第5話
元嫁から息子が行方不明になったと連絡があった翌日、そしてその翌日も捜索は続いていた。警察は事件性も含めて捜査を始めたようだったが、手掛かりになる情報は何も得られていないとのことだった。
二週目の火曜日となった今日も、俺は変わらずベルトコンベアに載って流れて来る魚のヒレを掴んでは空のバケットの中へ入れて行く。吉村の言う通り、俺が今戻ったとしても何も出来ることは無いと考え直した。何も考えないように、何も疑問に思わないように徹底し、一日が過ぎるのをただひたすら耐え続ける毎日。
しかし、その日はいつもと違う出来事が起きた。
休憩から戻り、いつものようにバケットの中に魚のヒレを入れていると、突然ベルトコンベアが停止した。今までは魚のヒレが流れて来ないことはあったものの、停止するのは初めてのことで、このまま作業が早く終わるなら早く帰れそうだと期待していると、作業場の奥の出入口から白衣を着た老人がやって来た。ここに来てすぐの頃、倉庫の横を血塗れの白衣を着て走っていた老人だ。
薄い頭と鷲鼻の組合せが如何にも神経質な性格を思わせた。老人は真っ直ぐに俺の方へやって来ると、まじまじと俺を眺めながら丸い眼鏡を掛け直した。
「君が、最近入った子か?」
「はい。先週から世話になってます、上野です」
「そうか。どうせすぐにいなくなるんだろ? なら、名前などどうでもいい」
「まぁ、はい」
「私について来てくれ。手伝ってもらいたいことがある」
老人に言われ後をついて行くと、施設内の薄暗い廊下を奥へと向かって行く。突き当たりの扉の向こうは絶対に入ってはならないと普段から口煩く言われているエリアで、俺は不味いと思って立ち止まった。
「どうした? ついて来なさい」
「いえ、そっちへは入るなと言われてるので」
「馬鹿を言え、私は生研者だ。私が良いと言えば良いんだ」
「せいけんしゃ、あぁ……」
こいつが相澤が講義で言っていた例の役職の人間なのか。無関係だから、と言われていたので俺が掴まった理由が分からずにいたが、理由は単純なものだった。
倉庫へ入るための扉の建付が悪く、開かなくなってしまったと言う。他の連中は与えられた作業で忙しくしているらしく、一番暇で力がありそうな俺が選ばれたという訳だ。
扉はかなり年代を感じさせる赤錆の浮いた鉄扉で、これは確かに老人の力ではびくともしなさそうではあった。
老人と力を入れて扉を引くと、人が一人通れそうなほどの隙間が出来た。
「すぐに戻るから、君はここに居なさい。絶対に動いたり、中を覗いたりしないように。分かったね?」
「ええ、承知してますよ」
老人はありがとうの一つも言わず、身体を横にして中へ入って行った。研究者というのは頭の変な奴らが多いと聞くが、あのジジイもその手の人間なのだろう。
僅かに開いた扉の向こうからは思惑通り、水を流し続ける音が束になって聞こえて来る。吉村は生簀じゃなかったと言っていたが、やはり生簀なのだろう。老人がしばらく戻りそうも無かったので、せっかくと思い中を覗いてみる。
すると、中はほぼ真っ暗でほとんど何も見えやしなかった。しかし、扉から入る光をかろうじて巨大な生簀の水が拾い、水面が揺らいでいるのがなんとか確認出来た。生簀の中では魚が泳いでいるようで、でかい大人が風桶から出る時のような音があちこちから聞こえて来る。音からしてよほど大きな魚なのだろうと思っていると、真っ暗な空間の奥から微かに叫び声のようなものが聞こえて来た。じっと耳を傾けて澄ましてみると、やはり間違いない。人の叫び声だった。それもまだ小さな子供の叫び声で、息子と同じくらいの男の子の声だろうか。何か同じ言葉を繰り返しているので注意深く聞いてみると、
「お父さん」
と叫んでいるのが分かった。その途端、背中に強烈な寒気を感じた。考えたくもなかったが、その声が息子の大我の声にそっくりだったのだ。子供の声なんてどいつも似たようなものだろうと無理やりその考えを掻き消そうとしたが、やはり間違いない。あれは大我の声に違いない。父親としての自分が、そうだと言っている。
