11-3 山を越え谷を越えて

 とうとう出発の朝だ。

 昨夜エツコに別れを告げてから暫くメソメソしていたケンシロウだったが、今朝起きてからはすっかり新たな地への旅立ちに興奮しているらしい。

「アキト、長野ってどんな所だろうね? 山がたくさんあるんだよね。動物に会えたりするかな? ウサギが出たりする? リスもいたらいいなぁ」

 東京から長野へ向かうバスの車窓を眺めながら、ケンシロウはウキウキした様子でおしゃべりが止まらない。

「サファリパークに行くんじゃないんだぞ。それに、山には可愛い動物だけじゃない。熊が出るかもしれないぞ」

「く、熊?」

「それにヘビもいそうだよなぁ」

「うわぁ。どうしよう。そんなの出たら、全部アキトが退治してね」

「はぁ? 何で俺が全部退治しなきゃいけないんだよ」

「だって、オレは身体も小さいし、力も弱いし。Ωだからね」

「都合のいい時だけΩを押し出して来るな」

 アキトとケンシロウは笑い合った。


 バスは高速道路に乗り、グングンスピードを上げて行く。

 車窓から広がる景色は都会のビル群から次第に山や田畑へと変わっていった。

 何本もの長いトンネルを貫き、深い谷を渡り、バスは緑の中をひたすら駆け抜ける。

 朝からはしゃぎ過ぎて疲れたのか、いつしか隣ではコクリコクリとケンシロウが船を漕ぎ始めた。

 アキトは一人で静かに流れる車窓を眺めながら、これから始まる田舎暮らしに想いを馳せた。


 バスが龍山荘の所在する街の最寄りのバス停に到着した頃には、すっかり時刻は昼過ぎを回っていた。

 朝早く東京を出てから、早くも四時間以上が経過している。

 わかってはいたが、随分遠くまで来た気がする。

 これまでずっと都会生まれ都会育ちだったアキトにとって、バス停に降り立った瞬間から、その澄んだ田舎の空気に心身が癒されていくのを感じた。


 龍山荘の女将さんがバス停の近くまで二人を迎えに来てくれているという。

 アキトとケンシロウがバス停の近くをキョロキョロ探していると、

「ニカイドウさんとマナベさんですか?」

と声をかけられた。


 見ると、歳にして六十代とおぼしき女性が二人に手招きをしている。どうやらこの人がこれから二人の雇い主となる民宿の女将さんのようだ。

「はい。ニカイドウ・アキトです」

「マナベ・ケンシロウです」

 二人が頭を下げると、その女将さんはニコニコしながら

「龍山荘の女将をしているオザワ・アケミです。これからよろしくね」

と挨拶をし、車に乗るように指示を出した。

 アキトが話した時の印象そのままの、優しそうな田舎のおばさんだ。

 この人が雇い主ならこれから安心して仕事が出来そうだ。

 アキトはほっとする感覚を覚えた。


 アキトとケンシロウが乗り込んだ車は早速龍山荘に向かって出発した。

 アキトとケンシロウはアケミに龍山荘のことやアケミ自身のことについて様々な質問を投げかけた。

 アケミによれば、彼女には現在配偶者はなく、一人で民宿を切り盛りしているのだという。

 だが、もうアケミも年を取り、体力的に民宿を一人で続けて行くのは不可能になって来たため、後継ぎを探すという意味でも求人を出したということらしい。


 ただ民宿で働くつもりだったアキトとケンシロウは、後継ぎを期待されているということに驚きを隠せなかった。

「いいんですか? 俺たちは今日がアケミさんとの初対面な訳だし、面接一つしていないのに」

 すると、アケミは微笑をその口元に湛えながらアキトの質問に頷いた。

「いいのよ。だって、あなただから、わたしはすぐに雇うことにしたんだから」

「え、俺だから?」

 アキトは驚いてバックミラーに映るアケミの顔をまじまじと見た。

 アケミは相変わらず、穏やかな表情を崩さずに頷いた。

「ええ。あなただから」

「でも、どうして? 俺と会うのはこれが初めてなのに、何でそんなことまで言えてしまうんですか?」

「それは……そうね。何でかしら」

 アケミはそれ以上を語ろうとはしなかった。


 そんな二人の様子をじっと見ていたケンシロウがその時、小さく「あっ」と声を上げた。

「何だ? どうかしたのか?」

 アキトが尋ねると、ケンシロウは慌てて目を逸らせた。

「い、いや。何でもない。気のせいかもしれないし……」

「何だよ。隠さずに言えよ」

「言わない!」

「言わないとこうするぞ」

 アキトはケンシロウの脇腹をくすぐり始めた。ケンシロウがキャッキャと笑い声を上げる。


「二人共、仲がいいのね」

 アケミがニコニコしながらそんな二人の様子をバックミラー越しに眺めている。

「そりゃ、オレたち運命の番だし?」

 ケンシロウが得意気にそう言って、ニッとアキトに笑いかけた。

「そうなの。運命の番ね……」

 アケミは相変わらずニコニコしながらそう相槌を打ったが、その口元が微かに揺れるのをアキトは確かにその目で見たのだった。

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