第七十一話①

 暗闇は拓けない。

 暗黒は拭えない。

 被った血糊は鼻につく。

 両手に沁みた罪は禊きれない。


 エイリアスは夢を見る。

 毎晩ずっと、百年近くずーっと同じ夢を見続けている。

 覚えてすらいない本当の両親との僅かな日常、攫われて■■■の殺戮兵器として改造されたこと、他国の兵士や身動きできない女子供すら手に掛けたこと────そして、魔祖直々に手を下されて死に瀕した事。


 絶望と地獄の繰り返しの中で摩耗していく自身の心が死んでいくのを認知しながら、投薬によって強制的に安定させられた精神性が死ぬことを許さない。

 自死という選択肢を塗り潰し、死ぬまで永遠に戦わせる戦争の生み出した業。

 そこから救い上げてくれた英雄の姿。


 そして、そんな英雄が没する瞬間。


 既に乗り越えた筈の泥沼から抜け出せないまま。

 何時の日にか現れる、死神が眼前に至るその日まで。


 ──エイリアスは夢を見続ける。


 遠い何処かへ消えた、かつての想い人へと手を伸ばし続ける夢を。






 ◇






「…………寝てるのか」


 何時まで経っても来ないから心配して来てみたが、この女は静かな寝息を立てて寝ているだけだった。


 俺と生活していた十年近い期間で一度も寝坊したことは無かったから、少し過剰に考えてしまったのは否めない。


 だが、まあ……

 こういう何気ない「大丈夫だろう」が英雄の死を招いた。

 誰も彼もが魔力の揺れを認知できず、全てが過ぎ去った後に事が表面に現出した。


 それを考慮すれば早すぎて困る事は何一つとしてない。


 いつも俺が悪戯されてばかりだからたまにはやり返すか。

 横向きで瞳を閉じたまま熟睡している師匠の横に座って、とりあえず頬を摘まむ。


 柔らかい。

 座する者ヴァーテクスとして人智を超越した怪物の身でありながら、女性らしい柔らかさと美しさを保っている。魔力である程度補完しているとはいえそれは相応の苦労が伴っているだろう。


 俺は女じゃないからな。

 女性が『女性らしさ』を維持する難しさはわからない。


 頬を触っても僅かに身動ぎするだけで、目を覚まさない。


 さてさて、何をしてやろうか。

 いつも床ドンとか地味な寝起きドッキリを喰らっている訳だが、俺から仕掛けるのはなんだかんだ初めてである。ていうか修業期間中は先に起きれなかった。眠たくて仕方なかったし。体力消耗したまま十年生きてたんだから頑張った方だろ? 


「『エイリアス』────…………何か違うな」


 某英雄の真似をして名前を呼んでみたが、どうにも違う感覚がする。


 やっぱ俺とあの人は他人だわ。

 俺は師匠に対して子供を慈しむような感情は湧いてこないし、美人で綺麗だなくらいしか思い浮かばない。


 まあそうだよな。

 俺はこの人の事を『母親』という視点では見ていない。


 正直色々複雑なんだ。

 他人の記憶があって、その中ではこの人は幼くて。

 でも俺はロア・メグナカルトという個人の人格を有しているし、アルスという名を持つかつての偉人とは別人だと断言できる。


 割り切るのだってタダじゃない。


「────…………んん……」


 お。


 安らかな寝顔ではなく、少し不愉快そうに眉を顰めて師匠は布団に潜り込んだ。夏だってのにそんな暑い状態で寝てて大丈夫なのかとも思うが、師匠の身体は人を超えた存在だ。


 俺がやれば脱水症状で体調不良を起こすだろうが、きっと問題ないだろう。


 ツンツン頬を突いてみたが起きる気配はない。

 髪も触った。

 寝ていたと言うのに寝汗なんて一つもかいてない艶と質感を維持している。魔法か? 体質だったら世の女性が黙ってないぜ。


「…………やめろ……」


 …………寝言か。

 夢でも見てるのか知らんが、俺の手を払い除けようとはしない。変わらず撫で続けているが懐かしいような感覚は少しも湧いてこず、俺の胸を占めるのは謎の動悸だった。


 冷静に考えて欲しい。

 俺はポーカーフェイスを極め平常心を習得し男女平等を掲げる程度には芯が強く(遺憾ながら)我慢強い方だ。


 だが、こう…………

 わかるだろ。


 普段上位者の女性が俺に無防備な姿を晒してる事実に動揺してんだよ。


 だからと言って変な事をするわけじゃない。

 後々弱みになりそうな事を口にしないのか気になっているだけだ。決して師匠みたいに床ドンしてビックリさせようなんて事は考えてないさ。


 俺は計算高い(自称)男。

 変にいやらしい手法でセクハラしたら後から何を言われるかわかったもんじゃない。 

 だから俺が怒られない程度で納めておく必要があるのだな。


 すうすう寝息を立てているがその顔は険しい。

 どんな夢を見ているのやら。


 俺も悪夢(かつての英雄の記憶)とは付き合いが長いが、慣れなんてしない。

 いつ見ても不愉快だしいつ見ても無力感に襲われる最悪の映像だ。


 俺は惰眠を貪るのが趣味なのに、趣味を続けていたら嫌な気分にさせられる最悪のデバフがかかっている。


 どうしようもないくらい欲しいモノは手に入らない癖に、要らないものばっか押し付けられてる俺の人生を少しは憐れんではくれないだろうか。


「…………ふん」


 師匠の布団に潜り込みはしないが、そのまま横に添い寝する。

 子供の頃はよくやってくれたっけな。

 山に入りたての頃は一人の夜が怖くて仕方なくて、眠れない夜が一週間程続いた後に師匠が気が付いて一緒に寝てくれるようになった。


 ガサガサ唐突に近くの木々が揺れるのがあんなに怖いなんてな。


 そのおかげで先人の築いた文化や文明の素晴らしさを再認識したよ。


「起きろよ師匠。俺は早く帰りたいんだ」


 実家に居座るのも楽しいが、そろそろ家の手伝いを任されるくらいの立場になってきた。十年離れ離れになってようが少し一緒に暮らせば戦力として見做される。

 俺は客人として招かれるのが好きなのであって、家庭を支える一人の人間として当てにされるのは好きじゃない。


 そりゃあ言われれば手伝うさ。

 でもそれとこれとは話が別だろ。


 でも父上があんな適当なんだから母上の負担は相当なものだと思うんだが、なんであの人たち仲良いんだろ。仲がいいからこそなのか……? 


「………………まだ……もう、少し……」


 …………魘されてないのなら、まあ、マシになったんだろう。

 かつての大戦の際、禁則兵団が壊滅して英雄一向に加わった師匠は長い間悪夢を見続けていた。投薬を重ねられていたのに唐突に途切れたのだから中毒症状もあったんだろう。

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