第三章 戦う花守たちの開花
第1話 臆病少女、クシズの悪夢
一夜が明けた後、ハルトシは〈花の戦団〉本部に出勤した。昨日のうちにウタカとクシズが報告書を書いていてくれたため、今日はいつもより遅めに顔を出している。
キヨラたちにも今日はカンパネルラたちの監視をすると伝えており、いつも通り東棟の玄関で待ち合わせをしていた。
執務室にノギ隊長は不在だったため、執務机に報告書を置いておいたハルトシは適当に廊下を歩いている。約束の刻限まで間があるため、二階の喫茶店に寄ろうと階段を上がると、その先で見知った顔に出会った。
「これはハルトシさん。おはようございます」
「あ、おはようございます。ミチフユさん」
ミチフユは第九番隊に所属する男性〈花守〉である。ハルトシよりも五歳ほど年長で二十代中頃を過ぎているはずだった。
ミチフユは小柄で均整のとれた体格をしている。黒髪黒瞳で整った顔立ちをしているが、分厚い眼鏡をかけているせいか地味な印象が強い。
腰には剣を提げており、ミチフユは〈花の戦団〉では有数の剣の使い手でもある。戦闘能力の無い男性〈花守〉には稀有な、下級〈喰禍〉ならば自力で身を守れる人物だった。
「どうです。キヨラさんの様子は?」
「はあ。頑張ってもらっています」
「そうでしょうね。キヨラさんほどの実力者は戦団でも珍しいですから。……それで、キヨラさんをいつ返してくれるのです?」
ミチフユは目を細めてハルトシを見据える。その眼鏡の奥では、嫉妬と恨みが漏れ出ている瞳が底光りしていた。
ミチフユがハルトシに怒りを覚えるのは筋違いではあるが、心情的には理解できないことではないとハルトシは思う。
元々キヨラはミチフユと同じ九番隊に所属していたのだ。根がマジメなキヨラは、これもまた几帳面なミチフユと気が合っており、戦団内の風紀委員のような二人は有名だった。
彼に剣を教えたのはキヨラでもあり、ミチフユにとっては同僚を超えた対象だったのだろう。 しつこくキヨラを九番隊に戻すように要請しているという話もあり、キヨラへの執着はかなり強いらしい。
「キヨラが九番隊に戻るかどうかは、俺が決めることじゃないですから。団長とキヨラ自身の気持ちによりますよ」
ハルトシもいわれのない恨みを向けられて平静ではいられない。
「キヨラだってクシズ班に馴染んでいますよ。みんなで仲良くやっています」
「ほーう。本当でしょうか?」
ハルトシの額に青筋が浮かぶ。
「そりゃあ、昨日だって食事に行きましたからね」
「食事? そ、それは、まあ、班の友好を深めるために食事をすることもあるでしょう」
「いや、俺とキヨラの二人です」
「ふ、二人だけ⁉ そんなバカなこと……」
ハルトシの一言は、ミチフユに甚大な打撃を与えたようだった。
「いい、一年以上一緒にいた私だって、二人だけで食事なんて……。なぜ、そんなこと……」
ミチフユは両手で頭を抱えると、よろめきながら歩き去っていく。捨て台詞すら残せないその姿にハルトシは憐れみを感じたが、首を振って喫茶店へと向かった。
「遅いではないですか、ハルトシ」
東棟の玄関に着いたハルトシに浴びせられたのは、その言葉だった。
すでにキヨラとウタカは到着しており、ハルトシを待ち兼ねていたようだ。
「ごめん、ごめん。ちょっと〈小鳥の集う泉〉で休憩していたんだよ」
「もう、人を待たせておいて休憩とは勝手なものですね」
ハルトシが苦笑いしながら歩み寄る。
一方、ウタカはキヨラの横顔を盗み見ていた。ハルトシを相手にキヨラが軽口を叩くことは珍しいと思ったのだろう。
「あとはクシズだけか。まあ、そのうち来るだろ」
ハルトシが腕を組んで壁にもたれかかる。その呑気な様子を眺めたウタカが口を開いた。
「どうかな。クシズちゃん、昨日の夕食であまり元気が無かったからね。〈光の民〉や〈禍大喰〉は、クシズちゃんには刺激が強過ぎたんじゃないかな」
