幕間 ルミナス王国にて
◇◇◇◇
ノックの後、執事長とともに、ルミナス王国宰相は、執務室に入室した。
王太子アリオスはペンを止め、喜色を浮かべて立ち上がる。
「宰相! ここに来てくれたということは、父上の返事を持参してくれたのか!?」
執事長が扉を閉めて退席するのを見計らい、ルミナス王国宰相はきっちりと十五歩でアリオスの執務机の前で立ち止まった。
「その件については後日また」
途端に、アリオスは革張りの椅子に崩れるように座った。
「どうしてなのだ! なぜ父上は、わたしとメイルの結婚式を
怒鳴り、爪を噛む。
宰相はそんな王太子を一瞥し、執務机の上を眺める。ちらりと侍従を見ると、こちらも宰相の瞳を見返し、頷く。事務処理能力についての評価はそれで伝わった。
この王太子に足りないのは女を見る目だけですよ。
そんな顔だった。
「おまけに、外出する時はメイルを同伴するな、というし……」
激しい貧乏ゆすりに、宰相はアリオスに視線を戻す。
端正な顔立ちだ。母親譲りの容姿に、父親譲りの体格。
どこに出しても恥ずかしくない我が国の王太子。
だが。
妃があれではどうしようもない。
ふう、と小さな息を吐いた時、アリオスの背後にある窓から、女たちの笑い声が風に乗って聞こえて来た。
「ああ。メイルと貴族の娘たちが庭で茶会をしているんだ」
目をすがめて窓を見ていると、アリオスが満面の笑みで説明してくれた。
「パーティに連れて行ってやれないんだ。代わりに貴族の子女をこの屋敷に呼ぶぐらいいいだろう」
「ただいま、メイル嬢は王太子妃になるための教育期間中と伺いましたが」
やんわりと指摘する。
外国語がなにひとつできないのだ。まずは会話、それからマナー。覚えることは山ほどあるし、各国の要人の顔と階級も覚えてもらわなければならない。ダンス、ピアノ、教養のための古典芸能。あの娘が唯一まともにできるのは、ダンスだけではないか。
「なにごとも息抜きは必要だ。可哀そうじゃないか。この前まで、王太子妃とは縁のない生活をしていたんだ」
むっとした表情でアリオスが言い返す。
その王太子妃になりたいから、シトエン嬢を追い出したんだろう、と怒鳴りつけたい気持ちを宰相はぐっとこらえた。
「さようでございますか。本日、お邪魔した用件はこちらにございます」
宰相は、背後で控える自分の文官を振り返る。
文官は進み出ると、銀盆にのせていた一通の手紙をアリオスに差し出した。
「招待状? メイルを連れて行っていいのか?」
受け取った途端、アリオスが嬉し気に笑うが、その中身を見て顔をしかめた。
「……これは、ひょっとしてシトエンと、あの王子の結婚式か?」
「さようでございます」
宰相は無表情で応じる。
寛容な国、というべきか、
あのティドロス王国は数か月後に開催される、シトエン嬢とサリュ王子の結婚式にアリオス王太子を招待しようとしているのだ。
「……父上はなんと?」
アリオスも困惑している。
「殿下にお任せする、と。メイル嬢をお連れしても良い、とのことでございます」
あの外国語も話せず、お辞儀もまともにできず、男に
「そうなのか!」
途端に、アリオスは破顔した。
「ならば行こう。いや、そうだな。よく考えれば、シトエンには可哀そうなことをした。行って祝福してやるのもよかろう」
可哀そうなことをした?
してやるのもよかろう?
どの口が……。
どの口が言うのか。宰相は拳を握りしめる。
「殿下は、シトエン嬢のその後の噂をお聞きになりましたか?」
煮えくり返る怒りを必死に抑え込み、震えそうになる唇を引き絞る。
「噂? あの娘の?」
訝ったのち、アリオスは非常に嫌な嗤い方をした。
「なんだ。もう破談が近いのか。あの……、なんといったか、熊の王子。あの王子もシトエンの忌まわしい身体に嫌気がさしたか」
はは、と笑い、アリオスは招待状を机の上に放った。
「陰気な娘だしな。メイルのように、ほら。ほがらかに笑うわけでもなし。いつも、屋敷にいて、社交界に連れて行ってもはしゃぐわけでもなし」
屋敷にいたのは、お前が閉じ込めていたからだ。
社交界には仕事に行くのだ。はしゃいで楽しむためではない。現に、シトエンがいなくなったいま、社交界の、特に若年層はがたがただ。あのシトエンという娘は、あんなに虐げられていたのに、王太子妃として、しっかり社交界で手綱を締めていた。どれだけ悪口を言われようが、その位でもって、取り仕切るだけの力を持ち、見せつけていたのだ。
それを、この王太子は……。
「シトエン嬢は、非常に優秀で、かつ、サリュ王子に溺愛されている、とか」
宰相がぴしゃり、と言い放つと、アリオスはぽかんと口を開いた。
「……は?」
アリオスが間の抜けた声を上げる。
「領民が苦しむ風土病のようなものを治癒せしめた、と。その領地の持ち主というのが高位の者であり、かつ、サリュ王子と双璧をなす者であったためティドロス王はいたく感激なさり、わざわざタニア王国に使者をやって感謝の意と」
