第17話.寝ぼけた兎



 ――ぴきり、と私のこめかみに血管が浮く。


(うるさい、ですってぇ……?)


 魔法札を手にして喜んでいた少女を転ばせておいて、なんなのだその言い草は。

 私はそのとき、とにかくむかついていた。手も足も痛かったし、むかむかしていたのだ。


「あのね! そもそもあなたがこんなところに転がっているせいで、私が怪我したのですけれど!?」


 そのせいで、その場をそそくさと立ち去るという選択を選ぶことができず、どう見ても不審者らしき人物に――噛みついてしまったのである。

 大人しそう~で儚げな……と自分でいうのもなんだが……そんな容姿の貴族令嬢が、まさか真っ向から言い返してくるとは思わなかったのだろう。金髪の美少年は驚いたようで、目を丸くしている。


 彼は身体を起こすと、地面に座り込んだまま目を落とした。

 長い睫毛が、白い頬に影を作る。そうしていると、弱々しい兎が項垂れているような、そんな風に見えた。


「それは……ごめん」

「えっ」


 そして次に驚くのは私の番だった。

 格好はともかく、どこからどう見ても平民離れした容姿の彼は、高貴な家の出身だと思われる。そんな少年が素直に謝罪の言葉を口にしたのが意外だったのだ。

 さらに文句を言い募るつもりだったのに、気勢を削がれてしまう。そんなに悪い人じゃないのかも、と思ったのだ。


「……ところで、どうしてこんな道ばたで寝ていたの?」


 誤魔化されるかと思いきや、次も答えが返ってきた。


「魔力切れで寝てた」


 その言葉の説得力を深めるように、声も、寝ぼけているようにだるそうだ。


(魔力切れ)


 ああ、そういうことかと納得する。

 人の体内には大なり小なり、魔力が流れている。魔法を使って魔力が枯渇すると、人によって異常なほどの食事や睡眠を欲したりと、飢餓状態に陥るのだという。


(私はそこまで弱ったことはないけれど)


 私の場合は、体内に有する魔力量が尋常ではなく、人並みに疲労することはあっても、何日も寝込んだりしたことはない。


 この少年は場所も問わず倒れてしまったわけだから、何かの魔法を行使し、よっぽど疲労困憊だったのだろう。

 それにしても貴族の出らしい人物が、供のひとりも連れていないのは不思議……。


(あっ)


 そこでひとつの可能性に思い至る。

 彼はもしかすると、私の前に『バニー』に入店していたのではなかろうか?

 それならば、この人気のない場所に転がっていた理由も納得がいく。そう思っていると。


「怪我ってそれ?」

「え? ええ、そうだけれど」


 私の傷ついた膝を、少年の手が指差している。


 改めて冷静になって見てみると、手のひらの傷はともかく、膝はだらりと血が出ていて、それなりに傷が深い。

 勝手に外出し、しかも護衛を振り切って行方をくらました件については、のんびり祭り見物がしたかったのだと言い訳するつもりだったが――こんな傷をこしらえて宮殿に戻ったら、追及は免れないだろう。


(何を言われても、この子のことは言わないようにしないと……)


 不幸な事故とはいえ、皇族の身体に傷をつけたとあっては、彼が罰せられてしまうかもしれない。

 だが、少年は私の正体など知る由もない。申し訳なさそうにこう言った。


「お詫びに治す」

「治すって、そんなの」


 くすり、と私は微笑んだ。治療代でも支払ってくれるのだろうか?

 気遣いはありがたいが、それは不要だと断ろうとしたときだ。


 ――やおら、彼が私の膝裏を掴んで引き寄せた。

 体勢を崩しそうになって、私がもう片方の足でたたらを踏んだときである。


 少年が、赤い舌を伸ばしていた。

 何かを言う暇はなかった。


(…………は?)


 その舌が、べろりと、私の膝を舐めていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る