第4話
山の中に建つ「こうぶ海洋センター」に二週間の約束で勤め始めたが、一週間が経っても日給十万という法外な給料の理由が働いてみても尚、理解出来なかった。
作業はベルトコンベアから流れて来る魚のヒレを延々空のバケットへ投げ込むだけで、それ以外には命の危険やリスクを背負うような作業もない。施設内には「絶対に倉庫に近付いてはならない」「私語を交わすな」という厳しいルールが設けられてはいるが、元々二週間の予定で働いている俺にはここで働く他人や施設に興味などないし、まるで無関係のようにも思えた。
ここへ来て最初の休日に当たる土曜日の昼間。
俺の中の悪い虫が騒ぎ出し、無性にパチンコ屋へ行きたくてたまらなくなっていた。一週間も山の中のホテルと作業場を行き来するだけの生活だったから、ストレスが掛かるのも無理はないと自分に言い聞かせ、スマホでパチンコ屋を探した。
ここから一番近いパチンコ屋は十キロ以上も離れていて、とにかくこのクソ山を下りなければどうにもならなそうだった。タクシーを掴まえて下山しようと思ったら生憎空きがないと断られ、ここから歩いて三キロほど先に停まるバスで街まで向かうことにした。
バス停に着くまでの道のりは鬱蒼とした緑の景色が続くばかりで、家の一軒すら見当たらない。時々林の中に廃屋が見えたり乗り捨てられた錆びた車があるくらいで、人の気配なんかもちろんなかった。なんとか歩き切って他に客のいないバスに乗り、下山するのを待ち侘びていると真っ黒なワゴン車が背後からくっついて来ていることに気が付いた。
山を下りて視界が開け、街らしき場所に着いてもワゴン車は背後をぴったりとくっ付いて着ていたが、俺がパチンコ屋に近い場所でバスを降りるとワゴン車はバスに続いて走り去って行った。背後をつかれていると思っていたのは取り越し苦労で終わり、無意識に神経が磨り減っていることを実感する。あんな場所で毎日作業をしていたら、それはそうだと言い聞かせながら客がまばらなパチンコ屋へ入る。
こうぶ海洋センターの給料が出る前だから当然使える金は限られていたが、ラッキーなことに打ち始めてからものの五分で大当たりが来た。
近頃負け越してばかりいたが、やっとツキが回って来たのだろう。その後も辺りが続いて極彩色の明滅に視界を委ねていると、ポケットの中で振動を感じ取った。スマホを取り出して画面に目を向けると、元嫁からだった。やっと回って来たツキを離したくなかった俺は無視したが、電話は闇金の催促のようにその後も鳴りっぱなしだった。
夕方前になり、今日は勝ちで帰れることを確信してから仕方なしに電話に出てみるといきなり金切り声で怒鳴られた。
「テメェなんで電話に出ねぇんだよ!」
「っせーな! こっちだって用事あんだよ! どうせ金のことだろ? テメェはそれしか言うことねぇのかよ!」
「ちげーよ! 大我がいなくなったんだよ!」
「はぁ? おい、どういうことだよ」
「だから、昨日の夕方から大我が帰って来ないんだよ!」
勝ちに浮かれていた俺の心は一瞬にして瞬間凍結されたように冷えて固まった。大我に何かあったんじゃないかと、つい悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。
「ねぇ、大我あんたの所行ってないよね?」
「俺、今仕事でさ、二週間家から離れてるんだよ」
「はぁ!? なんで家にいねぇんだよ!」
「てめぇが金、金うるせぇから稼ぎに来てんだよ!」
「本当……マジ使えねぇ……捜索願は出したから。警察も捜してくれてるし、何か分かったらまた連絡するけど、お金のことは約束事なんで、それはそれとしてしっかりして下さい。あなたは大我のたった一人のお父さんなんで」
「……もうすぐ、代わるかもしれねぇのに?」
「うるさい」
うるさいという言葉に文句を言ってやろうと思ったが、電話が切れた。
俺は居ても立ってもいられず、すぐに吉村に電話を掛けた。もうあんな場所で働いている暇はない。すぐにでも帰って大我を探さないと、もしかしたら俺のアパートに向かう最中で迷子になった可能性だってある。大我はまだ五歳だし、前に来たことがあったがその時は元嫁が車に乗せて来たから来れたものの、歩きなんかじゃ絶対に無理だ。
「もしもし、吉村さん? 緊急の用事があって、お願いがあるんですけど」
「あー……上田君? どうしたの」
「いや、上野です。あの、息子が行方不明になったって連絡があって、こうしちゃいられないんで、すぐにでも戻りたいんですけど」
「捜索願は出したの?」
