最終回

 ワッペンを握り締めたまま山の中を走り続けて四十分。ようやく、こうぶ海洋センターへ辿り着いた。施設の門扉は完全に閉まっていたが、門を乗り越えて敷地の中へ入り、急いで施設裏手にある倉庫へ向かった。

 絶対に入ってはならない、覗いてもならないと言われ続け、万が一バレて途中退職となった場合は一円も貰えないまま山を下りることになる。しかし、息子の大我があの中に居るとなればやはり話は別だと考え直した。金ならまた別の方法を見つけて稼げば良いし、そもそも俺が高額な日給につられて働きに来たのも大我の養育費の為なのだ。

 あいつが生まれた頃、まだまともに仕事をしていた俺は嫁と話したくないあまり、仕事を口実に家に寄り付かない生活を送っていた。元々好きでもない相手と作った息子を可愛く思えない時期もあった。

 しかし、小さかった命が日に日に大きくなるにつれて俺は息子を愛せるようになった。最も手の掛かる時期に家に帰らず、育児を放棄していた男のエゴで、それが実に勝手なことだというのは分かっている。

 元嫁には新しい男がいるし、これから先は息子に会えなくなる可能性だって高い。だけど、俺はたった一人の血の繋がった父親なんだ。

 必ず見つけ出して、家に帰してやる。だから、待っててくれよ。


 建付の悪い倉庫の扉はあの時のまま、指を入れられる程度に開かれていた。両方の指を突っ込んで力いっぱい引くと、重たく鈍い音を立てながら人がひとり入れる分くらいの隙間が空いた。

 明かりひとつ無い真っ暗な山中に建てられた倉庫の中は、昼と違って光の粒ひとつ拾わず、恐ろしいほど真っ暗で薄気味悪かった。

 倉庫内は昼と変わらず生簀を循環させる大量の水の音と、何か大きな魚が跳ねるような音が響いている。

 大我の声が聞こえて来たのは倉庫のずっと奥の方だったはずだが、とにかく真っ暗で倉庫の中がどれくらいの広さなのかも見当がつかない。スマホのライトを照らして奥へ進もうとするが、照らすことの出来る範囲はせいぜい二、三メートルが良い所だろうか。

 とにかく奥へ進まなければ何の手掛かりも得られなさそうだと決心し、スマホのライトを頼りに奥へと歩き出す。いくつかある巨大な生簀の間を進んで行くと、丸型に掘られた生簀の中でゆらゆらと大きな魚が泳いでいるのが見えた。これは、マグロだろうか。いや、それにしては線が細い。鮫のようにも見えなくもない。一体何の魚か見当がつかないでいると、真横の生簀で大きな魚が水面を飛び上がって姿を現した。

 その姿に、俺は思わず自分の目を疑った。

 スマホのライトが照らし出したヌメヌメとした生物は、魚ではなかったのだ。

 それは上半身がほぼ人間のような姿をしていて、下半身だけが魚という奇妙な形の生き物だった。それに、水面に戻る時に見えたヒレには見覚えがあった。あれは毎日毎日、俺がバケットの中に投げ入れているヒレと全く同じものだった。

 この生簀の中を泳いでいるのが全てあの生物だと思うと恐怖で叫び出しそうになったが、なんとか堪えた。

 さらに奥へ進んで行くと、微かに叫び声が聞こえて来る。


「お父さん」


 そう叫んでいるのがハッキリと聞き取れたし、間違いなく大我の声だった。

 俺は無我夢中で濡れた通路を走って進んで行くと、倉庫の奥に喫煙所のようなガラス張りの小部屋と扉があるのが見えた。声はあの中から聞こえて来ているのは間違いなさそうで、悲しんでいるに違いない大我を想像しながらドアノブを回し、力任せに引っ張った。幸い鍵は掛かっておらず、扉は簡単に開いた。大我をまずは安心させて、ここを出たらこの施設を告訴してやろうとも思った。

 扉が開いて中へ入ると、大我が叫ぶ「お父さん」という声が部屋中に大きく響いていた。しかし、その声は大我が発しているものではなく、部屋の真ん中に置かれたテーブルの上にあるラジカセから繰り返し流されていたものだった。


「なんだよ……これ」


 俺は絶望というものがどういうものなのか、この時はっきりと感じ取った。

 じゃあ、行方不明の大我は一体何処へ行ってしまったんだ? この声は間違いなく大我の声に違いないし、ワッペンだって大我のものに間違いないはずだ。

 それにさっきの人魚のような不気味な生物は一体何なんだ? 

 ここで一体、何が行われているというんだ? 

 考えることが多過ぎて頭の中が急激に回転し始め、俺は何から順番に考えたら良いのか分からなくなって来る。

 ホテルに帰って冷静に考えようか、それとも警察に通報してみようか考えていると、今度は生簀の方から呻き声が聞こえて来た。それも、ひとつの声がいくつも重なり合っているような呻き声だ。

 何の声だか見当もつかずにスマホのライトを生簀の方へ向けてみて、俺は堪らず小さな悲鳴を上げてしまった。

 生簀の中を泳いでいたはずの何匹かの生物が通路に上がり、腕の力だけでこちらに向かって這って来ていたのだ。


「あうけて、あうけて」


 そう呻く声がいくつも重なって、不気味に倉庫の中に響いている。

 倉庫の外へ出ようと思ってライトを向けてみると、生簀の間の通路は全てあの生物が這っているようだった。

 髪の毛のない痩せこけた顔についた両目は人間のものよりかなり離れていて、黒目が左右共に外側に向いている。鼻は穴が開いている程度に見えるが、口元は人間とそう変わらないように見える。

 あいつらは一体、何者なんだろうか。日本語のような言葉を呻いているということは、元は人間だったのか? 