宰相は咳払いをする。
「鉱山資源に関して特別な取り計らいをする契約を持参した、とか。今後、新たな貿易路の開発が行われるのでは、とわれわれは踏んでいます」
アリオスは咄嗟に立ち上がる。がたん、と背後で椅子が倒れた。
「かの国は、北から西の国境地をサリュ王子がしっかりと守り、かつ、その右腕と呼ばれる伯爵が東を押さえています。あちらの王太子は国内で絶大な人気を誇り、次代も安泰」
それなのに、お前は、と宰相は堪える。
「はばかりながら、王太子。シトエン嬢にそのような才があるのをご存じでしたでしょうか」
アリオスは、何も答えない。
ただ、机についた手が、細かく震えている。
「……そんなことはあり得ない。あの娘は……、あの娘は、ただの気味が悪い娘だった」
絞り出すように言う。
「
ため息交じりに宰相は言った。
「そうだ! あのとかげのような……」
「王太子殿下は、ご覧になられたのですか」
「……え?」
「その、竜紋でございます」
宰相は一歩、彼に近づいた。
「シトエン嬢に施された竜紋を、ご覧になったのですか」
宰相は、たっぷり50は心の中で数を数えたが、返事はない。アリオスはうなだれたままだ。
「ご覧になっていない?」
それにも返事はないが。
返事がないのが、返事だ。
宰相は内心で舌打ちした。心の中で王太子を何度も殴った。
「
「……え?」
ゆっくりとアリオスが顔を上げる。
「もちろん、シトエン嬢のものではありません。タニア王国に知己がおりまして。竜紋を持つ貴き方から、特別に拝見する栄誉を得ました」
それぐらい、特別なことなのだ、と宰相は心の中で何度も念を押した。
すごいことなのだ。素晴らしいことなのだ。一生に一度あるかないかなのだ、と。
そんな娘を、お前は
「その方は男性でしたが、ふくらはぎに竜紋をお持ちでした」
「う……、うろこのようであったろう! 醜いとかげのような!」
前のめりになってアリオスが唾を飛ばす。
「いいえ」
宰相はきっぱりと首を横に振った。
「桜の花びらのような……、小指の爪ほどの刺青が、よっつほど。円を描くようにふくらはぎに描かれておりました」
「よ、……よっつ?」
アリオスが呟く。宰相は親指と人差し指で円を作って見せる。
「これぐらいのものです。非常に小さないものなのだ、と驚いた覚えがあります。みな、このような大きさなのでしょうか、と尋ねたところ、女性はさらに小さい、と、その方はおっしゃっていました。刺青は、おおくてふたつだろう、と」
「なぜ、それを言わぬ!」
アリオスが叫ぶ。
宰相は大きく息を吸い込み、怒鳴り飛ばした。
「口にするのも
宰相は勢いのまま、執務机を叩きつけた。
びくり、とアリオスが肩を震わせる。
「見たことさえも口にしてはならぬ! 形さえ言葉にしてはならぬ! 存在そのものが高貴であり、尊い存在なのだ、竜紋とは! それを授けられた栄誉がなぜわからぬ! お前はそれを、みすみす失ったのだ! 手放したのだ! こうやって教えてやらないとわからないぐらい愚かなのかっ!」
「閣下」
背後で部下の文官が小さく呼びかける。
宰相は息を整え、姿勢を正した。
「失礼しました。また出直してまいります」
王太子に小さく会釈をし、宰相は背を向ける。
もう、うんざりだ。
文官が深く王太子に礼をするのが目の端に見えた。このまま、退席しよう。これ以上こいつの顔を見ていられない。
「ど、どうすればいいのだ!」
背後から王太子の声が追って来る。
どうすれば?
はは、と宰相は笑う。
「あの婚約式で、シトエン嬢を娶ればよかったのですよ」
振り返り、きっぱりと言う。アリオスは微動だにしない。
「ですが、殿下は失ってしまわれた。われわれも、言葉を尽くしたが、タニア王の怒りは解けなかった。もう、どうしようもありません。ですが、手は打ってございます」
淡々と続ける。アリオスは蒼白な顔でこちらを見ていた。
「我が国のものにならないのなら、誰のものにもならないようにすればよろしい。それしかない」
言い放ち、宰相は扉を開く。
いまだ、知らせは届いていないが、さまざまな手はずでシトエン殺害計画は実行されつつある。
高熱を発するほど体にあわない桃やりんごを食事に混ぜようとしたが、これは事前にばれてしまった。次に、カフェにいるところを強襲したが、さすがティドロスの冬熊と名高い第三王子だ。あっさりと撃退してしまった。なんらかの理由で野営を張った時は好機だとおもったが、隙が無い。
だが、この国にも暗殺の精鋭はいる。
(申し訳ないが、消えてもらおう)
惜しい娘だった。
ほう、と宰相は小さく息を吐く。
きっと、タニア王国と我が国の絆を強固にできる存在になれたに違いない。
実際、ティドロス王国ではそうなのだから。
王太子の執務室から出るとき、窓からにぎやかな女たちの笑い声が聞こえ、宰相は今度こそ盛大に舌打ちをした。
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