第48話 暗君たち

 



 ホテル・フォレストキャッスルの最上階にあるスイートルーム。


 令愛は、大木が生活するその部屋に監禁されていた。


 今は明らかにやつれた顔で、ベッドに横になっている。




(疲れた……ううん、今も疲れてる。あんなやつが暮らしてる空間にいて、気が休まるはずがない)




 目を閉じた途端に、あの削ぎ落とされた顔や、大木の言動が頭に浮かんでくる。


 吐き気がした。


 あんなものの血が自分に流れているなんて、考えるだけで全身がむず痒くなる。


 元々、令愛は母親のことをさほど意識したことはなかった。


 娘より宗教を取った薄情な親――その程度の認識で、母を恨むぐらいなら、自分を育ててくれた父に感謝すべきだと考えていたからだ。


 だが今は、母親への嫌悪感と憎しみでいっぱいだった。




『あんな父親のことは忘れてしまいなさい。いえ、あの男は父親ではないの。あなたは私と曦儡宮様の遺伝子を持った子供なんだから』


(あんなに気持ち悪いのが母親だなんて信じたくない)


『倉金のことも必要ないわ。私と曦儡宮様のことだけ考えていればいいの。そうすれば来るべき終末の日を幸せに過ごせるわ!』


(母親みたいな顔して甘やかされるだけで寒気がする)




 ここに来てから令愛は暴力を受けていない。


 代わりに過去の母の顔になり、異様なまでに令愛を甘やかしたわけだが――頭を撫でられても、膝枕をされても、気持ち悪さしか感じなかった。




(依里花だったら、心が安らいだのに)




 これが人を好きになるということか。


 これが人を嫌いになるということか。


 その発見を、同時に味わっている。


 だが力もない令愛には、ここから逃げることもできない。


 今はとにかく、目を閉じて眠り、時間が過ぎ去るのを待ち、依里花たちが助けてくれるのを祈るしかなかった。


 すると誰かが彼女に近づき、さらにはベッドの上にまで乗ってくる。


 寒気を感じた令愛が目を開くと、そこには中見の顔があった。




「いやあぁぁっ!」




 思わず叫び、中見を突き飛ばす令愛。


 だが中見はその手首を掴み、強く握りしめた。




「痛いっ……やめてよ、月……!」


「どうしてわたくしをそこまで拒絶するのですか?」


「そんなの当たり前じゃない。あなたは……あたしを騙してたッ!」


「騙していた」




 こてん、と首をかしげる中見。


 すると彼女は顔に“人間らしい”表情を貼り付けた。




「私とあなたが過ごした時間は本物だよ、令愛」




 そして“中見月”の声でそう語りかける。


 いや――それだけではない。




「小学校でも、中学校でも、高校でも、私たちはずっと友達だったじゃない」




 そのときに使っていた・・・・・声を切り替え、忘れたがっている令愛の記憶を引きずり出す。


 卒業して離れ離れになった友達。


 引っ越してしまった親友。


 体が弱く、遠くの病院に入院することになったあの子。


 中には、今でも連絡を取り合っている相手だっていた。


 それら全てが、この中見月を名乗る人間が演じていたというのだ。


 信じたくない。


 だが現実が目の前に突きつけられている以上、令愛にできることはその行為の否定だけだった。




「気持ち悪いことを言わないでッ! あなたなんて友達じゃない!」


「私は誰よりも令愛のそばにいた。それは誰よりも令愛の人格形成に影響を与えてきたということ。わかる、令愛。私は令愛の中にいるんだよ。あなたの血の半分がお母様のものであるように、あなたの人格の何割かが――」