しかしその一方で、そんなことが有り得る訳がないと否定する自分もいる。万が一中を覗いているのがバレたら全てがパァだ。きっと、無給のまま山を下ろされるに決まってる。そんな訳がないじゃないか、と考え直して元の位置まで下がると、すぐに老人が戻って来た。危うくバレる所だったが、老人は特に気にするような素振りすら見せなかった。
「今度は閉めてもらおうか。かなり古いものだからな、修理か交換が必要になりそうだ。鍵を掛けるまで閉めたら今度こそ開かなくなるか……そうだ、ほんの少しだけ隙間を残しておいて、閉めてもらおうか」
「ええ、分かりました」
老人に言われた通り、倉庫の扉を手が入れられるほどの隙間を残して閉める。老人が作業場まで同行するというので、二人で元来た道を戻る。あの時のような返り血は白衣にはついてはいなかったが、隣を歩く老人からは鉄のような、生臭い血液の匂いが漂って来た。
一日の作業を終えてホテルへ帰ると、なんとも落ち着かない妙な胸騒ぎに襲われた。あの倉庫の奥から聞こえて来た子供の叫び声は、やはり大我の声だったんじゃないかと思い始めて来たのだ。
しかし、何であの場所に大我がいるのだろうか?
子供がいたとして、生簀で何の役に立つというのだろう。いたとしてもおそらく、大した労働力にはならないはずだ。
なるべく様々なことを考えないようにして来たが、一度考え始めると次から次へと疑問が湧いて来た。
一日十万円という法外な日給。倉庫内で行われているであろう研究。この一軒家のようなホテルが存在する理由。そして、誰一人として会話を交わそうとしない職場。人への標、という本。
俺は最初から何かの目的があって、ここへ連れて来られたんじゃないだろうか。しかし、無給になるとは言え帰りたいなら止めないと吉村からは言われている。
あの倉庫へ行けば、全てが明らかになるのだろうか。
そう言えば、倉庫の扉は今僅かに開いているんだったっけ。いや、ダメだ。やめよう。
俺はようやく射程圏内に入り始めた百万円の為、余計なことは考えないようにして眠ることにした。
翌日、休憩に入る前に相澤からある一冊の本を手渡された。それはここの連中が休憩時間になると熱心に目を落としている「人への標」というあの本だった。著者名に見覚えはなく、これが何の本なのか見当は付かなかったが、おそらく宗教団体か何かが出した怪しげな本だろうと思っていた。
「もうすぐ終業になりますけど、休み時間の暇潰しにでもして頂けたらと思います」
「悪いですけど、これって宗教とかの本なんじゃないですか? 俺、そういうのはちょっと……」
「いえいえ、そういう類のものではないです。クイズゲームだと思って下さい」
「クイズゲーム?」
「読めば分かりますよ」
一体どんな本なのかと思って捲ってみると、文字と図が書き込まれたページがズラズラと目に飛び込んで来る。鉛筆で描かれた精密な腸の断面図の中を豚が二匹、歩いている図だった。
文の方にはこう書かれている。
『究極の幸いとはこのような形を成しています。彼等は今、完膚なきまでの災いを過ぎた世界の中にいます。その為に必要な心理がこの中に隠されていますが、その答えを知る為のヒント:事象の地平線の観測点。存在が潰えた後に、データとして残る情報の取り出し方。みなさんの身の回りに起きている現象で、今日もあなたはその上にいます』
文を読んでも、図を見ても、何を言っているのか、そして何が言いたいのかもさっぱり理解不能だった。ここの奴らは毎日熱心にこんなものを読んでいるのかと思うと、何だか急に憐れに思えて仕方なかった。
相澤は読めば分かると言っていたが、本に目を通したことでこの場所がより一層胡散臭く思えた。
昼休みに元嫁に連絡を取ってみたが、やはり大我は見つからないままだった。
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