 このままでは連中がここまで来てしまいそうな気がして、急いで扉を閉めた途端に倉庫内が一気に明るくなった。

 誰かが入って来たようで、奇妙な生物達は鈍い動きで這いずりながら次から次へと生簀の中へ飛び込んで行く。

 内心助かったと思ったが、ここにいるのがバレてしまえばきっと山を下ろされることになる。しかし、それでも仕方ないと思えた。いざとなったら暴れ回って大我の居場所を聞き出しても良い。

 来るなら来い、と思っていると扉の方からやって来たのはあの「生研者」の白衣の老人だった。

 老人は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、こちらへ向かって歩いて来る。

 どうやら何か呟きながら笑っているようで、俺はとりあえず小部屋を出ることにした。


「いやいや、君の行動力には実に驚かされたよ」

「……」

「とでも、言うと思ったかい?」

「俺の息子をどうしたんだ!? ええ!?」

「ふふ、どうしたもこうしたもあるか。心理学というのはさっぱりだが、人というのは一度思い込むと、それが確定事項となるまでずいぶんと骨を折って必死になる習性があるようだね」

「そりゃ、どういうことだ?」

「まぁ、最も……君の場合は思い込みではなく、正解と言えるがね」


 老人はずいぶん落ち着いた素振りで小部屋の中へ入ると、繰り返し大我の叫ぶ声が流れていたラジカセを止めた。


「まずひとつ、答えよう。あの生物に対して君は疑問があるようだが、答えは簡単だ。これから先やって来るであろう世界的な飢餓に対する備えだと思ってもらえば良い」

「うちの子供をどうしたって聞いてるんだよ!」

「自然淘汰という現象があるがね、あれは自然界の中でのみ起こり得ることだと思うかね? 人間界においても、目を向けないだけで様々な淘汰が行われているんだ。君なら、身に覚えはあるんじゃないか?」

「デタラメ言ってんじゃねえぞ! 大我は何処かって聞いてんだよ!」

「様々な制度や保護活動により、その命は淘汰されることなく蔓延っている。これが人が作った自然、つまり社会においてどれほどの無駄を生み出しているか、君は想像したことがあるかね?」

「大我を何処にやったんだよ! 殺すぞてめぇ!」

「その活用方法として、備えになるべき命に換えるという方法を我々は生み出した。この施設はダミーに過ぎない。君のように働く従業員達は全員、いずれ君と同じ形になる。逃げても無駄だ。しかし残念ながらね、本丸はここではないんだ。今は美食家とかいう連中相手にやっているだけだがね、それはそれで良い資金源になる。しかし、目的は違う」

「てめ……あれ?」


 頭のおかしなクソジジイをぶん殴ってやろうかと思った矢先、視界が揺らいで身体が崩れた。舌が痺れ、上手いこと口が回らない。


「うん、行動開始から倒れるまでおおよそ計算通りだね。こんなつまらない計算でも、少しは脳の運動にはなる」

「てめ、何、した……たい、大我を、かえせ」

「ほう、返せとな? それは無理な願いだね。何故ならあの子は既に君の胃の中へ入り、消化物となって排出されてしまったからね。特例食とかいうのを実に旨そうに食っているのをカメラで見たよ。つまり、血縁関係においての拒絶反応が出なかったという訳だ。あのホテルの便槽から拾ったデータでも、無事に排出されたという確認は取れているよ」

「何……言って……」

「とにかく短期で備えになってもらう為に様々な準備を要したよ。それは君がここへ来るずっと前から始めていたことでね、シミュレーションでは上手くいったが、正直なところこの私の中でも不安はあった。しかし、想像以上に上手くいった。培養のスピードが適正以上だったんだ。なら、君もその可能性を秘めているということになる」


 さっきからこいつは何を言っているんだ。理解をしようと思っても、身体が上手く動かない上、頭の中まで痺れたような感覚になっていて聞き取ることもままならない。


「……」

「これからすぐに、君の人としての記憶は薄れて行くことになる。これは君にとってせめてもの救いだが、水の中を親子で泳ぐ夢を見れることを願っているよ」

「……な……」

「それでは、上野君。さようなら」


 何人かの足音が束になってやって来る。俺は服を脱がされ、腕に何かを刺される。冷たい液体が急激に血管の中を巡って行くのを感じる。身体が引きずられ、生簀の中に落とされ、視界がすぐに暗くなる。行かないで、どうか、行かないでくれ。無数の腕が、俺を掴んで、俺は、俺でいることを、俺は俺で、俺は俺という存在で、腕が離れて行く、浮上を感じるが、俺は俺、俺は、俺という認識がある、まだ、俺は。俺。














 音、する、でる。




 あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。あうけて、あうけて。






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中を覗くな 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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