「やめてよおおぉッ!」




 必死で暴れる令愛だったが、力を持つ中見はびくともしない。


 だが彼女は急に冷めた目で令愛を見下ろすと、バチン、と強く頬を叩いた。




「っ……」




 目を見開き、固まる令愛。


 わめく声はぴたりと止まり、瞳は恐怖に揺れる。


 それを見て――感情がないかのように振る舞う中見は、わずかに口角を吊り上げた。




「申し訳ございません、つい手が出てしまいました」


「っ……はぁ、はぁ……」




 令愛は中見を恐れるあまり、うまく呼吸すらできなくなっていた。


 理解してしまったのだ。


 中見月という人間は、ただ言われたままに動く戒世教の道具などではない。


 “信仰のために”と言いながら、他者を傷つけることに喜びを覚える異常者だということに。


 令愛を騙し続けていたことだってそうだ。


 誰にもバレることのない演技を何年も続けた――それは他でもない、中見自身が楽しんで・・・・いないと不可能なことである。




「ですが許していただけませんか。許せなかったのです。わたくしはともかく、お母様の血を否定するような言動が」




 意味もなく首を左右に振る令愛。


 じわりとにじむ涙を見て、中見は嗜虐心を刺激される。




「この六年間、わたくしはお母様の手となり足となり、その信仰をさらなる高みへと導くために努力を尽くしてきたのです。そしてついには大木様をお母様と呼ぶことまで許してくださった。でも、どれだけお母様の血を飲んだところで、わたくしがお母様の子供になることはありませんから」




 中見はゆっくりと令愛の首に手を置いて、体重をかける。




「あ……か、はっ……」


「仰木令愛。あなただけが。何の努力もせず、あろうことかお母様の愛を拒むあなただけが、お母様の血を引いている」




 顔から笑みは失せたものの、目から正気が失われ、残酷な本性がむき出しになる。


 すでに中見の指は令愛の首に食い込んでおり、令愛は完全に呼吸を止められていた。




「ぁ、あが……っ、ぐ、ぇ……」


「それだけどれだけ幸せで、どれだけわたくしにとって理不尽なことか――あなたには、あなたにはわからないのですかぁッ!」




 だが彼女は首を絞めるだけでは満足しない。


 いっそその骨をへし折ってやろうかと、さらに強く力を込め――




ルナあぁぁぁぁあぁぁあッ!」




 それを、大木の怒鳴り声が遮った。




「お母様!? あぐぅっ!」




 部屋に戻ってきた大木は、中見の髪を掴むと令愛から引き剥がし、床に投げ捨てる。


 そしてその腹を強く蹴りつけた。


 軽い中見の体は壁に叩きつけられ、飾られていた絵画が床に堕ちる。




「あれほどっ! あれほど言ったでしょう! 令愛を大事に扱いなさいと! 私が令愛を愛するのと同じぐらい、あなたも令愛も愛しなさいと!」


「申し訳ありませんっ! 申し訳ありませんっ!」




 必死に謝る中見だったが、異様なほどに顔を真っ赤にして怒り狂う大木は止まらない。


 さらに髪を掴んで持ち上げ、壁に磔にすると空いた右手で体や顔を何度も殴りつけた。




「誰にも望まれず生まれてきたあなたが! 誰にも求められずに生きてきたあなたが! こうして生きていられるのは誰のおかげ!? こうして曦儡宮様の寵愛を受けていられるのは誰のおかげなの!?」


「お母様、ですぅ」


「その汚らわしい口でお母様と呼ぶなぁッ!」


「申し訳ありませんっ! 藍子様です。わたくしの命は藍子様のための命ですぅぅ!」


「そうでしょう? だったら私の言うことを聞くのが当たり前でしょう? 逆らう月に価値なんてないッ、そうよねぇ!?」




 終いにはその手で首を掴み、絞め上げながら体を持ち上げ始めた。


 令愛はその様子を見て、顔を真っ青にしながら震えている。




「あ、あ、がっ……がひゅっ、ひっ……」


「いっそ殺してしまいましょうか。実の娘が戻ってきた今、偽りの娘である月はもう必要ないはずだものねえ。世界が滅びるまでの残り少ない時間の邪魔だものねえ!」


「は、はひ……はおぉっ……お殺し、ください」


「は?」


「お母様の……叱咤は、わたくしへの、愛……! 全身を包む苦しみは、お母様がわたくしを愛してくださる、から、ごふっ、こそ……!」


「月……」


「どうぞ、どうぞ殺してください……最上の愛を、わたくし、に……っ」




 顔を紫色に変色させながらも、両手を広げて死を受け入れる中見。


 その健気な姿に、大木にも変化が現れる。


 ぽろりと大粒の涙が流れると、中見を殺そうとしていた手から力を抜いた。


 そして床に崩れ落ちたその体を両手で抱きしめる。




ルナあぁぁぁぁぁっ!」




 声を裏返らせながらの叫びが、部屋に響き渡った。


 先ほどと同じ言葉を叫んでいるというのに、今度は妙に湿っぽい。




「私が悪かったわ。あなたの愛を軽く見すぎていたのねぇ」


「お母様……」


「そうよね、そこまで私のことを愛しているのなら、令愛に嫉妬してしまうのも仕方のないことだわ。それにせっかく曦儡宮様と一緒に世界の滅びを見られるのに、その前に殺してしまうなんて、私ったらなんてひどいことを……ごめんなさい、ごめんなさぁい」


「お許しいただき嬉しいです、お母様!」




 二人は抱き合い、愛情を確かめ合う。


 それを見た令愛は――




(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ!)




