだ。


 俺は決心をした。

 岡崎城を優先すると!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る