第26話 ただひとりの、あなたが……
◇◇◇◇
次の日の午後、おれはヘドナ領領主と並んで、廊下を歩いていた。
本来であれば、昨日宿泊すべき屋敷だ。
「姫の体調が戻るまで、我が家であれば幾泊でもなさってください」
領主は、鷹揚に告げる。
おれは深く頭を下げ、昨晩警護の兵を遣わしてくれたことと、シトエン嬢のために二・三日部屋を貸してもらえた礼を再度伝えた。
「貴卿から受けた手厚いもてなしについては、父上にも報告させていただく」
最後にそう伝えると、領主はいたく恐縮し、「本当にお気になさらず」と言ってくれるが……。
実際、助かったのは本当だ。なにしろ野営だ。
シトエン嬢がなにに狙われているのかわからない今は、警護には自信があるとはいえ、兵を差し向けてくれたのは心強かった。
「いやしかし……。素晴らしい姫ですな」
領主は、シトエン嬢の寝室に先導してくれながらそんなことを言う。
おれや副官のラウルはさっきまで天幕の片付けや、領主への挨拶、そのたもろもろをこなしていたのだが、シトエン嬢は体調のこともあるので、先に寝室にて休ませてもらっている。
「ええ、そう……、だが」
曖昧に頷く。初対面ではないのか、と首を傾げると、領主は笑った。
「噂が国内中に駆け巡っておりますよ。なんでも、シーン伯爵領で領民たちを救ったとか」
ああ、そのことか。
おれはつい顔がほころんだ。
「そうなんだ。彼女は幅広い知識を持ち合わせている」
「さきほど、少しだけご挨拶しましたが、花のかんばせというのは、あのような姫のことをおっしゃるのでしょうな。姿かたちもお美しく、声にも品がある」
わかるじゃないか、この領主。
「夜会に出席していただけないのは残念ですが……。こればかりは仕方ない」
「おれだけでは華が足らぬだろうが、出席者の諸卿にはご勘弁していただこう」
そういうと、領主は声を立てて笑った。
「本当に、王子は姫を大切になさっておるのですな」
うんうん、と領主は何度も頷く。
「姫の体調不良のため、馬車を止め、野営を張るなど……。こんなに愛された姫はおりますまい。いや、うちの娘にも王子のような男性が現れることを願っていますよ」
そう言われるとなんだか、照れ臭かったのだが。
昨日、彼女が呟いた言葉が蘇り、胸が斬り裂かれたように痛みだす。
おれは本当に彼女を大事だと思っている。大切にしたい。大好きだ。
だけど、彼女はどうなんだろう。
アツヒト。
あれは。
絶対に誰かの名前だ。
「さあ、あの部屋に姫がいらっしゃいます。また、時間になればお呼びしますので、どうぞごゆっくり」
領主が足を止め、目の前の扉を指し示す。
おれは礼を言って、ドアノブを握った。
ノックしようかと思ったが、眠っているのを起こしては可哀そうだ。
領主が立ち去るのを確認し、そっと扉を開く。
中は、カーテンを閉められているせいで薄暗い。
足音を忍ばせてベッドに近づく。
案の定というか。
彼女は眠っていた。
室内を見回して椅子を見つけ、音を立てないように持ち上げる。
そのままゆっくりベッドわきに置いた。
座り、寝顔を見る。
長い銀の髪は侍女のイートンによってゆるく編まれていた。頬に血の気はないが、苦しそうではない。
イートンによると、今日までが一番つらいのだそうだ。本人も、明日は動けると思うと言っていたという。
長い睫毛は伏せられ、桃色の唇は少しだけ開いて、そこからすうすうと寝息が漏れていた。
この寝顔を。
アツヒトとかいうやつは、ずっと見ていたのだろうか。
そんなことを考えた。
あの銀の髪を掬い取り、口づけ、彼女の腰に腕を回して抱きしめたりしたのだろうか。
もう、アリオス王太子のことなど眼中になかった。
あいつは、シトエン嬢に触れさえしなかったろう。
彼女の良ささえ見ようとしなかった。
だけど。
アツヒトというやつは違う気がする。
彼女は、そいつのために涙し、そいつと間違えて、おれの手を握った。
よく考えれば。
あの、怯えよう。
自分が襲われたというのに、彼女はおれのことばかりを心配した。
初めて会った時、「どうして」と彼女は言った。
どこかでおれはシトエン嬢と会ったのかと思ったが。
違う。
似ているのかもしれない。
アツヒトというやつと、おれが。
彼女は。
おれを通して、やつを見ているんだろうか。
『王子には嫌われたくない』
シトエン嬢はそう言った。
『サリュ王子のことを、わたしはとても好ましく思うんです。わたしを大事にしてくれるあなたのことを、わたしは大好きなの。わたしのことを好きになってほしいとさえ願ってしまう』
それは、本当におれのことなのか。
俺に似た。
誰かのことなんじゃないのか。
「……シトエン嬢」
おれは手を伸ばし、そっと彼女の頬を撫でた。
「おれは、あなたが好きなんだ」
ほかでもない。
ただひとりのあなたが。
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