 全身にぞわりと鳥肌を立てながら、ひたすらに寒気を感じていた。


 ただただ気持ち悪い。


 今までの人生で見てきた何よりも気持ち悪い。


 こんなもの・・が自分の身内に存在することが、人生最大の汚点だと感じるほどに強烈な嫌悪感が湧き上がってくる。




(わがままかもしれないけど……難しいかもしれないけど……でもお願い。依里花、早く助けに来て……もうあたし、こんなとこにいたくないよぉ!)




 つい弱音を吐いてしまうほど、それは生理的に受け付けがたい光景だった。


 しかも、そのまま二人の世界に浸ってくれればいいものを、ふいに大木は立ち上がると、令愛に歩み寄る。




「もちろん令愛のことも忘れてないわよ。愛してるわ」




 令愛はただただ大木を睨みつけた。


 しかし彼女は機嫌がいいのか、生意気な態度をとってもいつもみたいに殴ったりはしない。


 むしろ手を差し伸べ、こう言った。




「今から曦儡宮様に貢物を捧げる時間なの。きっと実物に会えば令愛も考えを改めるはずよ。さあ、行きましょう」




 それは拒否権などない、一方的な命令に等しい。


 逆らえるはずもない令愛は、大木の手は取らずに立ち上がった。




 ◆◆◆




 一方その頃、ホテル二階の倉庫には妙蓮寺と牛沢の姿があった。


 ひと気のないこの場所に彼女を呼び出したのは当然、妙蓮寺だ。


 牛沢は最上階の広間で、畑を耕したり、料理を作ったり、ほつれた服を直したりと、一日中雑用を行っていた。


 須黒が“人手がほしい”と言っていた理由はそれだ。


 もっとも、彼女にはなぜ人数分以上の食料を用意しなければならないのか、その理由はわからなかったが。


 当然、あの広間で働いている人たちは外に出ることはできない。


 広間の出入り口付近には屋内唯一の監視カメラも設置されており、逃げてもすぐにわかるようになっていた。


 ――ちなみに、他の場所にカメラが設置されていないのは、白町が女遊びするのを撮られたくないと文句を付けたからである。


 そういった理由で、本来いないはずの牛沢は、妙蓮寺にこの二階の倉庫まで連れてこられた、というわけである。


 もちろん目的は一つ。




「なあ会衣ちゃん、僕さあ、ここでは結構力を持ってるんだよ。建物や機械の管理を任されてて、白町からも信用されてるんだ」




 牛沢を口説くこと。


 彼は強引に彼女を壁に押し付けると、顔を近づけ高圧的に語りかける。




「……会衣は、男の人、苦手」




 目を背け、拒絶する牛沢。


 なおも彼は馴れ馴れしく手を掴み、言葉を続けた。




「そう言わずにさ。ほら、それに今のうち僕のものになっておけばさ、白町に手を出されずに済むかもよ? あいつよりは僕の方がマシだって、きっと気も合う」


「いやだ、会衣は触られたくないっ」




 妙蓮寺が強引になるほど、牛沢の拒絶も激しくなる。


 すると途端に彼は態度を変え、半ば脅すように声を荒らげた。




「いいから従えって。そうすりゃここで奴隷みたいに扱われることも無くなるんだッ!」




 そのとき――牛沢は、密かにギィに伝えられていた言葉を思い出す。




『ミョウレンジはウシザワを狙ってる。エリカが言うには、あいつは増長しやすい。力を手に入れて、調子に乗ってる。他の人間に嫌われるぐらい調子に乗る。だから必ず強引な手段を使ってくる。そのときは――他の誰かに聞こえるぐらい、大声で叫ぶといい』




