第9話 それは何語ですか?
「失礼します」
口をへの字に曲げて見せたところで、執事長が入室してきた。
銀色のワゴンを押して、紅茶をサーブし、アフタヌーンティースタンドをテーブルの上に置いて、退席する。
そういえば、腹減ったなぁ。
ティースタンドの皿の上には、小ぶりのサンドイッチやマカロン、スコーンなんかもある。
バターあるけど、ミルクのやつかな。あれ、あんまり好きじゃないからジャムに……。
あ。
こういう時は、女性に先に声かけたほうがいいんだろうか。おれだけつまんで喰ってたらだめだろう。
ちらり、とシトエン嬢を見た時のことだ。
ヴァンデルが、ふう、とひとつ息を吐いて背中をまたソファにもたせかけた。
「……なあ、ヴァンデル」
つい、心配してしまうおれは、やっぱり人がいい。
「おまえ、どこか悪いのか?」
「疲れてるだけだ」
やつは肩を竦める。
「このところ伯爵領でいろいろあってな。ちょっと無理がたたった」
シーン伯爵領のおもな収入源は辺境という立地を生かした、他国との関税や輸入品の売買だ。
華やかで活気があるとはいえ、脱税や盗賊、詐欺師がいるのも確かだ。
おれは主に冬季期間中に山や陸続きの国境警備を騎馬で行うが、あちらは年中国境警備に走り回るのだから体力もいるだろう。
「山賊関係か?」
てっきりそうだと想像したのだが、ヴァンデルはあいまいに首を横に振る。この話は、ここでおしまい。そんな顔をしたのだが。
「あの……、僭越ながら、申し上げても?」
ふと、おれの隣から華やかな声が上がる。
「は? ええ」
おれ以上に驚いたのはヴァンデルだ。
きょとんと、シトエン嬢を見る。
「貧血ではないですか? お医者様にはちゃんと診ていただいているのでしょうか」
シトエン嬢は柳眉を寄せて向かいの席に座るヴァンデルを見ている。
「貧、血」
つい呟く。
なんとなく、女の病気のイメージだ。
真っ青になって、ふーっと倒れるやつ。
「どうして、そう思われるんですか?」
ヴァンデルは肯定も否定もしない。
カップの
「その爪です」
「「つめ」」
ヴァンデルとおれの声がそろってしまった。
「いわゆる‶そり爪〟と言われているものです。貧血に多いので」
シトエン嬢が指さしているのは、把手にかかるヴァンデルの指。というか、爪。
「え。これ?」
ヴァンデルはソーサーにカップを戻すと、爪を上にして、手を開いて見せる。
「まあ……、反っては、いる」
「持ち主と一緒で、跳ね返りなんだろ」
おれは茶々を入れるが、ヴァンデルに聞き流されてしまった。
「お薬などは?」
シトエン嬢が小首を傾げてヴァンデルに尋ねる。
「ああ。医者に言われて」
ちらり、とヴァンデルがおれを見る。
え、ほんとに貧血なの。
だけど目が合った瞬間、そらされた。
なんか、気づかれたくなかった、っていう顔だ。
恥ずかしそう、というか、気まずそう。
なんでそんな顔をするんだか。
おれがきょとんとしていると、ヴァンデルは、ぼそぼそと話し始める。
「ワインに古釘を入れて……。それを飲んではいますが」
「ああ、なるほど」
シトエン嬢が何度か頷いた後、また小首を傾げた。
「食事はどうですか? 豚の肝臓や鶏の……」
途端にヴァンデルが顔をしかめる。おれは慌てて口を挟んだ。
「ヴァンデルは『吸血伯爵』などと異名をとっていますが、昔から肉が嫌いで……」
なんでも味覚と嗅覚が敏感らしく、生臭い獣の肉は口にしない。
「先ほど、辺境とお伺いしましたが……。では、魚などはどうでしょうか?」
ふんふん、とおれに対して頷き、ヴァンデルにまた向き直る。
なになに。めっちゃしゃべるじゃん。シトエン嬢。
「魚は……、食べますが、好きと言うほどでは」
やはり生臭さが苦手なのか、白身魚の淡白なやつを香草だの塩だの振って食べているイメージがある。
だが、基本的に昔からパンや野菜しか食ってないかな、こいつ。ときどき、ソーセージやハムは口に入れている気がするが。