「今日はクシズが来ないってことか?」
「そうじゃないけど。クシズちゃんって月に何回か体調を崩すでしょ? 今日もそうかもしれないってこと」
「とりあえず待ってみよう」
ハルトシがそう言ってから、半時間ほど経過してもクシズは姿を見せない。仕方なくハルトシが壁から背を離した。
「俺がクシズの家まで行って様子を見てくるから、二人は〈小鳥の集う泉〉で待っていてくれ」
「ハルトシ一人で行く必要はありません。私も行きますよ」
進み出るキヨラの腕をウタカが掴んで引き留めた。
「まあ、待った、待った。クシズちゃんだって、みんなで迎えに来られたら気が引けるよ。ここはハル君に任せた方がいいって」
「はあ、そういうものですか。分かりました。……ハルトシ、お願いします」
「ああ。悪いけど二人は少し待っていてくれ」
ハルトシは身軽に玄関から出て行った。
クシズの家は〈花の戦団〉からもそう遠くない。ハルトシもクシズの家を知っているため、その爪先はまっすぐに目的地へと向かっている。
朝と呼ぶには遅くなり始めた時間であり、通りには人が溢れていた。日用品を売る小間物屋で買い物をする人や、喫茶店で遅めの朝食をとっている人もいる。
そのなかでハルトシは忙しなく歩を進める。ふと、通行人のなかで見慣れた日傘が揺れているのを見つけて駆け寄った。
「おはよう、クシズ」
日傘を差しているうえに面を伏せていて、クシズはハルトシに気付かなかったらしい。声をかけられてから、初めてハルトシと目を合わせた。
「ハルトシさんー……。すみません、待ち合わせの時間に遅れてしまってー」
クシズの顔を目にしてハルトシは驚いた。クシズの目の下には濃い隈が浮いており、元より色白の肌には血の気が無い。
「どうした、クシズ? 具合が悪いのか?」
「いえー。夜に眠れなかっただけですー。大丈夫ですからー」
「今日は休んでいた方がいいんじゃないか?」
クシズは健気に首を横に振って謝絶する。
「みんなが頑張るのに、一人だけ休んでいられませんからー……」
弱々しく笑みを浮かべるクシズの横に、ハルトシが並んで歩き出す。
クシズは今日のように睡眠不足で体調を崩すことが多い。ちゃんと聞いたわけではないが、あまり幸福な生い立ちではないようで、人知れない苦悩があるのだろうとハルトシは思う。
「何か眠れない理由があるのか?」
「それがー」
言い淀むと、クシズらしくもない観察するような眼差しをハルトシに注ぐ。その紫紺の瞳に決意の色が浮かぶと、クシズは口唇から重苦しく言葉を押し出す。
「ときどき、怖い夢を見るんですー」
「夢?」
「昔の、夢ですー」
クシズは、幾度も繰り返すという悪夢の光景を語りだす。
その日、クシズは家族と遠出をする予定だった。
『準備はできたか?』
それはクシズの幼い頃の記憶だったが、優しく語りかけてきた父親は影のように黒塗りの姿をしていた。当時は幸せに満たされていたはずの部屋のなかも薄暗かった。
まだ幼いクシズは大きな父親を見上げる。
『うんー、もうできたよー。お母さんのほうがまだできていないもんー』
『はは、それは困ったな』
クシズは目の前にあった父親の新聞を手に取って読み始める。内容は分からないが、占いの記事が好きでそこだけを読んでいた。
『ねえー、お母さん。わたしの今日の幸運を呼ぶのは、これだってー』
クシズが新聞を指差す。幼い彼女にはその言葉の意味が理解できなかったのだ。
黒い影の母親が近づいてくると、クシズの前にしゃがみ込む。
『ああ、日傘ねー』
『ヒガサー?』
『そうよー。晴れの日に日差しから身体を守るための傘なのー』
『へえー。お母さん、その日傘を貸してー』
『ええー? 邪魔になると思うけどー』
そう言いながら母親は白い日傘を持ってきてクシズに手渡した。