 彼女は息を吸い込むと、精一杯のボリュームで声を張り上げた。




「きゃあぁぁぁあああああっ!」




 遠くまで通る、甲高い声がホテルに響き渡る。


 妙蓮寺は慌てて牛沢の口を手で塞いだ。




「うるさいんだよっ、大きな声を出すな!」


「むぐうぅぅっ! んうぅぅぅうっ!」


「チッ、誰かが来たらどうするつもりなんだよ……」




 すると、何者かの足音が倉庫に近づいてくる。


 扉が開き――現れたのは、妙蓮寺と同じクラスの少年、岡田だった。




「妙蓮寺、何やってんだ」


「お、岡田? 何って、そりゃ……」




 口ごもる妙蓮寺。


 だが口を手で塞がれた牛沢を見れば、一目瞭然である。




「お前まさか、その子を」


「は、はは、見てのとおりだよ。女を抱いてるんだ、白町みたいにな!」




 結果、彼は開き直ることにした。


 自分には力がある。


 それに前例だってある。


 何も悪いことなどしていない――そう自分に言い聞かせて。


 しかし岡田は不快そうに顔をしかめると、苦言を呈す。




「やめとけよ、めちゃくちゃ嫌がってるじゃねえか」


「あいつが手を出した女だって嫌がってたじゃねえか! なんで白町はよくて僕は駄目なんだよっ!」




 それもまた正論であった。


 白町は女を抱くどころか、気分次第で殺したことだってある。


 それが許されて、まだ何していない自分は呆れられる。


 その差は何なのか――しかも、よりにもよって力のない岡田が、力のある自分に対して。


 そう考えると、妙蓮寺は急に岡田に対してイライラしはじめた。


 白町に対しては強いことなんて言えないくせに。


 クラスで立場の弱い自分相手だからこそ、強気なのかもしれない。


 だとしたら上下関係をわからせる必要がある。


 今なら、お前ぐらいなら簡単に殺せるんだぞ、と。




「岡田ぁ、僕はお前と違って“選ばれて”るんだよ。この建物の管理を任されるぐらい立派に! だったら、女の一人ぐらい貰ったっていいだろ!?」


「妙蓮寺、お前……キモいぞ」


「は?」


「白町にビビってばっかのくせに、ちょっと役目を与えられたからって粋がるなよ」


「んだと……白町にビビってんのはどっちだよ。殺されたいのか岡田ァッ!」


「白町から聞いたぞ。お前、戦うためのスキルを覚えるの禁止されてるんだろ? どこが信用されてるんだよ」


「確かに僕は戦うためのスキルは持ってない。けどさあ、岡田と喧嘩して負けるほどヤワじゃないからな?」


「その力だって自分のものじゃないだろ」


「ふざけるな……これは僕のものだあああぁっ!」




 岡田に掴みかかる妙蓮寺。


 岡田はそれを受け止め、踏ん張るつもりだったが――実際のところ、力を得た妙蓮寺を止められるはずもない。


 あっさり突き飛ばされ、後ろに倒れる。


 そんな彼に馬乗りになった妙蓮寺は、拳を振り上げた。


 すると、そんな彼らの横を通り抜けて、牛沢は倉庫から逃げ出す。




「あ――おい、どうするんだ岡田。会衣ちゃんに逃げられたじゃないか!」


「知るかよ」


「おい岡田、謝れよ。僕に頭を下げて謝れええぇ!」




 岡田は「めんどくせ」と悪態をつくばかり。


 しかし妙蓮寺は、牛沢がいなくなったことですっかり萎えてしまったようで、振り上げた拳も下ろす。




「はぁ……はぁ……はぁ……クソッ、無能のくせに邪魔しやがってさあ」


「あ?」


「はっ、喧嘩で負けたくせに何をイキってるんだか。岡田ぁ、もう僕はお前に興味ないから。帰れよ」


「チッ……言われなくても帰るわ。お前の顔を見てるだけでイライラする」




 足元に唾を吐き出すと、岡田は倉庫を出ていった。




「あのクラスとはもう違うんだよ。次に馬鹿にしてきたら絶対に殺してやるッ!」




 すでに退室し、見えなくなった背中に向かってそう吐き捨てる妙蓮寺。


 一方で、廊下に出た岡田にも、わずかにその声は聞こえていた。


 彼は露骨に不機嫌な顔をしながら、




「借り物で調子に乗りやがって」




 なおも妙蓮寺に対して悪態をつく。


 岡田はクラスでは、白町や須黒たちのグループに所属していた。


 なのにパーティメンバーには選ばれなかったのだ。


 すでに4人もの死者が出ている中、次のメンバーとして選ばれるのは確実ではあるのだが――後回しにされたことに、少なからずコンプレックスを感じていた。