「カツオなんていいですよ、今からちょうど時期でしょう。あの血合い部分には……」
シトエン嬢は続ける。が。
「血合いって、あの部分だろう?」
さらにヴァンデルの顔が歪む。
まあ、わからんでもない。身の中でも一番生臭い部分だ。
「臭いが気になるようでしたら、冷水でよく洗い、しばらく浸してもらってもかまいません。衣をつけて、パン粉に乾燥した香草を混ぜればなお匂いも消えます。そのまま、フライにして……。そうですね、レモンなどをふりかけて召し上がれば、小腸での吸収率があがります」
「吸収率?」
つい聞き返す。シトエン嬢は紫色の瞳をおれに向け、頷いた。
「鉄分や栄養価の高いものを、ただ食べればいい、というものではありません。食べ方、というものがあります。内臓障害からくる貧血でなければ、食生活で改善することは十分可能です」
「鉄分って……。鉄を、食うんですか」
不思議に思って尋ねると、シトエン嬢は少し首を傾げた。
「鉄そのものを食べるわけではありません。食べ物にも鉄分は存在しています」
それから、紫色の瞳をヴァンデルに向ける。
「先ほど、ヴァンデル様がおっしゃっていた、釘を入れたワインを飲む、というのも、古来から伝えられている手段の一つです。鉄成分がワインに溶けだしていますから、それを飲んで改善させよう、ということです」
シトエン嬢の言葉によどみはない。
「ただ、毎日の食事を充実させることも大切です。本当は、豚や牛、鶏の肝臓は鉄分が豊富で、身体が吸収しやすい食べ物ではあるんですが、嫌いなものを毎回食べるのは苦痛でしかありません。鉄分が豊富な食べ物はほかにもあります」
シトエン嬢はヴァンデルに話し続ける。
「例えば、小松菜、ほうれん草、ひじきなどもそうですね。豆類だと大豆。ただ、こういった植物が含む鉄分と言うのは、人間の小腸が吸収しにくいのです。なので、たくさん食べても、獣の肝臓のように吸収はできない。ただし、食べ合わせによって、その吸収率を上げることは出来ます」
「食べ合わせ? 一緒になにかを食べる、ということですか」
ヴァンデルが身を乗り出して尋ねる。
「ビタミンcやクエン酸と一緒に摂ると効果が上がります」
「「ビタミンcやクエン酸?」」
またヴァンデルと声が重なる。なんじゃそりゃ。まず、何語なんだ。
きょとんとしていると、シトエン嬢が慌てた。
「えー……、っと。果物や酢ですね。そういうものと一緒に食べるといいんですが……。調理方法で工夫が出来ると思います。マリネとか、食事と一緒にオレンジ果汁を飲む、とか」
「「へえ」」
ふい、とまた顔をそらすから何かと思ったら、子どもみたいに口を尖らせる。
「貧血だなんて……。女みたいな病気だとおもっただろう」
うん、と言いかけて寸前で留める。きっとなんか、こいつの矜持的ななにかを傷つける気がしたからだ。
だから、おれに言いたくなかったんだ。病気で調子が悪い、って。
相変わらず見栄っ張りなやつだ。
莫迦だなぁ。だいたい、おれにかっこつけても仕方ないだろう。
「病気に男も女もないだろう」
代わりにそう言う。
「そうですよ。病気から来るしんどさに、男女差はありません。ひとしく、みんなしんどいんです」
シトエン嬢がおれの隣でにっこり微笑む。
「貧血が改善したら、びっくりするぐらい楽になりますよ。『え。世間の人って、こんなに息するのが楽だったのか、ずるい』って」
だから、とシトエン嬢は膝の上で握りこぶしを揃える。
「がんばって、お食事を摂りましょう」
「……なんだか、お医者さんみたいですね」
おれが思った通りのことを言うと、シトエン嬢は、文字通りソファからちょっとだけ飛び上がった。ほんと、数センチは浮いた気がする。
「い、いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいいえいえいえい」