『お母さんとお父さんの運は悪いみたいー。お守りを持っていったらー?』
『お父さんたちは大丈夫だよ。それより、早く行かないといい席がとれないぞ。今日の劇を見に行くのを母さんが楽しみにしているからな』
場面は変わってクシズはいつの間にか乗り合い馬車に乗っている。
二頭の馬が引く大きな幌屋根付きの馬車には、クシズの家族だけでなく他の客も乗っている。客もみんな黒い輪郭の人影であり、馬車のなかは闇がわだかまっているようだった。
クシズは飽きることなく景色を眺めていた。その景色が岩山の崖際の道に変わったとき、その耳に大きな音が聞こえる。
硬いものが打ちつけ合うような音は段々近づいてくるようだった。音とともに衝撃がクシズの小さい身体を揺らす。
恐怖で身を竦めていると、崖を転がり落ちてきた岩が馬車の屋根を突き破った。その反動で端に座っていたクシズは道へと投げ出される。
大岩は馬車を直撃すると、馬車を引きずって横の谷へと落ちて行った。
『お、お母さんー……、お父さ、ん……』
クシズは崖から身を乗り出して両親を呼ぶが、その声は谷に吹く風に消し飛ばされる。
自分の生命を救ってくれた日傘を握りしめながら、ただ一人で泣くしかできなかった。
「……そこでいつも目が覚めるんですー」
自身を苦しめる過去の呪縛をクシズが語り終える。
ハルトシはその悲痛な経験を聞いて口を開くことができなかった。クシズの苦痛を和らげる言葉が思い浮かばなかったし、心にもない同情は気休めにもならないだろう。
悪夢の恐怖を思い出したのか、クシズの手が震えて日傘が大きく揺れている。ハルトシは思わず手を伸ばし、日傘の柄を掴んで支えた。
沈痛に伏せられていたクシズの双眸がハルトシを向き、安心したように細められる。
表面上は臆病だし無責任、頭を使うことはウタカに任せて極力楽をしようという長所よりも短所の方が目立つクシズだが、自身が班長であるという自覚は持っている。
そもそもクシズが班長なのは三人のなかで年長であるからではなく、〈花の戦団〉内では
〈護療士〉たるクシズはその日傘により仲間を守護しつつ、その周囲にいる人物へと鎮痛と傷の回復を早める効果をもたらす加護を有している。
かつての〈プラツァーニ戦役〉で、出征した三番隊と七番隊の被害を最小限に抑えて死者を出さなかったのも、仲間たちの拠点として尽力したクシズの功績によるものだ。
それにクシズは臆病だが、仲間を守るためにその恐怖心を乗り越える強さがある。怯えながらも仲間のために前へと進む強さこそ、クシズの本質だとハルトシは思う。
ハルトシが三番隊に配属になった初日、ハルトシはクシズに髪の毛を一本欲しいと頼まれたことがある。どうするのか尋ねると、クシズが笑いながら答えた。
「お守りを作るんですー。そのお守りがあればー、きっとみんな無事でいられますからー」
クシズはその日の運勢によってお守りを変えるが、必ず所持するお守りがある。それはクシズ班員の髪の毛が入ったお守りであった。
仲間の無事をクシズは誰よりも願っている。その優しく強いクシズを、ハルトシは同じ隊として誇りに思った。
「無理はしなくていいよ。キヨラとウタカも心配しているし」
「わたしってばー、迷惑ばかりかけてー……」
「そんなことないさ! 早く戦団本部に行って二人を安心させよう」
「急ぐんですかー? ハルトシさんー、無理はしなくてもいいって、さっき言ったのにー」
「……」
「また赤い服を着た人がいましたー。一日で赤い服を着た人を三回見たら不幸になるって、トレコ王国の民話にありますー。相変わらずわたしは今日も不幸なんですねー……」
やっぱり短所が目立つということを、ハルトシは否定できなかった。
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