「さすがに白町も、そろそろ俺に戦う力を分けてくれるはずだ。どっちの立場が上かは、そのときに教えりゃいい」




 どうやら岡田は3階に向かうようだ。


 しかし階段を上ってすぐの天井には、スライムのような何かが張り付いていた。


 死角を計算した上で待機していたらしく、彼の視界に入ることはない。


 そしてスライムは体を変形させ、鞭のような職種を伸ばすと、その先端を鋭く尖らせ――岡田の背中に突き刺した。




「あ――?」




 痛みというより、“熱”を感じて彼は声をあげる。


 だが岡田がその正体に気づくことはない。


 ギィは突き刺した鞭の先端で魔法を発動させた。


 体内から光が爆ぜ、ジュワッと体が蒸発する。


 服も燃え尽き、その場には見た目でわかる痕跡は何も残っていなかった。


 わずかに焼けたような匂いはしていたが、それもすぐに消える。


 仮に今、誰かがここを通りがかっても、数秒前まで人間がいたとはわからないだろう。




「ギシシ。言われた通り条件は揃えたよ、依里花」




 仕事を終えたギィは一人ほくそ笑むと、スライム状の体をぬるりと滑らせながら、犬塚に与えられた自室に戻った。




 ◆◆◆




 倉庫から逃げ出した牛沢は、1階にいた。


 3階の広間に戻るべきなのだが、下から大木と令愛の声が聞こえてきたため、引き寄せられるようについてきてしまったのだ。


 二人がある部屋に入るのを見ると、牛沢は後を追った。


 扉の向こうには、明らかにホテルとは質感の違う、石レンガの廊下があった。


 一本道ではあるけれど、道の傍らには樽や割れた壺、古いロープなどが落ちている。


 小柄な牛沢なら身を隠すこともできそうだ。


 壁にはろうそくが立てられており、周囲を淡く照らしている。


 しかし風が吹き込んでも一切揺れないという不自然な点もあった。


 大木と令愛は奥に進んでいるようだ。


 また、二人は器にたくさん盛られた料理を運んでいた。


 牛沢は足音を殺し、ゆっくりと尾行する。


 廊下をしばらく進むと、突き当りには大きくて立派な両開きの扉があった。




「さあ、曦儡宮様はこの先よ」




 大木がそう言っても、令愛は反応を見せない。




(仰木さんの顔色が悪い。会衣が思うに、無理やり連れてこられてる。それに曦儡宮がいるって……でも、この先にいるのは、会衣が夢に見た……)




 牛沢は前方にあるその扉を知っていた。


 昨晩、夢で見た景色。


 緋芦を取り込んだ巨大な化物がいたあの部屋に、同じ扉があったはずなのだ。


 大木が扉を両手で押し込み開くと、ギイィィと軋む音が不気味に廊下に響く。




「っ……これは……」




 令愛は、壁一面に広がるその異様な光景を見て言葉を失った。


 牛沢も思わず声を上げそうになったが、どうにか口を手で抑えて我慢する。


 だが心臓は、今にも破裂しそうなほどバクバクと脈打っていた。




(やっぱりそうだ。あの部屋にいるのは緋芦なんだ! じゃあ昨日見た夢は、夢なんかじゃない。本当に緋芦が語りかけていた)




 玉座の間から溢れ出てくる空気には、獣と血の匂いが混ざっている。


 切り刻んだ動物をでたらめに繋ぎ合わせたようなその化物は、来客の存在を察知すると不規則に脈打ちはじめた。


 うぞりと蠢くその姿を見て、その気味の悪さに、令愛は吐き気を感じる。




「ふふ、あまりの美しさに驚いてるわね。そう、これこそが私たちを真なる世界に導いてくださる存在。曦儡宮様の本体なのよ!」


「これが……曦儡宮……」




 令愛は、すでにわかっていた。


 これが曦儡宮ではないことを。




(これは島川優也と同じもの、だよね。曦儡宮なんかじゃなくて、この階層から脱出するために倒さなければならない、“主”のはず)




 もちろん、その中心に埋まっている少女の存在には気づいていたが、彼女が井上緋芦であることを令愛は知らない。


 なのでその正体も疑問ではあった。


 だが一番の疑問は、なぜ大木があれを曦儡宮だと信じ込んでいるか、だ。


 大木は部屋に足を踏み入れると、そのグロテスクな本体に近づく。




「さあ、令愛も貢物を捧げるのよ。でないとあなたたちが順番に食べられてしまうわ」




 そう促され、令愛もゆっくりと化物に近づいていく。


 そしてその近くに、運んできた料理を置いた。




(会衣はわかった。あの広間の野菜、捧げるためのものだったんだ)