「はい、元嫁が出したみたいです」
「じゃあ警察に任せなよ……君がどうこう捜すより、プロに任せた方が確実でしょ……ガキならすぐに動くからね、警察は」
「いや、そうも行かなくて。もしかしたら、息子は俺ん家に来ようとしてたかもしれないんですよ」
「そんなのさぁ、警察が動いてくれるから大丈夫だよ。あいつらだって馬鹿じゃないんだから……君の所にもすぐに連絡が入るでしょ……」
「いえ、親としてこうはしてらんないっすよ! 一週間働いた分頂いて、それで今日付けで退職ってことでお願い出来ますか?」
「…………おい、そりゃあないんじゃないの?」
吉村は怒っているのだろうか、声のトーンがひとつ下がった。しかし、ここで簡単に引き下がる訳にはいかない。大我は今頃知らない街の隅っこで泣いているかもしれないのに。
「いや、お願いします。マジで」
「君さぁ、そもそも……親の資格あるの? え? 返せないくらいの借金作って、正規じゃ借りられなくなって、それで闇にまで手ぇ出してさ……それでも返せなくなって掲示板見て応募して来たんだろ?」
「まぁ、そうっすけど……」
「俺がガキならそんな父親ゴメンだねぇ……だってさぁ、見てご覧よ。世の中にそんな父親、いないでしょ? なんでいないか知ってる? 子供にとって必要ないからだよ。その辺り、女達はよーく知ってるよ……君が欲しいのは子供じゃないだろ、子供がいるという世間体だけだろ……」
「違いますよ! 俺は、大我のことを本当に愛してます……それだけは本当です」
「だったらテメェ、その体たらくは何だよ。あぁ? 愛してますだ? ナメたことヌカしてんじゃないよ。子供は愛なんかで飯食えない訳だし……テメェは借金まみれの今にも目が潰れそうな現実を直視して、底辺以下の世界で生きて行くしかないんだよ……ガキなんて贅沢品、欲しがっちゃダメなの。さっさと忘れた方がガキの為にもなると思うよ……最近流行りの、ほら、SDGsだっけ? ゴミの方がまだ世の中の役に立ってんじゃない」
「そこまで言うことないじゃないっすか! 吉村さんに俺の何が分かるって言うんですか!」
「……知るかよ。俺も君も、ただの他人同士だろ」
「……マジで焦ってんすよ、今。お願いですよ、帰らせて下さいよ」
「まぁ……別に止めないけど。君さぁ、相澤さんと交わした契約書読んでないでしょ?」
「あの、初日に書いたやつっすか?」
確か、初日の説明の時に契約書を書かされた覚えはあった。けれど、どうせ二週間だけ我慢すれば良いと思って中身なんてほとんど見ずにサインしたはずだ。
「契約……途中退職の場合は無給だよ、そこ」
「そんな、なんでっすか?」
「あのさぁ……一々説明するのも面倒なんだよ。バイト雑誌で集めた労働者じゃないんだから、それくらい分かりなさいよ……ったく」
「……そんな、マジかよ」
「だからさぁ、ガキは日本の優秀な警察に任せて、大人しくあと一週間頑張って……それで、大金もらって帰りましょうよ。迎え行くからさぁ……ね?」
「わかり、ました……すいません」
「分かれば、良いよ。あと……」
「はい?」
「余計なことかもしれないけど……ガキの為に金欲しいならさぁ、パチンコは感心しないなぁ……音、丸聞こえだよ。じゃあね」
電話を切った後、強烈な虚しさと怒りが込み上げて来た。虚しさは今の自分の状況を客観的に指摘されてしまったことで、俺に父親の資格などないことを元嫁以外の人間に改めて突きつけられたからだ。
怒りは吉村の融通の利かなさ、そして自分が地の底まで落ちてしまったことへの後悔だった。自分が悪いのは十分に分かっているが、もうどうすることも出来ないと諦めてしまう自分の切り替えの早さにも腹が立った。
息子が行方不明になっているというのに、換金所で数枚の万札を手にした俺は心の内から悦びが湧き上がって来るのを感じていたのだ。
パチンコ屋の駐車場で営業していた焼鳥の移動販売で串を大量に買い込んでから山へ向かうバスに乗り込み、夕べの窓に映る自分の顔を見る。ニタニタとほくそ笑んでいた自分の顔を見て、俺は死ねば良いと思った。
しかし、その数秒後には焼鳥を食ってビールを飲むことを想像し、胸には抗いようのない悦びが迫り上がる。ひとりぼっちで薄闇の中を歩き、泣いていた息子の姿は欲の波の奥へと消えて行く。ホテルへ帰れば俺はまた酩酊し、何も考えない世界へ飛び込んで行く。そうして、ただ一日一日を食い潰して行く。
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