もう、途中から、「いえいえ」なのか「えいえい」なのか。
繰り返し言い続け、同時に首を横に振り続けるから、最後は目が回ったのか、こてんと、おれにもたれかかる。「ひゃあ。ごめんなさい」と、ソファの端っこまで移動してしまった。なに、この可愛い生き物。どうしよう。
「いや、冗談抜きで」
ヴァンデルの低い声が室内を撫でる。
ぴん、と空気が張った。
「医学の知識がおありなのですか? タニア王国と言えば、内陸の山岳地帯。申し訳ないが、うちの伯爵領とは付き合いがなく……。お父上のバリモア卿は王のご典医かなにかでらっしゃるか?」
「いえ、その………」
さっきまで真っ赤になっていたのに、今は真っ青になってシトエン嬢が口ごもる。
その様子に、国の機密でもかかわっているのか、とちょっと不安になった。
「その……。医学の知識をどこかで学ばれたのですか?」
ちらりとやつを見ながら、おれは口を挟んだ。
シトエン嬢は気まずそうに上目遣いにおれを見ている。
ただ、黙ったままだ。
「その……。言い方は悪いが、あなたの言葉は正しいのですか? 本当にその食べ方をすれば、貧血は治るんですか」
言い方をヴァンデルとは変えてみた。きついかな、と思ったけどシトエン嬢は、ほっとしたように頷く。
「個人差はありますが、今、わたしがお伝えしたことは間違いないはずです。内臓疾患でない限りは、これで貧血は改善されます。ヴァンデル様の爪、そり爪であるうえに、横にも筋が入っています。それは、その爪が作成されたときに、栄養失調状態にあることを示しています。多分、食生活が根本的に乏しいのか、と」
「伯爵の息子なのに、食生活が乏しいって、どうなんだ、お前」
呆れる。
学生時代なら学食で強制的にメシを喰わされるが、実家に帰った途端やりたい放題だな、こいつ。
「医師では、ないのですね?」
ヴァンデルが念を押す。なんかしつこいな。別にいいだろ、とおれは思うんだが。
「医師では……。ないです。ただ、信じてください。この知識は間違っていないはずです。わたしが申し上げたとおりの食生活を続ければ、ヴァンデル様の体調は回復し、わたしの言葉を裏付けてくれることでしょう」
シトエン嬢が拳を握りしめて力強く言う。
まあ、それもそうか。
「なるほど……。医師ではないが、医学の知識はある、と」
「ん?」
ヴァンデルの呟きに、おれはやつを見る。
「これは、使えるかもしれん」
目が合うと、急にそんなことを言い出した。
「なあ、サリュ」
「……なんだ」
まっすぐに見据えられて、なんかたじろぐ。
「このお嬢さんを連れて、いつぼくの領に来れる。最短日はいつだ」
「は?」
素っ頓狂な声が出た。
そのおれの首根っこを捕まえ、ぐい、と引っ張り寄せる。
がたん、とテーブルの脚が揺れ、下からふくよかなバターと砂糖の匂いが漂ってきた。
「陛下にはぼくから、父の名前で申請を出してくる。いつだ。いつ、うちの伯爵領に、来ることができる」
鼻先が触れ合う距離で尋ねられた。相変わらず、せっかちなやつだ。
「えー……。おれも仕事があるかならなあ……」
ここまで近づけるとやっぱ、病的な肌色だなって思うな。こいつの顔。いっぱい喰ってよくなれよ。
「何日で片付けられる」
「……五日、かな」
「じゃあ、移動に……。最長七日かかって……。よし。父にも伝える」
言うなり、また、ちゅ、とおれのほっぺたにキスをしやがる。
「やめんかっ」
どん、と突き放すと、あいつはするりと立ち上がり、シトエン嬢に対して恭しく礼をした。
「では、我が父の領でお待ちしておりますよ、不思議なご令嬢」
いつものあでやかな笑みを浮かべてやつは退室する。
こうして。
おれとシトエン嬢のシーン伯爵領行が決まってしまった。
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