ハルキ4.距離感バグ少女
おれが琴音に初めて声をかけたのも深夜で、この県営住宅が立ち並ぶ団地の前だった。確か去年の夏休みぐらいだったと思う。
その頃、おれはまだ明仁からバイクを借りていなくて、雄介とも仲良くなってすらいなかった。だから、明仁と二人して、おれが自転車でも来られる場所で駄弁るのが定番となっていた。
その日の夜は、明仁とライターオイルを地面に垂らして小火を起こして遊んでいた。深夜のワケがわからない高揚の中、おれと明仁はひとしきり悪ふざけに笑い合って、日付を超える頃に別れたのだ。琴音とは、その帰り道で遭遇した。
彼女は、県営住宅の入り口付近の自販機の隣、花壇の縁石に座り込んで、グレープファンタを飲みながらスマホを見ていた。ブルーライトの毒々しい光に照らされたその顔に、おれは見覚えがあったのだ。
隣のクラスで、いつも一人静かにしている女子。夏場もUVカット素材と思しきパーカーを着ている女子。彼女は今も、学校で着ているものと同じパーカーを着用して、袖口から指先だけ出してスマホを握っていた。
「夜中、女子独りだと危ないよ」
優等生って感じでもないけれど、ヤンキーにも見えない。そんな子が、羽虫のたかる自販機の影に潜んで夜を過ごしていることが、おれはどうにも気になって声をかけてしまった。
「ありがとう」
急に話しかけられたのに、琴音は緩慢な動作で顔を上げると、警戒心を全く感じさせない笑みを浮かべておれを見つめた。
「
確認すると、彼女は大きくこくりと首を縦に振った。
「うん。君も?」
「まあね。隣のクラスだから、顔見たことあると思って」
「そっか。あたし記憶力悪いから、あんまり覚えてないんだ。ごめんね」
琴音はそう謝ってファンタを飲むと、「座る?」と言いながら自身の隣を視線で指し示した。
おれが見つけなかったら、この女子は不審者に目をつけられていたのではないだろうかと、自転車のスタンドを立てつつお節介な懸念が脳裏をかすめた。おれは琴音の物理的にも心理的にもバグった距離感の近さに困惑していたけれど、彼女をひとり残して立ち去るのも気が引けて、互いに自己紹介をしながらこわごわ隣に座った。
「ファンタ好き? 飲む?」
琴音が一口飲んで、それから蓋を開けっぱなしのペットボトルをこちらの口元に寄せる。流石に断ったが、琴音はそれをさして気にしない様子でもう一口飲んだ。
「君、この辺に住んでるの?」
「いや、友達と遊んだ帰りだよ」
「そか。あたしん家はこの
「だろうね」
でなければ、こんなコンビニすらない県営住宅地の入り口で、女子高生が暇を潰しているはずがない。後ろを指差して自分の部屋のある棟への行き方を説明している琴音の、一生懸命な身振り手振りを眺めておれは肩の力が抜けた。距離感がおかしいのは間違い無いが、そこに他意はないらしい。
琴音がまたペットボトルに口をつける。初めて喋る女子と二人並んで無言、自販機の単調で重たい作動音ばかりが気まずさを増長して、おれはポケットを探った。
「タバコ嫌いだったりする?」
「吸うの?」
「まあね」
「アタシそんなに気にしないよ。ママも吸うし」
許可が出たところで、おれは心置きなく10cm足らずの白い筒の先に火を灯した。タバコを吸っていれば、会話をしなくても不自然ではないよな。
「遥希はさあ、ヤンキー?」
まず、急に呼び捨てされたこと、次に、拙さすら感じられる直接的な問いが投げつけられたことに動揺して、大きく煙を吸いかけていたおれは咽せて咳き込んだ。
「な、なんて?」
「タバコ吸うから、そうなのかなって」
「別に……不良じゃなくてもタバコくらい吸うよ」
自分で言っておきながら全く信頼できない言い訳を返したが、琴音は「そっかあ」と疑う素振りは見せなかった。
