第2章 美味しいアップルパイの作り方
新しい暮らし
「この部屋を使ってください。お疲れでしょうから、しばらくお休みになられると良いでしょう」
「ありがとうございます」
(な、情けない……)
メリーアンはがっくりと肩を落とした。
結局、馬車を逃した後。
一文なしになったメリーアンは、オリエスタの街を彷徨い歩いて、クロノアの神殿を発見した。神殿は旅人に施しをくれる。結局、しばらく神殿にお世話になることにしたのだった。
明らかに面倒な事情持ちだろうというメリーアンを、ハイプリーストは何も聞かず、優しく迎え入れてくれた。
部屋に案内してくれた修練生に、メリーアンは聞いてみる。
「あのー、失礼ですけれど」
「はい?」
「ここの博物館の展示物が、その、夜になると動き出すとかって、聞いたことありません?」
そう言うと、癖っ毛の少女は、にっこりと微笑んだ。
「素敵ですね。子供の頃、よくそんな想像をしました」
「あ、あはは……」
(頭おかしいって思われちゃったかしら……)
修練生は微笑むと、メリーアンの手を握る。
するとメリーアンの体に、じんわりと温もりが宿った。
疲労がとれ、まるでお風呂に入った後のように、体がぽかぽかする。
「顔色が良くありませんね。ゆっくりお休みになってください。
「どうもありがとう」
修練生は法典読経のため、頭を下げて部屋から出ていく。
幸いなことに、今神殿を必要としている女性は、メリーアンしかいないようだ。静かな客室のベッドで、メリーアンは一人横になった。
(当分の間、ひとまずご飯と宿に困ることはなさそうね)
もちろん無料で寝泊まりし、食事を貪るとはいかない。
労働で返すのだ。
料理か、掃除か、縫い物か。それとも力仕事か。とにかく神に施しを与えられた分は、何かしらで返さなければいけない。
(あまりにも無鉄砲すぎたわよね。ここまで何事もなく来られたのは、奇跡に近いのかも)
けれどメリーアンは、出奔したことを不思議と後悔していなかった。
あの二人が並んでいるところを見るくらいなら、魔獣に襲われる危険があっても屋敷を飛び出した方がマシだ。
幸か不幸か、博物館で色々あったおかげで現実を直視せずに済んだ。
(はあ。これからどうしようかしら)
もうクロムウェル領には戻れない。
お金もない。
いっそクロノアで修行して、プリースティスにでもなるか?
……こんな煩悩まみれの女、きっと神が受付けないだろうなと、少し笑ってしまう。
「ふわぁ。なんだか眠い……」
体がぐったりと重くなっていた。
疲れが出てしまったのだろう。
硬くて寝慣れないベッドだったけれど、メリーアンはすぐに眠りの底に落ちてしまった。
*
幼い頃の夢を見た。
「お母様。なんの本を読んでいるの?」
「これ? ふふ、妖精の本よ。メリーアンにはまだ早いかもね」
小さな頃、よくメリーアンの母エマは、窓辺のロッキングチェアで美しい挿絵の入った本を読んでいた。
「お母様は妖精博士だもんね。ねえ、どうしてそんなに妖精が好きなの?」
「……気づいたら、ずっと好きだったの。彼女たちのことを考えると、どうしてかとても懐かしくなる。ノスタルジーを感じるのよ」
「懐かしい? 会ったこともないのに?」
そう言うと、エマは微笑んだ。
「人と妖精はつい二百年前まで共存していたでしょう。人と妖精は切っても切り離せない関係。人は妖精という存在とともに進化してきた。だからきっと、魂にも妖精の存在が刻みつけられているのね」
「ふぅん? 会ったこともないのに、知り合いみたいに感じるってこと?」
「そうそう」
エマはメリーアンの頭を撫でた。
「いつかまた、妖精と暮らしてみたい。その昔にあったたくさんの魔法を見てみたい。〝黄金の時代〟を感じてみたいの」
目を瞑ったエマの長い髪が、午後の優しい風に揺れた。
「争いもない、ミアズマもない、魔法に満ち溢れた世界。ロマンチックよね」
そう言って照れたように微笑む。
「このブローチはね、大学で妖精学に夢中になっていた私に、お父様が最初にくれたものなの。いつも私と妖精が一緒にいれるようにって」
「ああ、だからそんなに大切にしているのね!」
「ええ。このブローチをもらってから、見えなくても、感じなくても。妖精はすぐそばにいる。そんな気がするの」
「妖精がまだいる?」
エマが頷いた。
「もしもメリーアンが妖精を見かけたら、お母様にも教えてね。妖精に会うのが、お母様の夢なのよ」
「うんっ! 約束!」
そう言って小指を絡めた日のことを、メリーアンはずっと覚えている。
*
メリーアンは高熱を出して三日ほど寝込んでしまった。
緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。
プリーストの治療がなければ、もっとひどくなっていたことは確実だっただろう。
「いい天気……」
ようやく熱が引いたメリーアンは、神殿の窓から街を眺めていた。
神殿は見晴らしのいい丘の上に立っている。
クロノア──〝時とアルストロメリアのクロノア〟は、その名の通り、時間の神だ。神殿の周りには、季節でもないのにアルストロメリアが咲き誇っていた。きっとクロノアの加護を得て、時間が停止しているのだろう。
メリーアンももちろん神の信徒ではあるが、神殿はその中でも特に、この神に仕えると決めた人々が共同生活を送る場所だ。彼らの持つ強い信仰心は神の奇跡を起こす。クロノアの神に使える人々は、一定の信仰に達すると、時を停止させたり、巻き戻したりするような、神聖術が使えるようになるのだという。
「ずっとここにいると、なんだかいろんなことを思い出すわね」
じっとしているからだろうか。
最近、昔のことをよく思い出す。そしてもちろん、ユリウスとララのことも考えてしまう。
「外に出れば、少しはこの憂鬱さも晴れるかしら」
いっそ動き回っていれば、嫌なことも考えずに済むのではないか。
そう思ったメリーアンは、少し出かけてみることにした。
(服が盗まれなかったことだけが幸いだわ)
多少いい生地ではあるものの、町娘と大差ない服だ。これであれば、誰もメリーアンが貴族などとは思わないだろう。
念の為、シンプルなボンネットをかぶり、顔を見えないようにした。
あの博物館の警備員に出くわしたら、最悪だからだ。
思った通り、外に出ると少し気分が浮上した。
単純な自分に、メリーアンは少し笑ってしまう。
(クロムウェル領民の根性たるや、ってね)
アルストロメリアの匂いを胸いっぱいにかいで、メリーアンは街へ向かって歩き出した。
*
オリエスタの特色は、やはり学生が多いことだろう。
あちらこちらで学生たちが肩を並べて歩いていた。教科書とにらっめこしながら歩く女学生や、何やら意見の食い違いで喧嘩する男子学生たちもいる。
王都から離れていないこともあり、比較的穏やかで治安もいい街だ。
実際、メリーアンが一人で歩いていても、特に何もなかった。
(ちょっと視線を感じるような気がするのだけど……やっぱり馴染めてなかったのかしら?)
メリーアンはボンネットを深く被って、できるだけ下を向いて、顔が見えないようにした。
それでも、新しい景色に興味を惹かれて、結局あちらこちらを見回してしまう。
そんなメリーアンを、男子学生たちが頬を赤くして見つめているのだった。
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