音楽バカ
そうと決まったら、このクラスのある意味最強のアドバンテージを利用しない手はない。太鼓の演奏に、類い希な才能を持つ直井君のチェロが華を添える。日本の和太鼓と西洋音楽のチェロ。誰かがどうせなら他の楽器もどうかと発言したせいで、わたしもコントラバスで参加することになってしまった。
弦楽器での参加は直井くんとわたしの二人だなんて、わたしには気が重すぎる。違う楽器とはいえ力の差も歴然で、足手まといになりそう。
「吉野、よろしく」
直井くんはそんなわたしの気も知らずに、例の屈託のない笑みを向けてきた。
次の日から、直井くんと練習が始まった。
放課後は部活だから、部活の始まる前の時間や昼休みを利用して毎日練習。三湖夜祭まで一か月とちょっと。大変なのは直井くんでわたしのパートはそんなに難しくはないけど、わたしの弾く弦バスは直井くんのメロディと違うので、少しのミスでも目立ってしまう。
普段は優しいクラスメイトだけど、音楽のことになるとやはり普段とはまるで違った。真剣そのもので、一切の妥協を許さない。
完璧な音感を持つ直井くんは、わたしの弦バスの僅かな音のズレも聞き逃さない。
半音高い、半音低い、テンポが遅い、音が小さいと、怒濤の勢いで指摘され、何度でもできるまでやり直す。
これじゃ、吹部の顧問より厳しい。
音程は完璧だと思ったら、今度は眉間にしわを寄せてちょっと音が固いかな、と指摘してくる。直井くんの理想とする音には程遠いみたい。上手く弾こうとすればするほどわたしは固くなっていく。
わたしはプロじゃないんだから、と何度も言いかけた。
「コントラバスはきちんと習った訳じゃないけど、同じ弦楽器だから感覚的に分かるところもあるんだ。大きな音を出そうとして力むよりも、力を抜いて弾いた方が軽やかないい音が出る。聴いてて」
直井くんは固い音とそうでない音の違いをチェロで実演してくれる。
「じゃ、ここ弾いてみて」
言われところを弾いてみる。確かに自分でも音が固いと感じる。
「ちょっといいかな?」言いながらわたしの後ろに回る。
そう言って、わたしの右手の上には自分の右手を、左手には左手を重ねた。
重ねられた直井くんの手は、わたしよりずっと大きくて、わたしの手が赤ちゃんみたい。距離が近いというより、もはや後ろから抱きしめられてるのと同じだ。
いくら仲のいい友達とはいえ、男の子に抱きしめられて顔が赤くなっているこの事態に、集中している直井くんは気が付いてもいないんだろう。
まったく・・・・・・音楽のことになると、他のことは何も眼に入らないんだから。
こんなに大きな手とぴったりと密着された逞しい体に、直井くんをイヤでも男子として意識してしまう。
「吉野、もっと肩の力を抜いてリラックスして」
そんなこと言われても、この状況でリラックスできる人なんているはずない。
間違いなく眼の前の楽譜しか見えてない。
「僕に体を預けて、任せてみて」
直井くんは最初の部分をゆっくり奏でる。
「弦バスも弾けるの?」
「ちょっとだけ」
不思議なことにわたしが弾くコントラバスの音とは違う気がする。
まるで直井くんのようなまろやかで温かみのある音。
「そうそう、その感じ。いいね。もう一度やってみて」
ふぅーっと息を吐き、できるだけ力を抜いて、言われた通りやってみる。
明らかに前とは違う音がでた。確かにいい感じだ。
「凄い、こんなに変わるの!」
嬉しくて勢いよく振り返ると、直井くんの顔がすぐそこに。
「ごめんっ」
直井くんはようやく我に返ったようで、慌てて後ろに飛び退いた。
「音楽のことになると周りが見えなくなっちゃって」
「やっと気がついたか」わたしは眉をひそめた。
申し訳なさそうに頭を掻くその様子に思わず笑った。
「少し休憩しようか」直井くんはわたしの隣の椅子に座った。
「疲れた?」
「ずっと立ちっぱなしだからね。それに弦をはじいてる指が痛い。直井くんはこんなの全然でしょ?」
「僕はいつもひとりで黙々と練習しているから、吉野と一緒で楽しいよ。人の考え方や性格はみんな違うしそれぞれに個性がある。だから音にもその人の個性が乗ってくるんだ。ちょっとしたスパイスみたいにね。もし吉野が僕のチェロを弾いたとしても、全く同じ音は出ないよ」
ふ~ん、と頷いた。
あまりにも繊細な感覚で、わたしにはちょっと分からなかった。
「それで、わたしはどんな音なの?」
「吉野は・・・・・・のびやかな音かな。きっと君の弦バスはみんなで合わせる方がずっといい音がでるタイプ。吉野はどうして吹部を選んだの?」
「子供の頃、両親とオーケストラを聴く機会があったの。で、その時にすごく感動して中学になったら吹部に絶対に入ろうって決めたの。直井くんはどうしてチェロを?」
「僕の家族はみんな音楽家でね。だから生まれた時から常に音楽に触れていて、僕にとっては空気みたいに身近なものだった。だから自然にそうなったって感じかな」
「サラブレッドなんだね」
「両親はほとんど海外にいることが多くて、子供時代は随分淋しい思いもした。音楽が僕から母を奪ったって思ってた時期もあったしね。それでなのかな、母親にあなたは音楽にきちんと向き合っていないって言われたことがある。それに僕は一人でチェロを弾くより、誰かと一緒に演奏する方がずっと楽しくてね。命を削るほどたったひとつの音を追求する音楽家というのは、自分には不向きなような気がして」
直井くんは肩をすくめた。
「みんなチェロを弾くの?」
「父は指揮者で母はピアニスト。姉と妹はヴァイオリン」
「凄い!みんな違うんだ」
「ピアノには特に惹かれなかったし、姉と妹とは違うものをやりたいと思ってたから」
全員音楽家だと聞いて、腑に落ちた。会った時から思ってたけど、直井くんの雰囲気にどこか育ちの良さを感じていた。
それに性格が優しくて物腰がこんなに柔らかいのは、女兄弟がいることと、幼い頃から音楽というものに触れて育ってきたからかも知れない。
「じゃ、始めようか」
時計を確認した。まだ休憩してから5分しか経ってない。天を仰いだ。
優しいだなんて、前言撤回する。
直井悠音は、情け容赦ない音楽バカだ。
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