 大量の食料を与えることで、獣の本能を抑えているのかもしれない。


 あれが無ければ、人間が食われてしまう。


 あるいは、大人しくこんな場所に留まらずに、暴れだしてしまうのかもしれない。


 だから無理をしてでも、ホテルを出て売店まで食べ物を取りに行く必要があった。


 売店に向かった二人は、依里花たちの策略にはまって死んだはずだが、あのあと白町と須黒が目的のものを持ち帰ったのだろう。


 “曦儡宮”と呼ばれた化物の一部、獣の首がにゅるりと伸びて、床に置かれた料理に近づく。


 そして口が裂けるほど大きく開くと、それを貪りはじめた。


 大木はその光景を、まるで子を見守る母のような穏やかな表情で見つめながら、口を開いた。




「まさか郁成夢実ではなく、井上緋芦が儀式の核として選ばれるとは思っていなかったわ。それとも、郁成夢実に呼び出されたけど、井上緋芦の方が好物だったのかしら」


「夢実って、依里花の友達の?」


「ええ、そうよ。彼女は幸運にも、曦儡宮様を呼び出す生贄として選ばれたわ。その日が来るまで、地下で肉体に曦儡宮様を降ろすに相応しい苦しみを蓄えていたの」


「依里花を裏切ったんじゃなくて、あなたがさらってたの? 依里花はあんなに苦しんでたのにッ!」


「どうして怒る必要があるの? 曦儡宮様の生贄になれるのはたった一人だけ。こんなに嬉しいことはないわ」


「頭おかしいんじゃないの!?」


「いけない子ねえ、曦儡宮様の前でそんな汚い言葉を使って。でも神の御前だもの、今は許してあげる」


「井上緋芦って子も、牛沢さんの友達だったはずだよね」


「彼女のことまで知っていたのね。あの子は中年男性とふしだらな関係にあるって噂をされて、クラスで孤立していたのよ。他の贄候補に比べると痛みは足りなかったはずなんだけど、内容が曦儡宮様の好みだったのかしら」




 それは津森拓郎のことであり、もちろん怪しい関係などは一切ない。


 だが噂というのは、歪んで伝わってしまうものだ。


 そしてたったそれだけの噂話で、緋芦は他のクラスメイトから冷たい目を向けられるようになってしまった。




(緋芦がそんな目に合ってたなんて、会衣は知らなかった。相談してほしかった……)




 悔しさに牛沢は唇を噛む。


 緋芦と牛沢は、頻繁にお泊りをするほど仲のいい間柄だったが、緋芦は姉の死についてほとんど語ったことがない。


 ひょっとすると、危険な宗教が関係していることを知って、あえて黙っていたのかもしれないが。


 するとそのとき、急に地面が激しく揺れ始めた。




「きゃぁっ! じ、地震っ!?」




 バランスを崩しそうになり、壁に手を伸ばす令愛。


 牛沢も樽に掴まり必死に耐えた。


 そうしなければ転んでしまいそうなほど激しい揺れだったのだ。




「怯えることはないわ。曦儡宮様による世界の破壊が進んでいる証拠よ」


「どういうこと?」


「曦儡宮様は一度この世界を破壊して、その後で真の世界に連れて行ってくれるの。だったらこの遊園地が壊れていくのは当たり前じゃない。みんなで一緒に曦儡宮様が与えてくださる終焉を迎えるの……ふふ、素敵でしょう」


「じゃあ、戦う力があるのにここに留まってる理由って、死ぬためなの?」


「死ではないわ。私たちは真世界に旅立つ。この腐った旧い世界ではなくて、新たな、全てが光に包まれた正しい世界に!」


「そんなわけわからないものにあたしたちを巻き込まないで!」


「一緒に来れば素晴らしさがわかるわ」


「一生わかりあうつもりなんてないッ!」




 そもそも大木が令愛に寄り添うつもりがないのだ。


 いくら親子であっても、二人の感情が噛み合うはずもなかった。




「自分の家族にもまともに向き合おうとしない人が、真の世界とか笑わせないでよ。この世界が腐ってる? 誰よりも腐ってるのはお母さんじゃん」


「なんですって……?」


「あたしの気持ちも知らずに連れ去ったり、心中しようとしたり。はっきり言って迷惑なの! そんなことする人間が、新しい世界に行ったって幸せになれるわけがない! また同じことを繰り返すだけだよッ!」