「あ……えっと、琴音こそ夜中に外に出て何してんの」
不意打ちをくらった仕返しに、おれもまた恥を捨てて琴音を呼び捨てにしてみた。しかし、琴音は表情を変えずに団地の奥を振り返って答えた。
「お散歩だけど」
「ふ、ふうん。危ねえし、女子一人でうろつくのは止めたら」
「危なくなったことないよ?」
「危なくなるかもしれないから、ってこと。誰も見てないとこで、不審者に襲われたら助けてもらえないだろ」
「んー、そうかも」
どうにも意思疎通が難しくて歯痒い気持ちが湧いた。一方で、きょとんと首を傾げる彼女にわかるようゆっくり話して、そうすれば彼女が納得して笑顔を浮かべるという一連のやり取りは、自販機の雑音や視界をかすめる羽虫の存在が気にならなくなるほどに心地よかった。
「だから、夜中は外に出ないほうがいいよ。早く帰りな」
「それはいや」
膝小僧に頬をくっつけながら、琴音はにこりと笑って拒否した。
「なんでだよ」
「だって、もうちょっと外にいたいもん」
「帰りたくないの?」
「遥希も帰りなよ。親が心配するよ」
痛いところを突かれて、おれはばつの悪さに言葉に詰まらせた。言い訳を考える時間が欲しくてタバコをふかすと、細い指が袖を摘んで「ねえねえ」と返事を急かした。
「おれ、家がないんだよね」
冗談を返せば、答える気がないことくらい伝わるだろう。そう思って告げると、琴音がおれの袖から指を離した。
「ほんとに!?」
「なんで信じるんだよ」
予想外に、琴音は目を丸くして少しのけぞった。おれはつい、返事を煙に巻くことを忘れて冗談であることを自分から明かした。
「だって、真剣そうに言うんだもん。友達んとことか、ホテルとかにさあ——」
琴音があまりにも躍起になって言い訳するので、おれは耐えられなくなって声を上げて笑った。
「普通信じるかよ」
「嘘つきだと思わないじゃん」
「ははは、ごめんごめん。でも……嘘じゃないよ」
気が緩んだ拍子に本音が飛び出た。
「ええ!? どっち」
「半分ほんと、半分嘘」
「何それ」
渋い顔をする琴音に解を与えないまま、おれはタバコを踏み潰して火を消し、縁石から腰を上げた。さすがにそろそろ家に帰らなければ、明日はまる一日外出禁止にされかねない。
「おれ帰るから、琴音ももう家に行けよ」
「ええ、もっといてよ」
座り込んで動かない琴音が、眉尻を下げておれを見上げている。「分かったよ」以外の返事が思いつかなくて、おれは無言で琴音と対峙した。それをどう思ったのか、琴音は目を伏せて小さく嘆息すると、名残惜しそうに立ち上がった。
「分かった。危ないんだもんね。ばいばい」
「ちょ、ちょっと待って」
琴音が手を振って団地の中に去りゆくので、おれは焦って声をかけた。距離の詰めかたとは対照的に、あっさり踵を返す彼女の姿に、おれの方が別れ惜しくなってしまった。それを悔しいと思いつつも、それでも引き止めてしまった理由を、この時のおれは自覚していなかった。
「インスタやってる?」
「うん」
「教えてよ」
「いいけど、あんまり更新しないよ?」
「違う……DMするから」
琴音が目を瞬かせて立ち尽くしている。その反応は、おれの意図するところが伝わらなかっただけなのか、まさかダイレクトメッセージの存在を知らないのか。どちらも同じくらい考えられる気がした。
「夜中遊ぶ時、連絡するよ」
「————やた!」
琴音が両の拳を握って破顔した。それだけのことで、口元が勝手に緩むのを堪えきれず、身体中が軽やかで駆け出したい衝動に駆られた。顔が火照って、蒸されたぬるい夜風すら肌に心地よい。
なのに、胸だけがきつく締め付けられて息苦しくもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます