人知れぬ努力
頬に何かが触れている。
柔らかい感触が、ぺちぺちと一定のリズムで頬に当たってくるのだ。
「ねえ、キリハってば。」
「んん…」
しつこく名前を呼ばれ、キリハは開きたがらない
眼前で待ち構えていたのは、あの憎たらしいぬいぐるみ。
「何、こんな時間に……」
キリハは大きく
夜明けはまだかなり先だ。
「ごめんごめん。ちょっと、ついてきてほしい所があって。」
「こんな夜中に?」
「うん。……っていうか、この時間じゃないと見れないのさ。」
フールはまるで急かすように、キリハの後ろ髪をぐいぐいと引っ張る。
「いたたたっ。分かった。分かったから離して。」
渋々、キリハは体を起こしてベッドを下りた。
その頃にはフールはすでに部屋のドアの前でふよふよと浮いていて、早く来いと手を振っている。
あのマイペースの権化たるフールが、ここまで急かしてくるとは何事だろうか。
彼の目的に見当もつかないまま、キリハは部屋を出てフールの後を追う。
やはり真夜中というだけあって、廊下はしんと静まり返っていた。
極力抑えてはいるのだが、自分の足音が妙に大きく聞こえ、いつもは存在を忘れている監視カメラの駆動音だって今は妙に耳に響いてくる。
「……ん?」
キリハ首を傾げた。
目の前にはシミュレート室が並んでいる。
暗闇に沈むドアの中に、一つだけ明かりを灯した部屋があった。
どうやら、目的地はここのようだ。
フールが覗き窓から操作室内の様子を
操作室には誰もいない。
だが操作盤の液晶画面のタイマーが動いていて、実践場の方から物音もする。
誰かが実践場で訓練中らしい。
「……ルカ?」
モニターに近寄って実践場の様子を見ると、そこにはルカの姿があった。
彼はまだ使い慣れていないであろう《焔乱舞》のレプリカを握り、映像のドラゴンに向かって剣を振り続けている。
その表情は必死だが、どこか無理をしているようにも見えて―――
ふとキリハは、手元にある液晶画面を見下ろす。
そこには、今ルカが行っている訓練の詳細データが表示されていた。
シングルモード、時間指定コース。
「時間……百二十分!?」
思わず叫んでしまい、キリハは慌てて口を塞いだ。
実践場が防音仕様でよかった。
幸いにも、ルカには気づかれていない。
「すごいよねぇ。」
隣でフールが嘆息する。
すごいというか、これは無謀と言ってもいい域だ。
《焔乱舞》は並大抵の力で扱える代物じゃないのだ。
自分だって、二時間もあの剣を振り続けるなんてできない。
しかも、ドラゴンを相手にした状態でなんて。
「潰れちゃうよ、ルカ……」
無茶苦茶だ。
任務としての訓練とは別に、一人で夜中にこんなことをしていたなんて。
「口や態度はああだけど、ルカってすごく努力家なんだよね。」
「そうみたいだね。」
それについては、同意せざるを得ない。
あの必死な顔を見れば分かる。
ルカは身を削ってまで、ひたむきに任務に打ち込んでいるのだ。
あんなこと、生半可な気持ちではできないだろう。
周囲を見返すためにここにいる。
ルカはそう言った。
そうじゃないと、自分も皆も報われないから、と。
(そんなに何もかも、一人で背負おうとしなくていいのに……)
なんだか、あんなに必死なルカの姿を見ていると切なくなってくる。
ふとそこであることに気づいて、キリハは隣のフールにじろりと据わった視線をくれてやった。
「……なんで、俺に細工しようとするわけ?」
これは明らかに、ルカに対する認識を操作されようとしているではないか。
そして自分は、見事にその策略に乗せられてしまっていた。
ルカのことは気に食わないが、決して彼を嫌っているわけではないのだ。
こんなものを見せられたら、心情的にはひとたまりもない。
「あは、さすがに気づいちゃった?」
悪びれもなくフールは認めた。
そして、さらりととんでもないことを言う。
「ん~、キリハの方が仕込みやすいから?」
なるほど、そういう理由か。
キリハは抗議の意味も込めて、無言でフールの頭を掴んでじわじわと力を込めてやる。
「あーっ! ごめん、冗談だよぉ!! キリハの方が柔軟でしょ?」
フールが慌てて言い直すが、信じないことにする。
さっきの言葉も、絶対に本心だったはずだ。
そう分かり切ってはいたものの、キリハは仕方なくフールの頭を解放した。
「柔軟?」
聞き返すと、フールは頭を振りながら口を開いた。
「そう。キリハは育ってきた環境が特殊だからか、考え方も戦い方も柔軟なんだよ。でもね……」
フールはモニターを見つめる。
「ルカは……あの子たちは、物心がつく前から筋違いな悪意ばかり浴び続けてきたせいで、素直に周りを受け入れることができなくなっているんだよ。あの子たちはもう、誰を信じていいのか分からないんだ。ごめん……僕たちのせいだね。」
普段の彼からはかけ離れた、ひっそりと静かな声が操作室内に響く。
「……それは、違うと思う。」
とっさに思ったことが、そのまま口から出ていた。
「誰も悪くないよ。みんな、普通から抜け出せないだけなんじゃないかな。」
そうだ。
こうなってしまったのは、きっと誰のせいでもない。
たとえ宮殿が厳しい規則を作ったって、差別は消えなかっただろう。
人の心は、法律では縛れないのだ。
何か譲れない想いがあれば、誰もが
自分を守ってくれた、メイたちのように。
結局、人の心を動かせるのは、同じく人の心なのだろう。
固定概念、あるいは当たり前という箱の中で人は生き、箱の外に何かがあるとは思わずに他の世界を無意識に遮断している。
そんな普通でできた箱の内側が、今のこの世界なのだ。
「なーんか、もったいないよね。」
窓の向こうには、未だに剣を振り続けるルカの姿。
こんな些細なきっかけで、他人に対する気持ちなど変わってしまう。
変えることが、できるというのに。
「………もう出よう。」
このままここにいては、戻ってきたルカに見つかってしまう。
念のため気配を殺して
その肩の上で、フールが呆けて絶句していることには気づかなかった。
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