 反抗的な娘に、母は“当然の権利”と言わんばかりに手を上げる。


 頬をぶたれた令愛は、しかし大木を睨み続けた。




「そうやって殴ればあたしが従うと思ってるの? それこそ向き合ってない証拠だよ」


「私は……私は、あなたをそんなふうに育てた覚えはッ!」


「あなたに育てられた覚えはないッ! あたしは仰木令愛、お父さんの子供だもん!」


「令愛ぁぁぁあああッ!」




 大声で叫び、令愛の胸ぐらを掴む大木。


 言葉で納得させることはできない。


 彼女にできるのは、暴力で相手を服従させることだけだ。


 そんな有様で、令愛が折れるはずもない。


 ヒステリックに怒鳴り続ける大木。


 牛沢は物陰に隠れながら、その様子を観察していたが――急に背後の扉が開いた。


 現れたのは、貢物の料理を運ぶ中見だった。




(……会衣、ピンチかも)




 さすがに前と後ろ、どちらからも隠れられる場所はない。


 近づく足音。


 そしてついに、中見は牛沢が身を隠す樽の前までやってきて――そのまま、何事もなかったかのように通り過ぎていった。




「お母様、まだ料理は残っておりますよ」


「そうね、そうだったわ。令愛、戻るわよ。まだまだ曦儡宮様には貢物を捧げなければならないのだから」




 大木と令愛も玉座の間から出ていったが、誰も牛沢を見つけることはない。


 なぜなら彼女は、姿を消していたから。


 前を歩く大木が開いたドアを、透明になった牛沢と日屋見・・・が通り抜けた。


 そして人の気配がない場所まで移動すると、そこでようやく“スキル”を解除ずる。




「間一髪だったね」




 日屋見は爽やかに白い歯を見せて笑った。




「会衣、びっくりで声が出そうになった」


「いいサプライズだろう?」


「うん、会衣はすごく驚いてる。日屋見さんが生きてたなんて」




 牛沢の顔にも笑顔が浮かぶ。


 ギィも動いているし、きっと依里花も頑張っている。


 そこに日屋見まで加われば、もう怖いものなしだ。




「うちのお姫様はあんな簡単には死なないよ。それにリーダーが死んだからって、私まで消えるなんてありえないからね。あのときは、とっさに姿を消すスキルを使って、死んだフリってやつをやってみたのさ」


「そんなスキルがあるなんて、会衣は知らない」


君主ギュゲスの指輪、神話にちなんだ名前だね。いやはやギュゲスとはね、カイギョというやつは私が卑怯者ということまで見抜いているらしい」


「よくわからないけど……前もって知ってたら、会衣たちそこまでショックを受けなかった」


「誰も知らなかったからごまかせたのさ」




 得意げにそう言う日屋見だったが、牛沢は不満げにぷくっと頬を膨らました。


 しかしそんな頬もすぐにしぼみ、彼女は話題を切り替える。




「そういえば、倉金さんの妹さんはどうしてるか会衣は気になる」


「撃たれたあと、ヒーリングを使ったらすぐに元気になって、ここ最近はずっとホールマンとキャストっていう化物と戦ってる。不意打ちとはいえ、急所を貫かれたのが悔しかったみたいでね。鍛錬のしすぎで私にも構ってくれないんだ」


「それはよかった。二人が元気で会衣は嬉しい」


「喜んでもらえたなら、一芝居うった甲斐があったね。さて、そろそろ三階に戻らないと怪しまれてしまうかな」


「うん、妙蓮寺も会衣を探しているかもしれない」


「戻る前に、三階にいる人たちに伝言を頼みたい。引き受けてくれるかい?」


「もちろん」


「明日、攻勢に出る。依里花先輩も同じタイミングで動くはずだ。爆弾なんかも使うつもりだから、助けが来るまで部屋からは出ないようにしてほしい」


「明日……! わかった、会衣が必ず伝えておくっ」




 牛沢は希望に目を輝かせながら、階段を駆け上っていた。




「はは、かなり浮かれていたなあ。表情で気づかれないといいんだけど」




 彼女の姿が見えなくなると、日屋見は苦笑いしながら透明になって姿を消した。



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